NHK大河ドラマ「光る君へ」において、町田啓太さんが演じているのが藤原公任です。史実の公任は、容姿に秀でているだけでなく、藤原北家の名門に生まれ、生母も母も天皇の孫娘であり、姉が円融天皇に入内して中宮になるなど最高のサラブレッドであると同時に、和歌や漢詩、管弦など多彩な才能を有するエリートでした。今回は平安の完璧超人、藤原公任を解説します。
この記事の目次
藤原公任とは?
藤原公任は、平安中期の公卿であり中古三十六歌仙にも選ばれる歌人でした。最終的な地位が権大納言でしたので大納言公任。または、四条大通りに屋敷があったので四条大納言とも呼ばれます。彼は藤原北家小野宮流という名門貴族の出身で、祖父の実頼、父の頼忠と太政大臣と関白を務めています。
公任の母は醍醐天皇の孫、妻は村上天皇の孫と高貴な血筋であり、具平親王、右大臣藤原実資、書家藤原佐理が従兄弟にあたるなど、身分ばかりではなく芸術面でも恵まれた才能を持ったサラブレットでした。将来を嘱望された公任ですが、父の頼忠が老齢で関白を退くと後ろ盾を失いました。
さらに公任は藤原氏長者となった藤原道隆に反発し、道隆の弟の道兼に接近、道兼の養女の婿となって関係を強化しますが、道兼は関白になって間もなく疫病で病死するなど不運が続きます。ここにきてようやく公任は台頭してきた道兼の弟、藤原道長に接近しますが、時すでに遅く大臣どころか正官の大納言への昇進も叶わず、また大事にしていた愛娘の死も重なったため人生を悲観して出家、76歳でこの世を去っています。
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藤原公任は何時代の人?
藤原公任は平安時代中期の高級貴族です。平安時代は平安前期(782~900年)平安中期(901~1093年)平安後期(1094~1086年) 平安院政期(1087~1184年)で分類され、それぞれがおよそ百年間もあります。藤原公任は966年から1041年まで生きているので、平安中期に分類される人物と言う事になります。
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藤原公任は何をした人?
政治的には大きな功績を残す事がなかった公任ですが、和歌や漢詩、管弦の「三舟の才」に優れていました。また、多くの和歌を編纂して歌集を残し後世に伝える大きな功績を挙げました。公任は道長に権力闘争で敗れた鬱憤を晴らすため、自らの文化的才能を誇示し、隆盛を極める藤原氏九条流に対し、本来の直系である小野宮流を受け継ぐ当主としての意地を見せたのです。ただし公任は道長をライバル視しながらも、同世代の藤原斉信等と共に青年期から道長と行動を共にする事も多く、友達として互いに認め合う関係でもあったようです。
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藤原公任の功績は?
藤原公任の功績としては、史上初めて判決文に懲役年数を記載するようになった事が挙げられます。平安中期、強盗や窃盗、私鋳銭を作るの3つの罪は検非違使が裁判をおこなっていました。この頃、検非違使の最高責任者、検非違使庁別当のポストに遭った公任は、それまで判決文に懲役年数が記されていない事に矛盾を感じ、法律家であった惟宗允亮に命じて、初めて判決文に懲役年数が書かれることになりました。
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藤原公任の兄弟は?
藤原公任には、源重信と結婚した姉、円融天皇に入内して中宮になった遵子、妹の諟子、弟の頼任、出家した最円がいます。この中で最も有名なのは姉の遵子で、円融天皇に入内し、同時期に入内した藤原兼家の娘の詮子と帝の寵愛を得ようと競い合いました。
競争では遵子が勝利し中宮になったので、弟の公任は詮子に対して、「こちらの女御はいつになったら皇后になるのか?」と軽口を叩いて藤原兼家に恨まれます。ところが遵子には子供が出来ず、その間に詮子が懐妊し後の一条天皇を産んだので立場が逆転してしまいました。結局、遵子には男子が生まれず、権力は次第に藤原兼家の右大臣家に移っていく事になります。
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藤原公任の妻は誰?
