NHK大河ドラマ「光る君へ」において竜星涼さんが演じているのが藤原隆家です。隆家は内大臣、藤原伊周の弟で短慮な乱暴者として有名であり、兄、伊周の愛人を寝取ったと勘違いして時の花山法皇に対して矢を射かけ長徳の変の原因になりました。
隆家の行為は凋落しつつあった伊周の中関白家にトドメを刺したオウンゴールでしたが、この隆家、後年には自ら望んで大宰権帥として九州の在地武装勢力を率いて、刀伊の入寇を撃退するという救国の功績を挙げていたのです。
この記事の目次
藤原隆家の基本情報
藤原隆家は、中関白家の当主である藤原道隆の四男です。四男ではありますが道隆の正室である高階貴子の次男なので長男の伊周に次いで中関白家で重く扱われました。父の道隆が関白になると兄である伊周に劣らぬ速度で出世し16歳で権中納言まで出世します。
しかし、父、道隆の急死で権力が叔父である藤原道長に移ると対抗意識をむき出しにし、道長の従者と七条大路で乱闘騒ぎを起こしたり、道長の随身(補佐役)を殺害したりしました。さらには愛人を巡る誤解から花山上皇に矢を射かけ従者を斬り殺すなどの狼藉に及び、ついには道長の手によって権力の中枢から追い出されます。その後、大赦で復帰した隆家ですが、眼病を患ったとして自ら赴いた九州の大宰府で、1019年、女真族の略奪、刀伊の入寇を巧みな指揮で撃退し大和朝廷の窮地を救っています。このように隆家は貴族でありながら、血の気が多く武勇に優れ、多くのトラブルを起こしましたが、一方でさっぱりとした物事にこだわらない性格で、部下からの信頼を集めた一面もあります。
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藤原隆家の生年と家系
藤原隆家は、天元二年(979年)に藤原道隆の四男として誕生しました。藤原道隆は摂政であり関白でもあった藤原兼家の嫡男で、兼家の死後は関白を継いで藤原氏を率いる氏長者として朝廷に強い影響力を及ぼします。隆家はそんな道隆の正室の子なので将来は朝廷で高位が約束されたエリートと目されていました。
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藤原隆家の嫁は?
藤原隆家には、源重信の娘や藤原景斉の娘、源兼資の娘、藤原為光の娘、加賀守正光の娘などの妻が記録されています。妻の家柄から見て源重信の娘か藤原景斉の娘が正室かと考えられます。
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藤原隆家を演じる俳優は?
藤原隆家を演じるのは竜星涼さんです。16歳の時、美容院に向かう途中にスカウトされ、2010年4月放映のテレビドラマ「素直になれなくて」(フジテレビ)で俳優デビューしました。スーパー戦隊シリーズ「獣電戦隊キョウリュウジャー」のキョウリュウレッド役でテレビドラマに初出演、183センチの恵まれた体格を活かしファッションモデルとしてパリ・コレにもデビューしています。端正な顔立ちながら、脳筋のバカな役を演じるとピカイチとされ、今回の大河の藤原隆家は、その通りの役になっています。
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藤原道長と藤原隆家の関係
藤原隆家と藤原道長は甥と叔父の関係です。隆家の父、道隆は道長の年が離れた兄にあたるからです。また、隆家の妻は源重信の娘ですが道長の正室は重信の兄、雅信の娘であり、妻を通じても道長とは血縁があります。
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藤原隆家の官職と役割
藤原隆家の官職として有名なのは権中納言と大宰権帥です。特に大宰権帥は九州筑前国に設置され、九州の武装勢力を統括する軍事の重要なポストでした。隆家は貴族らしからず武勇に優れた乱暴者で、時の法皇に弓を射かける豪胆さを持っていました。隆家が大宰権帥であった頃、満洲に依拠していた女真族の一派と考えられる刀伊が壱岐や対馬を襲って略奪と島民の殺害を繰り返していましたが、隆家は博多に上陸した刀伊に対し、大蔵種材を指揮官として派遣して迎撃し、これを追い払う戦功を立てています。また隆家は武勇に秀でるだけではなく、荒くれ者が多い九州の在地武装勢力をすっかり心服させ、領地でも善政を敷いたそうです。
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藤原隆家の業績
藤原隆家、最大の業績は寛仁三年(1019年)に発生した刀伊の入寇を阻止した点でしょう。刀伊とは、当時満洲に住んでいた女真族の一派で交易をしながら時々、海を渡って九州各地で略奪行為をしていました。女真は後に金国、さらには清帝国を建国するような勇猛な狩猟民族でしたが、隆家はものともせずに応戦して追い払いました。
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藤原隆家は何をした人?
