源為朝は平安時代のモビルスーツと呼ばれています。
もちろん当時からそう呼ばれていたわけではありませんが、弓を引いては右に出る者はいないという強い武士で軍記物「保元物語」は源為朝の活躍を最大限に誇張して書いています。では為朝のモビルスーツぶりはどんなものだったのでしょうか?
この記事の目次
なんで平安のモビルスーツ?
そもそも源為朝が平安のモビルスーツと呼ばれるようになったのは、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の公式サイトが原因です。
ここでは大河ドラマの登場人物紹介がされますが、その中で為朝は平安のモビルスーツと紹介され、その後、ドラマが放送されると平安のガンダムと呼ばれるようになり、平安時代とガンダムの取り合わせのミスマッチが話題となりました。
どうしてモビルスーツという形容なのかというと、為朝は弓の名手で5人がかりでないと引く事が出来ない強弓を使用し、放った矢は敵を2人まとめて射殺したとする伝説があり、これがガンダムの強力な武器ビームライフルにたとえられたからです。
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源為朝のモビルスーツ伝説
では、ここでモビルスーツと呼ばれた為朝の規格外の伝説を紹介しましょう。
伝説1 | 身長2メートル10センチでジャイアント馬場より2センチ高い |
伝説2 | 弓を支える左腕が右腕より12センチも長く強力な矢が放てた |
伝説3 | 為朝の弓は身長よりもデカかったと大庭景義が証言 |
伝説4 | 乱暴すぎて13才で勘当され九州へ飛ばされるも、僅か3年で九州豪族をシメ、勝手に鎮西追捕使を名乗り荘園に押し込むなどやりたい放題。 |
伝説5 | 度重なる乱暴狼藉に、朝廷から出頭命令が何度も出るも無視し続け、
父為義が監督不行届きで朝廷の官職をクビに、そこで初めて父に迷惑を掛けた事に気づき出頭。 |
伝説6 | 長さ22センチもあるノミのような鏃をつけた矢を飛ばした。
矢は鎧ごと体を貫通、軌道上にいる人間を次々貫き殺害した。 |
伝説7 | 平清盛は為朝が西門を守っていると聞いて怖気づき、ひよって北門を攻めて争いを回避した。 |
伝説8 | いつまでも為朝が西門で頑張り戦争が終わらないので、清盛は上皇の屋敷に火をかける許可を後白河天皇より得て火を放ち戦争を終わらせた。 |
伝説9 | 保元の乱に敗れて逃走、のんびり湯治している時にマッパで逮捕! |
伝説10 | 怪物為朝の姿を一目みようと京都で見物人が殺到、後白河天皇も見物 |
伝説11 | 武勇を惜しまれ肘を外して弓を使えなくした上で伊豆大島に流罪。 |
伝説12 | 肘が治ると伊豆大島の三郎大夫忠重の娘を娶り、伊豆七島の支配者になり、朝廷に税を納める事を拒否し独立の動きを見せる |
伝説13 | 伊東氏、北条氏、宇佐美氏ら伊豆の豪族が500余騎20艘の船で伊豆七島に攻め込み、為朝は、もはやこれまでと自慢の弓で300人乗りの大船を射ると船が沈没、満足して切腹して果てた。 |
伝説14 | 伊豆周辺を遠征している時、暴風雨で琉球まで流されしばらく滞在。大里按司の娘を娶り、その子は初代琉球国王舜天となった。 |
伝説15 | 天然痘が流行している時期に活躍しているが一度も感染せず、天然痘除けの神様として崇められた。 |
伝説16 | 傲岸不遜な源義経は源義朝の八男だったが、源氏の勇者である為朝に遠慮し九郎義経と名乗ったとされる。 |
これら以外にも、為朝は伊豆大島で死なずに、落ち延びたとする落人伝説のような話が日本各地に残されています。実際、為朝は甥の源義経が日本史の英雄になるまで、日本人に馴染みの英雄だったのです。
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源為朝の死に方は?