藤原公任の妻は、藤原道兼の養女で村上天皇の第五皇子、昭平親王の娘でした。当時、公任は横暴な藤原道隆を嫌い、道隆の弟である道兼に接近していて、道兼の養女の婿になったのも関係性を強めるためだと考えられます。しかし、道兼は兄の死後に念願の関白に就任したものの、疫病に感染して急死しました。ただ、公任と道兼の養女の関係は悪いものではなかったようで、藤原定頼や良海、藤原教通の娘、藤原遵子の養女の二男二女に恵まれています。
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藤原公任と藤原道長の関係
藤原公任と藤原道長の関係はハトコ同士です。公任も道長も藤原北家という名門貴族の出身ですが、道長はその藤原北家の九条流、公任は小野宮流の系統です。公任と道長の共通の祖先は曾祖父にあたる藤原忠平で、この忠平の嫡男が公任の祖父である藤原実頼、次男が道長の祖父である藤原師輔でした。
本来なら忠平の嫡流である藤原実頼が偉いのですが、実頼は娘を天皇に入内させたものの、男子が生まれませんでした。逆に師輔の娘は天皇との間に将来の天皇となる皇子を2名も産んだため、両者の立場は逆転してしまい、道長の九条流が本流になってしまったのです。そのような経緯から公任は道長にライバル意識を持っていましたが、同時に2人は若い頃から共に行動する事も多く、お互いに認め合っている部分もありました。
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藤原公任の家系図
藤原公任の家系図は、平安中期の上流階級の全ての要素を詰め込んだものでした。公任の家は藤原北家小野宮流と呼ばれ、五代前の藤原基経から父である藤原頼忠までが、代々関白、太政大臣を務めていました。現在の日本に例えると明治時代の先祖から令和の現在まで、歴代当主が全て総理大臣に就任しているようなスゴさです。
公任は父方のみでなく、母方も豪華で、生母は醍醐天皇の孫娘、妻も村上天皇の孫娘という絵に描いたようなセレブでした。そのような公任なので非常に誇り高いと同時に子供っぽい部分もあり、同期の友達である藤原斉信に位階を越された時には落胆し、出仕を拒否した上に、当時の最高権力者、藤原道長に辞表を提出しています。
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藤原公任の死因
藤原公任の死因は、湿瘡だとされています。湿瘧は疥癬虫やヒゼンダニが肌に寄生する事で起こり、激しい痒みを引き起こす事で知られています。感染すると皮膚に赤い斑点が出来たり、爛れたり、水疱瘡のようなカサブタが出来たりします。公任は湿瘧に罹ってから10日間ほど苦しんだ後で76歳で死んだので、皮膚を掻きむしった結果、別の感染症にかかり、高齢のために抵抗力が弱っていたので病死したのかも知れません。
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藤原公任の子孫は?
藤原公任の息子の藤原定頼は、位階は正二位まで上昇しましたが、藤原北家九条流全盛の中で官職は停滞し、中納言まで届かぬ権中納言止まりで、父公任よりも出世しませんでした。定頼は公任同様に芸術家肌で、音楽や読経、書の名手でしたが軽薄な性格で人間関係のトラブルを起こす事も多く、それが昇進の遅れに繋がった可能性もあります。
定頼の子、経家や孫の公定は、父や祖父のような子どもっぽさはなく朝廷で真面目に役職を務めますが、代を経るごとに官位昇進は遅くなり、中級貴族へ転落していきました。一方、公任の娘は藤原道長の次男である教通に嫁いで男子を産みます。こちらは藤原信長と言い、兄の頼通の跡を継いで関白になった父、教通の後継者として関白の地位を狙える位置にいましたが、父の急死により関白の地位は、伯父、頼通の子、藤原師実に移ってしまい関白にはなれませんでした。以後、信長の系統からは公卿が出る事はなく、かつては天皇に次ぐ高貴な血筋だった小野宮流の影響力は途絶えてしまいます。
ちなみに藤原公任の小野宮流からは、関白太政大臣、藤原忠平の9世の孫として藤原国兼という人物が登場し、永久2年(1114年)に岩見国司として赴任、そのまま土着して御神本氏を名乗り、鎌倉時代初期の御神本兼高の時代には岩見に武士団を形成し、御神本氏から益田氏へ苗字を変更しました。戦国時代に至ると益田氏は多くの分家を出しながら戦国大名大内義隆に仕え、その後、毛利元就に攻め込まれて敗北すると毛利家に臣従。明治維新では維新の功労者として男爵益田家を興して華族に列し、現在まで続いています。
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藤原公任が果たした役割とは?