藤原隆家のした事で重要なのは、兄の愛人を寝取られたと勘違いして花山法皇に矢を射かけてしまい、兄の藤原伊周を決定的に没落させてしまった事と、後年、九州の博多に押し寄せてきた刀伊(女真族の一派)を大蔵種材を派遣して撃退した事です。最初は大チョンボのようですが、藤原伊周が失脚した事で、藤原道長と子の頼通、教通の二代80年に渡る藤原摂関政治の幕が開いたので、こちらも歴史的には必要な事だったかも知れません。
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刀伊はどこに住んでいた?
刀伊は10世紀から13世紀初頭に、アムール川水系からウラジオストク、さらに北側にかけての沿海州の日本海沿岸部に進出し、アムール川水系と日本海北岸地域からオホーツク海方面への交易に従事し、時々略奪行為をしていました。刀伊の入寇を起こした女真族集団は日本海沿岸を朝鮮半島づたいに南下して来たと考えられます。
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刀伊の入寇とその影響
刀伊の入寇は総大将である隆家によってすぐに朝廷に知らせられますが、京都からほぼ出た事がない高級貴族ばかりの朝廷にとって、遠い九州で起きた侵略は他人事で、危機意識が欠如し、侵略への対応よりも隆家が出した書状の内容にあれこれケチをつけるレベルでした。そんな中で隆家は刀伊を撃退し、刀伊に拉致された住民を護送してきた高麗王朝に対応し、ポケットマネーからお礼の品を与えるなど、軍事、外交の両面で活躍しました。若い頃に勘違いで花山法皇に矢を射た人物とは思えない英傑ぶりですね。
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藤原隆家と文化
若かりし頃とはいえ、花山法皇に矢を射かけ、権力者藤原道長にも媚びない気骨ある武人の風格を持つ隆家ですが、幼い頃から英才教育を受けていて歌人としても業績を残しています。勅撰和歌集である後拾遺和歌集にも二首が採用され、新古今和歌集にも一首、和歌作品が採用されています。漢詩も「本朝麗藻」に七言律詩一首が残っています。
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藤原隆家の家族
藤原隆家の父は関白である藤原道隆であり、母は小倉百人一首にも登場する女流歌人、高階貴子です。同母兄は内大臣まで昇進した藤原伊周がいて、隆家の姉には一条天皇の中宮になった定子がいます。異母兄弟には祖父の兼家の養子となった藤原道頼や左近衛中将を長年務めた藤原頼親がいます。このように隆家の家族は当時の日本で屈指のエリートでした。
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子孫とその系譜
隆家の子孫では長女が三条天皇の皇子式部卿敦儀親王に嫁いでいて、もう一人の娘は参議藤原兼経を婿にしています。隆家の長男良頼は正三位権中納言と隆家と同じ官位まで昇進、良頼の娘は参議、源基平の正室となり、後三条天皇の寵愛をうけた源基子を生んでいます。
この良頼の4代後の子孫には、平清盛の継母として源頼朝の助命を嘆願したとされる池禅尼がいました。一方、隆家の次男藤原経輔は、父の官位を越えて正二位権大納言に昇進。水無瀬大納言と呼ばれます。この経輔の五世の孫にあたる従三位藤原忠隆の娘は近衞基実の正室となって藤原基通を生みますが、その兄弟である藤原信頼は平治の乱の首謀者として敗れ、平清盛に処刑されています。
また、藤原経輔の同じく五世の孫、修理大夫信隆の娘、七条院殖子は後白河天皇に輿入れして後鳥羽天皇を産んでいます。また、刀伊の入寇を防いだ武人としての隆家の武勇にあやかったのか、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子、懐良親王を擁立した肥後の豪族菊池氏は隆家の後裔を称しています。個人としては不遇な隆家ですが、日本史を揺るがす大事件を起こしているだけあり、その子孫からも日本史に深く関与した人物が登場しています。
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藤原隆家を描いた作品
藤原隆家を描いた作品には、葉室麟の「刀伊入寇 藤原隆家の闘い」があります。従来の花山上皇に矢を放った乱暴者としての隆家ではなく、日本史上の大事件である刀伊の入寇を撃退した武人として隆家を描いています。
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大河ドラマや映画での描かれ方
藤原隆家は、これまで映画や大河で登場した事はないようです。平安時代そのものが平安末期を除いては、あまり視聴者に馴染みがない時代であり、必然的に藤原隆家も描かれない事が多いのです。
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藤原隆家を演じた俳優
藤原隆家を演じた俳優には、2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」の竜星涼さんしか出てきませんでした。そのため、今後の隆家のイメージは竜星涼さんの演技がベースになると考えられます。
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藤原隆家の現代における評価は?
