NHK大河ドラマ「光る君へ」で木村達成さんが演じるのが三条天皇です。三条天皇は藤原兼家の娘、藤原超子を生母としていますが、若くして母が死に、また後ろ盾だった祖父の兼家が死去した後は、藤原摂関家との関係も途絶えました。一条天皇の急死で、俄かに天皇に即位しますが、その段階で36歳であり道長の言いなりにはならず、激しく対立する事になります。
この記事の目次
三条天皇のプロフィール
三条天皇は、諱を居貞と言い冷泉天皇と藤原兼家の娘、超子との間に誕生します。しかし居貞親王が誕生した時、精神に問題があった冷泉天皇は弟に譲位して上皇になっており、また生母の超子は居貞親王が7歳の時に亡くなっていました。居貞親王は外祖父である兼家に風貌がソックリだったそうで、兼家は親王を可愛がり、一条天皇の即位後に皇太子に立てますが、兼家が死ぬと藤原摂関家との関係は完全に冷却しました。
しかし、一条天皇が急死した事で居貞親王は36歳で即位します。この時、三条天皇の皇太子は藤原道長の孫である敦成親王と定められました。道長は三条天皇に娘の姸子を入内させますが皇子が産まれず、また三条天皇は不遇の時からの正室である藤原娍子を道長の反対を押し切って皇后に昇格させたため道長との関係が悪化します。道長は三条天皇を早期に退位させ、孫の後一条天皇を即位させようと画策。三条天皇は反発しますが眼病に侵され、不審火も相次いだ事で心が折れ、皇子である敦明親王を後一条天皇の皇太子にする事を条件に譲位。翌年に42歳で崩御しました。
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三条天皇の生涯と治世
三条天皇の治世は僅かに5年に過ぎないので文化的にみるべき事績はありません。また、三条天皇は、時の権力者である藤原道長との関係が険悪でした。険悪である理由は天皇と道長の娘の姸子の間に皇子が誕生しなかった事、そして天皇が不遇の時代から自分を支えてくれた正室、藤原娍子を道長の反対を押し切って皇后に昇格させた事も要因です。三条天皇と娍子の間には敦明親王がいて、これも自分の孫を天皇に即位させたい道長には目ざわりでした。そのため、三条天皇の時代の政治は円滑さを欠いていて、先代の一条天皇の時代のようにはいかなかったようです。
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三条天皇と和歌
天皇は、百人一首に和歌が採用された歌人でもあります。その和歌は三条天皇が藤原道長に強引に譲位させられた時の心情を詠んだもので、天皇であっても権力者、藤原道長の威光を無視しては何も出来ない悲哀と、それでも生きながらえる事が出来たら、いつか天皇であった最後の夜に眺めた月を懐かしく思い出す事であろうとしています。しかし、三条天皇は譲位した翌年には失意の中で42歳の生涯を閉じ、あの日の月を懐かしく思い出す事は叶いませんでした。
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三条天皇の有名な一首「心にもあらでうき世にながらえば」の解説
三条天皇の有名な和歌「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」を解説します。この和歌は天皇が後一条天皇に譲位した時に詠んだとされます。内容は「思い通りに生きられない辛い人生であるが、もし長生きする事が出来たなら今宵の月を懐かしく思い出す日が来るのであろうか?」です。この和歌には、まだまだ天皇でありたい、譲位などしたくないという天皇の無念の思いが綴られていますが同時に、それでも長生きできたなら、こんな最悪の月も懐かしく思い出す時が来るだろうと諦めの境地も含まれています。
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家系と皇族関係
天皇の時代は、村上天皇の崩御から継続していた冷泉天皇と円融天皇の直系子孫が交互に天皇を出す両統迭立の時代でした。村上天皇は最初、藤原安子との間に誕生した憲平親王を皇太子に立てますが、憲平親王は成長すると奇行を繰り返すようになり、精神に病がある事が明らかになります。村上天皇には、もう1人、藤原安子との間に誕生した守平親王がいましたが、藤原摂関家の手前、憲平親王を皇太子から降ろす決断が出来ないまま、崩御してしまい、そのまま18歳の憲平親王が即位し冷泉天皇になりました。
しかし、天皇に即位しても冷泉天皇の奇行は収まらず、また冷泉天皇には皇子が誕生していなかったので、朝廷は冷泉天皇を早期に譲位させ9歳年下の守平親王を円融天皇として即位させます。この場合、円融天皇は自分の子である懐仁親王を皇太子にしても良さそうですが、天皇は父である村上天皇の遺言を守り、冷泉天皇の皇子である師貞親王を皇太子に指名して譲位します。師貞親王は即位して花山天皇になりますが、円融天皇の意向を尊重し円融天皇の皇子である懐仁親王を皇太子に指名しました。花山天皇が寛和の変で強制的に出家させられると、懐仁親王(一条天皇)が即位しますが、僅か7歳で子どもがいませんでした。そこで、また村上天皇の遺言に従い、冷泉天皇の皇子から選ばれたのが居貞親王です。
一条天皇が崩御すると居貞親王が三条天皇として即位し皇太子には一条天皇の子、敦成親王(後一条天皇)が指名され、また、冷泉天皇と円融天皇の直系子孫の迭立が続きます。三条天皇が敦成親王に譲位する時、自分の皇子である敦明親王を後一条天皇の皇太子にするように藤原道長に命じますが、道長は三条上皇の死後、約束を破り敦明親王の皇太子を辞退させます。代わりに皇太子になったのは後一条天皇の弟にあたる敦良親王でした。こうして、50年近く続いた両統迭立は終結し、以後の天皇はしばらく円融天皇の系統に一本化されます。
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一条天皇との関係