歌人として名高い藤原公任ですが、その背景には朝廷の人材不足もあったようです。公任は長徳年間(996年~999年)頃に、私撰和歌集「拾遺抄」を編纂していますが、この「拾遺抄」は花山上皇が将来、勅撰和歌集を編纂する目安として、公任に編纂を命じられた経緯があります。
当時、公任は30代で、本来なら勅撰和歌集の編纂という大役が回ってくる事は無かったのですが、当時の朝廷では、清原元輔や平兼盛、大中臣能宣、藤原仲文のような和歌の達人は世を去っていて、和歌の名手だった藤原長能や源重之は地方に下っていました。このような歌壇の人材不足の背景から藤原公任が撰者を命じられたわけですが、この時、見事に「拾遺抄」を編纂した事で公任は歌壇の第一人者へと昇格しました。
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公任集の作者は誰?
公任集は、平安時代の歌人・藤原公任によって編纂された歌集です。勅撰和歌集の選者でもあった公任の作品約1400首が納められ、平安中期の和歌の代表的な作品として知られています。公任集は公任のみならず、公任が優れた和歌と評価した歌も収録されているほか、題詠歌や贈答歌など、当時の様々なジャンルの和歌も納められていて、平安時代の貴族の心情や文化を知る上での重要な史料であり、後世の歌人に大きな影響を与えました。
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藤原公任が編纂した歌集は?
藤原公任が編纂した歌集には「大納言公任集」や私撰集「金玉和歌集」、歌論書「新撰髄脳」「和歌九品」などがあります。また「和漢朗詠集」や三十六歌仙のネタ元となった「三十六人撰」は公任が撰んだものです。すでに書きましたが公任は花山天皇が出家後に趣味で編んだ「拾遺和歌集」のたたき台となる「拾遺抄」も編纂しています。
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藤原公任は何家?
藤原公任は藤原北家小野宮流です。小野宮流は公任の祖父、藤原実頼の時代に九条流から分家しました。本来、実頼が藤原北家九条流の嫡男だったのですが、天皇に娘を嫁がせても男子が生まれず、逆に異母弟の師輔の娘が天皇との間に男子を産んだので、実頼の小野宮流は藤原北家の主流から外れ、傍系になってしまいました。藤原道長は藤原師輔の孫なので、公任と道長はハトコ同士です。
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大納言として有名な人は?
大納言は、高級貴族の通過点であり、多くの権力者が大納言から右大臣、左大臣、関白、摂政へと地位を登っていきました。逆に最終官位が大納言で終わってしまう貴族は権力闘争に敗れたか、病気により短命であったなどのケースが多いです。そんな大納言には、伴大納言絵巻で有名な、大納言伴善男や大納言公任の異名で知られる藤原公任がいます。この中で伴善男は応天門に放火して燃やした犯人として捕らえられ流罪となり、官位は大納言で止まり、藤原公任は時流を読む事が出来ずに出世に乗り遅れ、権大納言止まりでした。
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光源氏のモデルは誰?
光源氏のモデルは、藤原道長であるとされていましたが、実際には同時代に紫式部が見てきた高級貴族の特徴を寄せ集めてつくられたキャラクターであるようです。また、藤原公任は源氏物語を読んでいたようで、後一条天皇の誕生祝の席で酔って、紫式部に「このあたりに若紫はいませんか?」と戯れに呼び掛けたそうです。紫式部は、光源氏もいないのに若紫がいるわけがないと日記で呆れていますが、公任は泥酔して、育ちの良さと鼻にかけ、「我こそは光源氏だ」とうぬぼれていたのかも知れませんね。
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まとめ
今回は平安中期のスーパーエリート、藤原公任の生涯と功績、その家系と子孫について解説してみました。時流を読む目がなく、ついに大納言にすらなれなかった悲劇のエリート公任ですが、歌人としては超一流であり、多くの名歌を選んで編纂し、21世紀の現在まで残す偉業を残しました。道長の藤原摂関家の栄華は百年に満たないものでしたが、公任の事績は千年以上も残っていて、文化面においては道長は公任に全く及ばなかったと言えるでしょう。
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