藤原隆家の従来の評価は、勘違いで時の法皇である花山院に対して矢を放つというさがな者(乱暴者)としての評価が強いものでした。この短慮のせいで隆家も兄の伊周も九州に左遷される事になるのですから隆家の評価が低いのも当然です。しかし、その後、自ら望んで大宰権帥になった時、女真族の一派である刀伊の侵略を撃退したり、国防への反応が鈍い朝廷に対して、自ら動いて高麗からの日本人人質の返還に謝礼を出したり等、元寇に300年近く先んじて、日本を侵略から救った救国の英雄としての評価が強まっています。
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百人一首に藤原氏は何人?
百人一首は、万葉集のように広い階層から和歌を集める事をしていないので、多くが貴族に詠まれた和歌です。そのため、天皇に近しい高級貴族が多く、その中でも藤原氏がダントツの人数であり、小倉百人一首に収められた和歌の中で三十三が藤原氏によるものでした。
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百人一首への貢献
藤原隆家の和歌は小倉百人一首には含まれていません。ただ隆家の母である高階貴子の和歌が百人一首に選ばれています。
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紫式部時代の天皇は誰?
紫式部が活躍した時代の天皇は、一条天皇と三条天皇です。紫式部は一条天皇の中宮である彰子の女房兼家庭教師として活躍しています。一条天皇は若くして即位した関係で在位は25年に及びますが、その間、藤原摂関家との関係は良好で政争も少なく、宮中では国風文化と呼ばれる日本独自の文化が花開きました。
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紫式部や清少納言との関係
藤原隆家と紫式部や清少納言との関係は無関係であったとは言えません。まず、清少納言は一条天皇の中宮である定子に仕えていた女房でしたが、隆家にとって定子は姉にあたるので、時々、屋敷までやってきて会話をし枕草子にはその様子が描写されています。紫式部が同じく一条天皇の妃であった彰子に仕えていた時代には隆家は失脚していたので、直接のやり取りは残されていませんが、紫式部の父の藤原為時は隆家と同じく藤原北家の流れを汲んでいるので、とても遠いとはいえ隆家と紫式部は親戚とも言えるのです。
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まとめ
藤原隆家の評価は2つに分かれます。最初は権力者である父、藤原道隆の庇護の下で何不自由なく過ごし我儘で傲慢な性格となり、花山法皇に矢を射かけるまでになった乱暴者の評価。次が権力争いに疲れて自ら大宰権帥として九州博多に赴任し、善政を敷いて在地の武装勢力をまとめ、偶々襲来してきた女真族、刀伊の入寇を阻止した英雄としての評価です。これらを見ると、元々、隆家には英雄的な素質が備わっていましたが、甘やかされたせいで目覚める事はなく、父の死後に怒涛のように押し寄せた苦難の中で、自分を見つめ直し、次第に英雄的な素養が開花したのでしょう。もし、父である道隆が後5年でも長生きしていれば、隆家も充分に政治的経験を積んで、兄の伊周を支え、道長の天下は来なかったかも知れませんね。