浅野長政は秀吉の重臣で、豊臣政権で五奉行を勤めました。イエスマンが多い印象の秀吉の家臣では硬骨漢で、朝鮮に自ら渡海しようとする秀吉に「古狐に憑かれたか!」と暴言を吐いて斬られる寸前になったとする逸話もあります。そんな浅野長政はどんな人物だったのでしょうか?
この記事の目次
浅野家の養子に入り秀吉と繋がりが出来る
浅野長政は、尾張国春日井郡北野に宮後城主安井重継の子として誕生します。しかし、織田信長の弓衆だった叔父浅野長勝に男子がなかったので、長勝の娘である彌々の婿養子として浅野家に入りのちに家督を相続しています。偶然にもこの時、浅野長勝の養女には後に秀吉の正室北政所となる寧々もいました。こうして、長政は秀吉に最も近い姻戚として信長の命令で秀吉の与力に編入されます。
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浅井長政攻めで初手柄
長政は、天正元年(1573年)、一字違いの浅井長政攻めで活躍。秀吉が小谷城主となると近江国内に120石を与えられます。本能寺の変後、長政は秀吉に仕える道を選び、天正11年の賤ヶ岳の戦いで戦功があり近江国に2万石を与えられます。翌年には京都奉行職となり、卓越した行政手腕を買われ秀吉に命令されて太閤検地を実施しました。長政は東国大名との関係が深く、豊臣政権が諸大名から没収した金銀山の管理を一任されています。
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九州征伐で活躍し若狭8万石の大名へ
長政は引き続き、九州平定などに従軍して活躍。若狭国小浜8万石の国持ち大名になりました。秀吉が関白に昇進した後、長政は従五位下・弾正少弼に叙任され、関東平定では忍城の戦いに参加、戦いに苦戦した石田三成に代わり、戦後処理で長政が主導的な役割を果たしています。小田原征伐後の奥州仕置では実行役となって中心的役割を果たし葛西大崎一揆や九戸政実の乱へ対処しました。それらの功績から天正20年(1592年)には豊臣姓を下賜されます。
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朝鮮征伐に自ら参加しようとする秀吉に諫言
長政には、硬骨漢の逸話も残されています。常山紀談によると、秀吉が文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、配下の三成はすぐに船を造りますと同調しましたが、長政は「殿下は昔と随分変わられた、きっと古狐が殿下に取り憑いたのでしょう」と嘯きます。秀吉は激怒し刀を抜きますが、長政は平然として「私の首は何十回刎ねようと天下になにほどの影響もない。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道と日本60余州が困窮し、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちています。この上殿下まで渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊が蔓延って世は乱れましょう。故に御渡海はお控え下さい」と諫言、最終的に秀吉は渡海を辞めたと言われています。
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関東大名の取次役となる浅野長政
長政は文禄の役で功績があり、甲斐国府中21万5千石を与えられて甲府城に入り、以後は東国大名の取次役を命じられます。取次役とは、諸大名の間に立って、トラブルを仲裁する仕事であり、長政は宇都宮国綱、那須資晴、南部信直、成田氏長らを与力として活動しますが、その仕事に不公平があるとして、伊達政宗より絶縁状を突きつけられた事もあります。
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私利私欲で宇都宮氏を改易にした?
伊達政宗の絶縁状のみならず、浅野長政の取次態度は東北と関東の大名にとって公平とは言えなかったようで、宇都宮国綱の改易には、長政の讒言があったとする説もあります。当時、宇都宮国綱には跡継ぎがなく、浅野長政の三男、浅野長重を養子として迎えようとしました。しかし、この時、国綱の弟、芳賀高武がこれに反対。縁組を進めていた国綱側近の今泉高光を殺害します。これで縁組が流れたので、長政は国綱を恨み、秀吉にある事ない事讒言し、改易に持ち込んだというわけです。真相は不明ですが、東北、関東諸大名の取次はかなり難しく、徳川家康や前田利家、蒲生氏郷、上杉景勝、石田三成と次々に替わっています。
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三成とは親友でもないが険悪でもない
浅野長政は、五大老筆頭の徳川家康と親しく同じ五奉行の石田三成と不仲であったとされています。しかし実際は親友ではないものの、険悪まではいかない関係性だったようです。五奉行の間でも、それぞれの立場を巡り利害の綱引きがあり、三成と長政も衝突する事があっただけで、それが感情的な対立にまで至ったとは考えにくいようです。
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家康暗殺計画の嫌疑で武蔵府中に隠居
家康と仲が良かったと思われた長政ですが、慶長4年(1599年)、前田利長や大野長治、土方久雄等と共に家康を大坂城で暗殺しようとしたとして家康に逮捕されます。長政は恐れ入って謹慎し、家督を幸長に譲ると家康の本拠地である武蔵国府中に隠居し、翌年には赦免されました。このように家康暗殺と言う大事件に関与した割に処罰が軽い事から暗殺計画は家康のでっち上げであり、長政を大坂から切り離し豊臣に関与するのを排除しようとしたとも考えられています。
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関ケ原では東軍につき天寿を全う
家康暗殺に関与したとして、武蔵国府中に隠居を命じられてより、長政は家康に忠実な存在となり関ヶ原の戦いでは東軍につき、江戸城の留守居を務めます。この手柄で慶長11年(1606年)に常陸国真壁5万石を与えられて真壁藩を起こしています。長男の幸長も東軍に味方し、関ヶ原の戦いで功をあげ、紀伊国和歌山37万石へ加増転封されました。長政自身は、真壁藩に向かわず幕府が開府すると家康の近くで働き、慶長10年に江戸に移転。1611年真壁陣屋にて死去しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
浅野長政は、戦国時代の逸話の類で石田三成と対で扱われます。大体が三成が家康を警戒するのに対し、長政は家康を信用する話で、常に長政の見立てが正しく、三成の疑り深さが強調される内容です。しかし、三成と長政が不倶戴天の敵だったかと言えば、それはそうでもないようです。
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