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武蔵坊弁慶とはどんな人?伝説の豪傑はどんな事をしたの?【鎌倉殿の13人】

15/03/2022


武蔵坊弁慶

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、いよいよ義経(よしつね)黄瀬川(きせがわ)で兄頼朝(よりとも)と感動の対面を果たし源平合戦らしくなってきました。ところで義経と言えば忘れてはならないのが武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)、今回の大河では佳久創(かく・そう)さんが演じています。義経とセット扱いの弁慶ですが、実際にはどんな人なのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武蔵坊弁慶はいるが活躍は全く不明

源義経の幼名は牛若丸

 

武蔵坊弁慶と言えば、京都の五条大橋(ごじょうおおはし)での牛若丸(うしわかまる)との戦いや、映画や歌舞伎でお馴染み勧進帳(かんじんちょう)、立ったまま死んだ弁慶の立往生や向う(ずね)を意味する弁慶の泣き所など、映画やドラマばかりか複数の慣用句や名詞に名前が登場する有名人です。

 

kawauso

 

しかし、そんな弁慶、史実においては名前以外が全て謎に包まれている人物でした。

 

現在、弁慶の事績として伝わる逸話は「義経記(ぎけいき)」をはじめとした後世の創作物であり、当時の文献において弁慶の名前が出てくるのは、吾妻鏡(あづまかがみ)の文治元年(1185年)11月3日の記述と11月6日の記述に義経の郎党として武蔵坊弁慶の名前があるのみです。

 

その後の平家物語でも同様で、いずれも弁慶の出自や業績、最後には触れていません。弁慶は名前が分るだけでそれ以外が不明という人物なのです。

 

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源義経

 

 

弁慶は義経に従う比叡山の僧兵がモデル

比叡山の僧兵(僧侶)兵士

 

では、武蔵坊弁慶の活躍は全て後世の創作なのか?というとそうでもないようです。というのも義経が頼朝に追われて都落ちした後、比叡山の僧兵が義経の身柄を守ったそうで吾妻鏡や玉葉(ぎょくよう)によれば、俊章(しゅんしょう)という僧は義経を奥州まで案内したとされています。

 

鎌倉を出禁される源義経

 

また、千光房七郎(せんこうぼうしちろう)という比叡山の僧兵が義経の手紙を保持して北条時定(ほうじょうのときさだ)に捕縛されたという記述もあり、義経の晩年には比叡山の陰がちらつきます。武蔵坊弁慶は義経を助ける複数の比叡山僧兵の行動がベースになっていると考えられるのです。

 

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源頼朝

 

 

延暦寺ばかりか興福寺も義経を庇う

五重塔(仏塔)仏教

 

延暦寺ばかりではなく南都興福寺(なんとこうふくじ)も義経を(かば)いました。

 

興福寺の僧侶である聖弘(せいこう)は義経を庇い、義経の為に祈祷したとして頼朝により鎌倉に呼ばれていますが、言い訳や言い逃れをする様子もなく、義経は師弟(してい)であるので庇って頼朝と和解するように諭して下法師(しもぼうし)3人をつけて伊賀に送りだし、それ以後は知らないと回答。

 

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さらに、頼朝に対して

「鎌倉が現在あるのは義経の功績であり讒言(ざんげん)に耳を貸して領地を取り上げれば義経が謀反の心を抱くのはもっともな事だ」と指摘。義経と和解して水魚の交わりを結ぶのが天下泰平に必要と提案しています。

 

学問を極めて政治家へ成長した源頼朝

 

頼朝も立派な態度だとして聖弘に勝長寿院(しょうちょうじゅいん)供僧職(ぐそうしょく)を与えました。義経は興福寺を去った後、伊勢・美濃を経て奥州平泉へと逃亡しています。

 

当時の二大寺院勢力である延暦寺と興福寺が庇護するのですから、当時の人が義経に付き従う僧兵を目撃しやがて弁慶というキャラクターが生まれたのも不思議ではありません。

 

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北条義時

 

 

創作の中の弁慶

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では、物語の中の弁慶について紹介しましょう。義経記(ぎけいき)によれば弁慶の父は熊野別当(くまのべっとう)「弁しょう」と言い、この弁しょうが二位大納言(にいのだいなごん)の姫を強奪して産ませたのが弁慶です。

 

弁慶は母のお腹に18カ月もいて、生まれた段階で2~3歳児の体つきで髪は肩を隠すほどに伸び歯も生えそろっていました。父は、これは鬼の子だと恐れ殺そうとしますが叔母に引き取られて鬼若(おにわか)と名付けられ京都で育ちました。

 

魯智深(水滸伝)

 

鬼若は比叡山に入れられたものの勉強せず、乱暴ばかりなのでとうとう追い出されてしまいます。そこで鬼若は自分で髪を剃って武蔵坊弁慶と名乗り四国から播磨国(はりまのくに)の寺に入るものの、そこでも乱暴狼藉を繰り返しついには播磨の圓教寺(えんきょうじ)の堂塔を炎上させ寺を追い出されてしまいました。

 

炎上する城a(モブ)

 

やがて弁慶は何らかの願を立て、京都で千本の太刀を奪おうと誓い、帯刀の武士を相手に決闘を挑んで999本の太刀を集めます。

 

源義経の八艘飛び

 

あと一本で大願成就というところで五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる牛若丸に出会い、牛若丸が腰に帯びた見事な太刀を奪い取ろうと決闘に及びますが身軽な牛若に終始翻弄(しゅうしほんろう)され、向う(ずね)を強打されて痛さでひっくり返り、以後は牛若丸の家来になりました。

 

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謀反人となった義経を最後まで守る

鎌倉を出禁される源義経

 

以後の弁慶は義経の郎党として平泉に行き義経が兄の頼朝の挙兵に従うと自身も忠実な家来として戦いました。しかし、平家を滅ぼした義経は兄頼朝に危険視され対立し、義経は各地を逃亡する身の上となります。

 

弁慶は山伏に身をやつして義経を助け、加賀国の安宅関(あたかのせき)では正体がバレそうになった義経を「お前が謀反人(むほんにん)に似た顔をしているから我らが(とが)めを受ける」として金剛杖(こんごうじょう)で強く打ちすえます。

 

関所

 

安宅関を任されていた代官富樫泰家は、主君を杖で打ってまで追手から守ろうとする弁慶の忠義に感じ入り正体を知りながら見逃し、義経一行は無事に奥州平泉に入る事ができました。

 

藤原秀衡 鎌倉

 

平泉に入った義経一行は藤原秀衡に匿われますが、ほどなく秀衡は死去。子の泰衡は頼朝の再三の圧力に屈して義経一行を衣川に襲撃、弁慶は大勢の敵を前に義経が立て籠もる御堂を守って奮戦、雨のような矢を浴び立ったまま絶命します。

 

このように創作の弁慶は、忠義を尽くし全てを捧げて義経を守ろうとした典型的な忠臣として現在まで語り継がれる事になりました。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

史実では名前以外の活躍が記録されない武蔵坊弁慶ですが、鎌倉殿では義経の郎党として、恐らくは義経記になぞらえた活躍をすると思います。今作の菅田義経はヤベーやつですが、弁慶はそれに対してどう反応するのかが、今から楽しみですね。

 

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カワウソ編集長

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