NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、いよいよ義経が黄瀬川で兄頼朝と感動の対面を果たし源平合戦らしくなってきました。ところで義経と言えば忘れてはならないのが武蔵坊弁慶、今回の大河では佳久創さんが演じています。義経とセット扱いの弁慶ですが、実際にはどんな人なのでしょうか?
武蔵坊弁慶はいるが活躍は全く不明
武蔵坊弁慶と言えば、京都の五条大橋での牛若丸との戦いや、映画や歌舞伎でお馴染み勧進帳、立ったまま死んだ弁慶の立往生や向う脛を意味する弁慶の泣き所など、映画やドラマばかりか複数の慣用句や名詞に名前が登場する有名人です。
しかし、そんな弁慶、史実においては名前以外が全て謎に包まれている人物でした。
現在、弁慶の事績として伝わる逸話は「義経記」をはじめとした後世の創作物であり、当時の文献において弁慶の名前が出てくるのは、吾妻鏡の文治元年(1185年)11月3日の記述と11月6日の記述に義経の郎党として武蔵坊弁慶の名前があるのみです。
その後の平家物語でも同様で、いずれも弁慶の出自や業績、最後には触れていません。弁慶は名前が分るだけでそれ以外が不明という人物なのです。
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弁慶は義経に従う比叡山の僧兵がモデル
では、武蔵坊弁慶の活躍は全て後世の創作なのか?というとそうでもないようです。というのも義経が頼朝に追われて都落ちした後、比叡山の僧兵が義経の身柄を守ったそうで吾妻鏡や玉葉によれば、俊章という僧は義経を奥州まで案内したとされています。
また、千光房七郎という比叡山の僧兵が義経の手紙を保持して北条時定に捕縛されたという記述もあり、義経の晩年には比叡山の陰がちらつきます。武蔵坊弁慶は義経を助ける複数の比叡山僧兵の行動がベースになっていると考えられるのです。
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延暦寺ばかりか興福寺も義経を庇う
延暦寺ばかりではなく南都興福寺も義経を庇いました。
興福寺の僧侶である聖弘は義経を庇い、義経の為に祈祷したとして頼朝により鎌倉に呼ばれていますが、言い訳や言い逃れをする様子もなく、義経は師弟であるので庇って頼朝と和解するように諭して下法師3人をつけて伊賀に送りだし、それ以後は知らないと回答。
さらに、頼朝に対して
「鎌倉が現在あるのは義経の功績であり讒言に耳を貸して領地を取り上げれば義経が謀反の心を抱くのはもっともな事だ」と指摘。義経と和解して水魚の交わりを結ぶのが天下泰平に必要と提案しています。
頼朝も立派な態度だとして聖弘に勝長寿院の供僧職を与えました。義経は興福寺を去った後、伊勢・美濃を経て奥州平泉へと逃亡しています。
当時の二大寺院勢力である延暦寺と興福寺が庇護するのですから、当時の人が義経に付き従う僧兵を目撃しやがて弁慶というキャラクターが生まれたのも不思議ではありません。
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創作の中の弁慶
では、物語の中の弁慶について紹介しましょう。義経記によれば弁慶の父は熊野別当「弁しょう」と言い、この弁しょうが二位大納言の姫を強奪して産ませたのが弁慶です。
弁慶は母のお腹に18カ月もいて、生まれた段階で2~3歳児の体つきで髪は肩を隠すほどに伸び歯も生えそろっていました。父は、これは鬼の子だと恐れ殺そうとしますが叔母に引き取られて鬼若と名付けられ京都で育ちました。
鬼若は比叡山に入れられたものの勉強せず、乱暴ばかりなのでとうとう追い出されてしまいます。そこで鬼若は自分で髪を剃って武蔵坊弁慶と名乗り四国から播磨国の寺に入るものの、そこでも乱暴狼藉を繰り返しついには播磨の圓教寺の堂塔を炎上させ寺を追い出されてしまいました。
やがて弁慶は何らかの願を立て、京都で千本の太刀を奪おうと誓い、帯刀の武士を相手に決闘を挑んで999本の太刀を集めます。
あと一本で大願成就というところで五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる牛若丸に出会い、牛若丸が腰に帯びた見事な太刀を奪い取ろうと決闘に及びますが身軽な牛若に終始翻弄され、向う脛を強打されて痛さでひっくり返り、以後は牛若丸の家来になりました。
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謀反人となった義経を最後まで守る
以後の弁慶は義経の郎党として平泉に行き義経が兄の頼朝の挙兵に従うと自身も忠実な家来として戦いました。しかし、平家を滅ぼした義経は兄頼朝に危険視され対立し、義経は各地を逃亡する身の上となります。
弁慶は山伏に身をやつして義経を助け、加賀国の安宅関では正体がバレそうになった義経を「お前が謀反人に似た顔をしているから我らが咎めを受ける」として金剛杖で強く打ちすえます。
安宅関を任されていた代官富樫泰家は、主君を杖で打ってまで追手から守ろうとする弁慶の忠義に感じ入り正体を知りながら見逃し、義経一行は無事に奥州平泉に入る事ができました。
平泉に入った義経一行は藤原秀衡に匿われますが、ほどなく秀衡は死去。子の泰衡は頼朝の再三の圧力に屈して義経一行を衣川に襲撃、弁慶は大勢の敵を前に義経が立て籠もる御堂を守って奮戦、雨のような矢を浴び立ったまま絶命します。
このように創作の弁慶は、忠義を尽くし全てを捧げて義経を守ろうとした典型的な忠臣として現在まで語り継がれる事になりました。
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日本史ライターkawausoの独り言
史実では名前以外の活躍が記録されない武蔵坊弁慶ですが、鎌倉殿では義経の郎党として、恐らくは義経記になぞらえた活躍をすると思います。今作の菅田義経はヤベーやつですが、弁慶はそれに対してどう反応するのかが、今から楽しみですね。
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