NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」13話「幼馴染みの絆」で登場した信濃の雄、源(木曾)義仲。従来、勇者だが乱暴者として描かれる事が多かった義仲ですが、ドラマでは思慮分別があり礼儀正しい人物として描き、人気も急上昇しています。
さて、そんな義仲が頼朝より先に上洛する契機になったのが倶利伽羅峠の戦いですが、この戦いはどんな戦いだったのでしょうか?
この記事の目次
倶利伽羅峠の戦いはどうして起きた?
では、最初に倶利伽羅峠の戦いはどうして起きたのかを解説します。
倶利伽羅峠の戦いは寿永2年(1183年)6月2日に越中と加賀の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で源義仲と平維盛率いる平家の間で起こりました。
この時、平家は10万騎の大軍を擁していたそうですが、ちょっと変だと思いませんか?
どうして京都から離れた越中と加賀の国境まで平家は10万もの大軍を繰り出したのでしょう。
その答えは養和の大飢饉による畿内の食糧不足にありました。
この事態を回避するために平家は西日本と関東から食糧を輸入していたのですが、西日本でも飢饉の影響で食糧が入らなくなり東海道では近江源氏や美濃源氏、それに甲斐源氏の武田信義や鎌倉の源頼朝の軍勢が畿内への食糧供給の邪魔をしていました。
こうなると残るルートは北陸道しかないのですが、源義仲が北陸を支配する平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り勢力を北陸方面に広げ、北陸においても食糧調達が難しくなったのです。
そこで平家は討伐軍を出して源義仲を滅ぼし、北陸道の食糧供給ルートを確保しようとしました。これが倶利伽羅峠の戦いの最大の要因です。
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錦の御旗を得た源義仲
さて、北陸道に勢力を伸ばした義仲ですが、それだけでは上洛の大義名分が立ちません。現代人の感覚では、圧倒的な軍事力で都の平家を打倒すれば無条件で上洛できると考えてしまいがちですが、何のお墨付きも得ていない大軍が無断で京都に入れば、下手をすれば天皇や上皇に謀反人認定される恐れもありました。
義仲もそれを気にして迂闊に上洛が出来なかったのですが、そこに幸運が舞い込みます。平家の手を逃れた以仁王の遺児、北陸宮が讃岐国の前国司である藤原重秀に伴われて、北陸道に避難し義仲の勢力下に入ったのです。
これで義仲は親王を奉じて平家を追討する大義名分を手にしました。
平家もそれまでは、源義仲については頼朝や信義を滅ぼした後で攻めよう程度に考えていましたが、義仲が北陸宮を擁した事で悠長に構える事が出来なくなったのです。
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平家軍と義仲軍の激突
寿永2年の春より、平家は平維盛を総大将に10万の大軍で北陸に攻め込みます。対する義仲軍は叔父で独立軍を率いている源行家を含めても4万騎と半分以下でした。
維盛は数の優位を活かして越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲は越中国へと退却します。しかし、5月9日の明け方、加賀国から軍を進めて般若野の地で兵を休めていた平家の先遣隊である平盛俊の軍が義仲の先遣隊である今井兼平に奇襲されて戦況不利に陥り一時退却してしまいました。
一旦退却した平家軍は軍を二手に分け、能登国志雄山に平通盛と平知度の3万余騎、加賀と越中の国境の砺波山に平維盛と平忠度等7万騎が二手に分かれて陣を敷きます。
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平家が義仲の計略にハマる
この時、平家の主力が砺波山に陣を敷いたのは義仲の計略にハマったからのようです。砺波山を越えると、そこには砺波平野が広がっていて、平家軍10万騎は十分に数の優位を活かす事が可能であり、兵力において劣る義仲は、それを回避して倶利伽羅峠に平家軍を押しとどめておく必要がありました。
そこで義仲は、日宮林という所に源氏の白旗を大量に立てさせ、さも自分達が大軍であるかのように装ったのです。これは孫子の兵法の樹上開花という計略で義仲が兵法に通じた名将であった事が分かります。
平維盛は義仲軍が思いもよらない大軍である事に驚き、倶利伽羅峠を下りる事を躊躇。猿ヶ馬場という所に陣を敷いて義仲の様子を窺う事にします。それを知った義仲は、志雄山に陣取る平通盛と平知度の3万の平家軍を牽制する為に、叔父の源行家の軍勢1万を派遣して釘付けにしました。
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源義仲、平家軍を地獄谷に突き落として大勝利
倶利伽羅峠の南には地獄谷と呼ばれる深い谷が存在します。この事は北陸をホームグラウンドにしている義仲は知っていますが、アウェーである平家軍は知りません。
そこで義仲は平家軍に三方から夜襲を掛けて動揺させ、唯一残る南に平家の兵を追い込んで崖に突き落として殺す事を計画します。義仲は平家軍に逃げられないように腹心の樋口兼光に3000騎を率いさせ、戦場を大きく迂回させて平家軍本隊の背後に回り込みませて退路を断ちました。
そして、義仲本隊の20000騎、今井兼平の2000騎、余田次郎の3000騎、巴御前の1000騎、根井小弥太の2000騎が一斉に倶利伽羅峠に向かって夜襲を掛けたのです。
義仲軍を大軍と信じこんでいる平家本隊は、まさか義仲軍が夜襲を掛けるとは考えていませんでした。突然の鬨の声に驚いた平家軍は戦う所ではなく、蜘蛛の子を散らすように逃げ去りますが、南を除いてどこも義仲の軍勢が待ち構えています。
当然、助かりたい一心の平家の兵は断崖絶壁である地獄谷に向かって突進。崖だと気づいても後から押し寄せてくる味方によって戻る事が出来ず次々に将棋倒しの格好で地獄谷に転落し、大量の死者を出して壊滅しました。
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倶利伽羅峠の戦いで義仲は歴史に名を刻む
7万の大軍の大半を失った維盛は命からがら都に逃げのびます。もはや平家には都を維持する軍事力はなく、三種の神器と安徳天皇を引き連れて福原に遷都し、さらに九州を目指して落ちていくのです。
一方で平家を破った義仲は北陸宮を押し立てて上洛を果たし、ライバルである頼朝や信義よりも先に後白河法皇を救出するという大手柄を挙げ、日本史にその名を刻む事になりました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、鎌倉殿の13人では、あまり触れられないであろう倶利伽羅峠の戦いを解説しました。強いけれど粗野な人として知られる義仲ですが、孫子の兵法を用いた戦い方など、源氏の御曹司として必要な素養を持っていた事が分かります。
このように乱暴者ではなかった義仲ですが、京都に暮した経験がなく、また兵力が寄せ集めで、何より京都は深刻な食糧不足である事などが災いし人望を失い上洛から僅か60日で謀反人として、同じ源氏の源義経に討伐される事になりました。
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