源為朝は保元の乱に敗れて逃亡した後に捕らえられ伊豆大島に流罪になります。この時、同じく敗れて自首していた父の為義は処刑されているので、為朝は武勇を惜しまれ、肘を外して矢を放てないようにした上で助命されたと言われています。
しかし、肘が治ると伊豆七島を支配して朝廷の命令に背くようになり、嘉応2年(1170年)に朝廷の討伐軍に攻められて切腹して果てました。享年32。また没年には治承元年(1177年)の説もあります。
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源為朝の別名は何と言う?
源為朝は源為義の八男で通称が八郎でしたが、13才で九州に飛ばされた後で、鎮西追捕使を自称して、九州武士団と戦争を繰り返し、3年間で九州を統一したと伝わります。この事から鎮西八郎が為朝の別名となりました。
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源為朝の弓の長さはどのくらい?
伝承では源為朝の身長は2メートル10センチです。弓の長さについては保元の乱で為朝に膝を射抜かれて負傷した大庭景義が後年に為朝の弓は身長よりも長いと証言しているので、2メートル10センチ以上です。これだけ長い弓は為朝しか引けず、別の人間が弓を引くと5人がかりだったそうです。
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源為朝の主要な武器は?
平安時代の武士は太刀も保有していて、為朝も三尺五寸(105センチ)の大太刀を腰に佩いていました。しかし当時は少人数で馬に乗り、矢を撃ち合って戦っていたので主力武器は刀ではなく弓でした。
為朝の主力武器も弓で、大の大人5人がかりで引く強力な弓を1人で引き、矢じりは22センチもありノミのようだったと言われています。この弓は、人間の胴体を鎧ごと貫通、船に命中すれば船も沈没するとされ、ガンダムのビームライフルのような強力な威力で恐れられました。
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源頼朝や九郎義経とはどんな関係?
源為朝は、源為義の八番目の子で兄には頼朝や義経の父である源義朝がいます。為朝から見ると頼朝や義経は兄の子であり甥という事になります。
しかし、兄の義朝は関東の領有を巡り、父為義と争い藤原摂関家と縁が深い為義に対し義朝は清盛と共に後白河天皇に味方していました。
そのため保元の乱では、為義は藤原頼長や崇徳上皇の要請に逆らえずに上皇方に味方し、後白河法皇についた義朝とは敵対します。
為朝は父、為義に従い上皇に味方していましたが、いつでも義朝を射殺できるチャンスがありながら、「あるいは、父と兄の間に暗黙の了解があるやもしれぬ」と躊躇し命を取りませんでした。そういう経緯から義朝の子である頼朝も為朝を悪く思ってはいなかったようです。
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源為朝に子孫はいるの?
源為朝には、義実、実信、為頼、朝稚(義包)、為家、舜天(尊敦)実久三次郎と、複数の男子が記録されていますが、詳細は不明です。
一方で為朝には娘も1人いて、こちらは鎌倉幕府の御家人、足助重長に嫁いで足助重秀と辻殿という娘を産みました。辻殿は2代将軍源頼家に嫁ぎ善哉という息子が生まれます。しかし、北条氏のクーデターで頼家は伊豆に強制隠居させられて殺害。
善哉は幼かったので助命され仏門に入り京都で修行して公暁と名乗りますが、鎌倉に帰った後で、叔父にあたる源実朝を鶴岡八幡宮の石段で父の仇として殺害、自らも将軍殺しの謀反人として殺害され、為朝の血筋は絶えてしまいました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は平安のモビルスーツ、源為朝の超人ぶりについて解説しました。正直、為朝の逸話には誇張や眉唾モノの伝説が多いのですが、それらの虚飾を剥ぎ取っても、武勇を惜しまれて肘を外した上で伊豆大島に流罪にされたり、そこで懲りずに独立し伊豆の豪族に討伐されるなど、並外れたサムライであった事は疑いないようです。
参考:保元物語
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