三条天皇と一条天皇の関係は、伯父と甥の関係にあたります。一条天皇の父である円融天皇と三条天皇の父である冷泉天皇は同母兄弟だからです。現在の感覚では天皇の子が皇太子になるのが当たり前ですが、平安中期にあたる時代には、冷泉天皇と円融天皇の直系子孫が交互に天皇を出す慣例が出来ていて、そのため三条天皇は叔父の円融天皇の子である一条天皇を皇太子に据えていました。
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三条天皇の皇后と皇太子
三条天皇の皇后は、贈右大臣藤原済時の娘である藤原娍子です。元々は好色で有名な花山天皇に入内する予定でしたが、済時が固辞し、三条天皇に入内しました。娍子は大変な美貌の持ち主と伝わり、三条天皇とも仲睦まじく、皇太子となる敦明親王をはじめとして四男二女を儲けました。しかし、自らの娘を三条天皇に嫁がせて、あわよくば男子を産ませて、皇太子にしようと画策する藤原道長にとっては、娍子も敦明親王も邪魔者でしかなく、道長の政治的圧迫に曝されていく事になります。
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三条天皇と藤原道長
天皇と藤原道長は、2つの原因から対立が回避できませんでした。第一には、三条天皇に入内した道長の娘の姸子が男子を産めなかった事です。そして、もう一つは三条天皇には、正室の藤原娍子との間に四人の男子と二人の女子がいた事でした。平安時代の中期、貴族が権力を握るためには、天皇に娘を入内させて男子を産ませ、その子を天皇として即位させて外祖父として権力を振るう道しかありませんでしたが、三条天皇相手には、それが出来ないばかりか、敦明親王が即位した場合には権力が道長から藤原済時の子である為任に移行する恐れさえあります。そのため道長と三条天皇は対立するしかなかったのです。
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三条天皇の逸話と文化的遺産
三条天皇の逸話には、眼病を患い、無念の思いで譲位する時に詠んだとされる和歌があります。この和歌は出来栄えが素晴らしかったので、皮肉にも百人一首の中に選ばれ、現在でも三条天皇の無念がこもった文化遺産である百人一首を私たちは目にする事が出来るのです。
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百人一首と三条院の関連
三条天皇は、三条院の名前で小倉百人一首の68番目に和歌が採用されています。その和歌は「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」です。この歌は藤原道長に退位を強要され、眼病も患った天皇が無念の思いを込めて詠んだ和歌ですが、出来栄えが素晴らしいので小倉百人一首に収録され、後世に残る事になりました。
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百人一首は誰が作ったの?
百人一首は鎌倉時代初期の歌人、藤原定家が選んだ和歌が元になっています。元々は百人ではなく九十七人だったそうですが、その後数人を増やして百人一首となりました。百人一首が数ある和歌集でもとりわけ有名になったのは、これが江戸時代にカルタになって年中行事で遊ばれるようになり、子供の頃から馴染みのある和歌になったからです。
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三条院はどんな人?
三条院は芯が強く、権力者であった藤原道長の言いなりにはならない気骨がありました。また、正室であった藤原娍子を深く寵愛し、道長の機嫌を損ねる事を承知の上で、娍子を皇后にして、道長の娘の姸子の地位よりも上にするなど勇気がある人でもありました。しかし、すでに権力基盤を安定させていた道長には逆らえず、失意のうちに天皇の地位を退く事になってしまいます。
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日本の最年少天皇は誰ですか?
日本の最年少天皇は、79代の六条天皇です。六条天皇は生後八カ月で祖父である後白河法皇の命令で天皇に即位しました。そして在位二年八カ月で叔父の憲仁親王に譲位。3歳で史上最年少の上皇になっています。
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最も若くして亡くなった天皇は?
日本史上、もっとも若くして亡くなった天皇は、81代の安徳天皇です。安徳天皇は1185年に壇ノ浦の戦いで平家一門と共に海中に没して崩御しますが、その時の年齢は満六歳四カ月で史上最年少であると同時に、戦争で命を落とした唯一の天皇でもあります。
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三条天皇の陵と追悼
三条天皇の陵は、宮内庁によって京都府京都市北区衣笠西尊上院町にある北山陵に治定されています。宮内庁上の形式では三条天皇の陵は円丘であるようです。
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まとめ
三条天皇は、道長の父である藤原兼家の娘、超子の子なので本来は藤原氏を外祖父に持つのですが、兼家死後は、道隆や道長との交流が薄く、やがて摂関家との縁が切れてしまいます。しかし冷泉系と円融系の両統迭立の皇位継承が続いていた中で甥の一条天皇の皇太子となり、一条天皇の急死で36歳という当時としてはかなり遅い即位となりました。摂関家に冷遇されていた事で自ら政治を執る事に執着した三条天皇ですが、その頃には対立する権力者、藤原道長の権力が大きくなりすぎていて、譲位を余儀なくされる悲運に見舞われました。