源頼朝が大事にしている観音像の正体は?【鎌倉殿の13人】

11/03/2022


観音像を持ち歩いていた源頼朝

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、その前半の主人公的役割を持つ源頼朝(みなもとのよりとも)は常にお経をあげ(まげ)の中に小さな観音菩薩(かんのんぼさつ)を仕込むほど信心深い人物として描かれています。そんな頼朝と切っても切れない観音菩薩ですが、史実でも頼朝は信心深かったのでしょうか?

 

 

乳母が授かった二寸銀の観音像

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鎌倉幕府の編纂(へんさん)した歴史書吾妻鏡(あづまかがみ)には、頼朝が信心深かった事を示す逸話が多く残されています。

 

例えば、頼朝が(もとどり)の中に隠していた観音像は二寸銀(にすんぎん)の観音像と呼ばれ、ドラマでも語られた通り頼朝が3歳の時に乳母(うば)が京都の清水寺(きよみずでら)に参籠し、頼朝の将来を心を込めて祈る事14日で夢のお告げがあり、にわかに二寸銀の観音像を授かったのだそうです。

 

水月観音像(仏像)

 

観音は、人々の現世での願いを聞き入れ生きる苦しみを軽減する有難い仏として古くから信仰を集めた存在でした。頼朝は、この二寸銀の観音像を心から敬い、肌身離さずに生涯持ち歩いていました。

 

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苦難の前半生で信心深くなった頼朝

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

頼朝の信仰心の背景には14歳で平治の乱に遭遇し、生死の境をさまよった経験が影響していると考えられます。

 

常に北条家に監視される源頼朝

 

伊豆に流人として軟禁される事20年余り、いつ殺されても不思議はない状態で、源氏再興を心に秘めた頼朝に取って、観音への信仰は心を折らないために必要な精神の柱だったのでしょう。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

挙兵の直前

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝

 

治承4年(1180年)33歳になっていた頼朝は、以仁王(もちひとおう)の平家を討てという令旨(りょうじ)に従い源氏再興の挙兵を決意します。そして、挙兵前月7月5日、伊豆山権現(いずさんごんげん)覚淵(かくえん)を北条館に呼び出し、「念願があって法華経(ほけきょう)を千回読み上げる願掛(がんかけ)けをしていましたが、挙兵を前に続けることが難しくなりました。

 

そこで転読(てんどく)八百回にして仏に祈願しようと思いますが、私の祈願を仏は聞き届けてくれるでしょうか?」と尋ねます。

 

月照(坊主)

 

覚淵はそれに対し、「千回に満たずとも仏の心に(そむ)く事にはなりません。あなたは八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)氏人(うじびと)で、法華経八巻(ほけきょうはっかん)をいつも所持しています。

 

八幡太郎義家様(はちまんたろうよしいえさま)の偉業を引き継ぎ、坂東(ばんどう)八カ国の勇士を従え八条に住む大罪人、清盛一党を討伐する事はすでにあなたの手の中にあり、これは法華経を八百回読んだことによるご利益です」と答えたので頼朝はとても喜んだと言われています。

 

打倒平家を目指す北条義時と源頼朝

 

現在の感覚では神頼みなんて心許ないと思いますが、当時の人々の信仰心は一般に強く特に頼朝は信心深いので、観音が願いを聞き届けてくれるかどうかは切実な問題でした。

 

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源頼朝

 

 

石橋山の敗戦後

大庭景親に敗北し洞窟に隠れる源頼朝

 

石橋山の戦いに敗戦した後、頼朝はしとどの洞窟(どうくつ)に隠れていましたが、ふと髻に隠していた二寸銀の観音を取り出して岩の上に置きました。

 

様子を見ていた土肥実平(どひのさねひら)が、どうして観音を取り出したのかと尋ねると頼朝は「大庭(おおば)の兵に首を討たれた後、(もとどり)から観音が落ちてきたら頼朝は命を惜しんで仏にすがっていたと悪評を立てられるかも知れない。それでは源氏の大将らしくないから外した」と答えています。

 

常に北条家に監視される源頼朝

 

何気ないシーンでしたが、頼朝が死を覚悟した場面だったのでしょう。頼朝がこの時、洞窟に置いてきた観音像は、頼朝が鎌倉に入ってから2カ月後、伊豆山権現、良暹(りょうせん)の弟子が洞窟から探し出して鎌倉の頼朝に届けました。

 

頼朝は大変に喜んで手を合わせ、自らの手で受け取ったのだそうです。

 

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意外に信心深い坂東武士

竹崎季長(鎌倉武士)

 

頼朝のみならず、当時の坂東武者は意外に信心深い存在でした。

 

絶えず読経する源頼朝

 

それを裏付けるのが、鎌倉の杉本寺(すぎもとでら)から千葉県館山の那古寺(なこでら)までの坂東三十三箇所です。こちらは、源頼朝の観音信仰と源平の戦いで西国に赴いた坂東武者たちが西国の三十三箇所の霊場を観たことを契機に鎌倉時代初期の開設に繋がったとされます。

 

五重塔(仏塔)仏教

 

坂東武者というと蛮勇を振るう神仏とは無縁なイメージですが、元々合戦は想定どおりにはいかないものであり、勝つと思っては負け、負けると思っても大勝するなど、時々の運が大きく左右するものでした。

 

大河ドラマでも頼朝が天に守られているという言葉が出てきて、梶原景時(かじわらのかげとき)上総広常(かずさのひろつね)も、頼朝の運に懸けてみるなど、運に影響される部分が多々ありますが、そういう超常的な力は、明日をも知れない武士にとって必要不可欠なものだったのです。

 

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観音を安置した法華堂で永眠する頼朝

燃える本能寺(モブ)

 

平家を壇ノ浦(だんのうら)に滅ぼした後の文治5年(1189年)7月18日、頼朝は伊豆山権現の専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)を呼び出し、鎌倉御所(ごしょ)の裏山に奥州征伐の祈願所を設けて、清水寺の観音像を安置して祈る事を命じます。

 

ここは持仏堂(じぶつどう)と呼ばれ、建久10年(1199年)に亡くなった頼朝は持仏堂に葬られたのです。頼朝の観音信仰の深さが垣間見られる逸話ですね。頼朝が葬られると、ここは法華堂と呼ばれるようになりましたが、法華堂はそれから30年余りのち、火事で本堂と本尊が焼失する憂き目に遭いました。

 

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北条義時

 

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は頼朝の大事にしている観音像の正体について解説しました。頼朝の信心深さはかなりのもので、最期は自ら勧請した観音像の下で永遠の眠りについたのです。

 

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はじめての平安時代

 

 

 

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カワウソ編集長

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