NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、いよいよ平家を滅ぼした英雄源義経も頼朝と合流し、富士川の戦いも少しだけ描かれるなど合戦絵巻の雰囲気が出てきました。しかし、よく考えてみると源平合戦に籠城戦は出てこないような気がしませんか?
今回は見た事がない鎌倉時代の籠城戦について解説してみます。
この記事の目次
源平合戦に籠城戦がない理由
源平合戦に籠城戦がないのは思い違いではなく実際にありませんでした。どうして籠城戦がないのかといえば、当時は戦国時代のような城がなかったからです。
平安末期、城と言えば大和朝廷が外敵に備えるために築いた細く長い城壁で前面に水をたたえたので水城と呼ばれていました。
日本で山城が築かれて籠城戦がおこなわれるようになるのは鎌倉時代後期に入ってからですが、それは当時の戦い方が騎兵を主体とした小数の騎射戦から歩兵を中心とした集団戦に転換した事に関係しています。
騎兵同士の戦いでは馬が越えられないレベルの壁や逆茂木を用意すればそれでよく、防御側は垣盾と呼ばれる大きな盾の背後に隠れて矢を放てば、それで攻め手を撃退が出来たからです。
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一ノ谷での平家軍の防御
当時の防御陣がどういうものであったのかを示す話が平家物語にあります。
時は京都奪還を目指す平家が福原京に入り、一ノ谷に防御陣を張り源氏の追討軍を迎え撃った時ですが、当時の防御陣は以下のようなものでした。
摂津国生田森を一の木戸口(出入口)とし堀を巡らし逆茂木を曳き、東は堀に橋を引き渡して入り口を空け、北の山より際までは垣盾をかいて矢間をあけて待ち構えた。
これは摂津国の生田森に本陣を置いた平家が、空堀を掘って騎馬や歩兵が突撃できないようにし、逆茂木という丸太の先をエンピツのように研いだ木を堀の前に並べて馬の突撃を防ぎ、垣盾という大きな盾の隙間から一方的に矢を放ったという事です。
単純な防御陣ですが、騎兵主体の源氏の軍勢は成す術がなく多くの死傷者を出し結局は搦手の別動隊を率いた源義経が平家本陣を迂回して背後を衝く形になり源氏が勝利しました。
敗れた平家ですが、義経の迂回が成功しなければ退却したのは源氏の方だったでしょう。
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最初の籠城戦、建仁の乱
このように源平合戦ではついに登場しなかった籠城戦ですが、平家が壇ノ浦で滅んでから16年後、後の籠城戦を先取りするような反乱が起きました。建仁の乱です。
建仁の乱は建仁元年(1201年)正月から5月にかけて城長茂等、城氏一族が起こした鎌倉幕府への反乱です。城長茂は越後の豪族で治承・寿永の乱では平家方として戦いますが平家滅亡後に梶原景時の仲介で頼朝に従い奥州合戦の戦功で鎌倉幕府の御家人に引き上げられました。
長茂は景時に恩義を感じていましたが、その景時が正治2年(1200年)正月に幕府の内紛により滅ぼされると、1年後に長茂は軍勢を率いて上洛し景時追放の首謀者である小山朝政の屋敷を襲撃しました。
この時朝政は留守であり長茂は朝政邸の郎党と戦った後で小山邸から引き上げ、今度は土御門天皇に対して鎌倉幕府追討の宣旨を要請します。しかし後土御門天皇に宣旨を拒否され、長茂は東山の清水坂あたりに潜伏します。
結局、長茂はそれ以上反乱を広げる事ができず鎌倉幕府の討伐軍に首を討たれました。
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越後鳥坂城で城資盛が反乱を起こす
反乱は城長茂の死で終わりませんでした。同年の1月下旬には越後にいた長茂の甥、城資盛と長茂の姉妹で資盛の叔母にあたる板額御前などの城一族が越後国蒲原の鳥坂城で反乱を起こしたのです。
吾妻鏡には「城の小太郎資盛、朝憲(朝廷の命令)を謀り奉らんと欲し、城郭を越後国鳥坂に構う」とあり、鳥坂城は帯曲輪に木柵が巡らされ、空堀には逆茂木が立ち並び、城からは矢石が飛ぶという状態で資盛の軍勢は1000人足らずながら多勢の幕府軍相手に奮戦しました。
特に板額御前は勇猛果敢で長い髪を結いあげ、腹巻胴を身に着けて矢倉に上り、矢を放っては百発百中と大活躍しています。しかし、板額御前が両股を信濃国武士藤沢清親に射られて転倒し幕府方に捕らえられると資盛は敗北し本城の白鳥城も陥落しました。
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金砂山城が籠城戦の元祖では?
kawausoがさらに鎌倉時代の城について調べてみると建仁の乱から20年前の1180年。源頼朝が常陸国の佐竹秀義を攻めた時、秀義が立て籠もった金砂山城も難攻不落の城であったと吾妻鏡に記述がありました。
頼朝軍は数千で力攻めしても落せず、結局、上総広常の進言を入れて、金砂山城に入らなかった秀義の叔父、佐竹義季を籠絡して味方につけ、不意をついて金砂山城を攻撃して陥落させたとあります。
そうすると、こちらが最初の城攻めかもと思いましたが、金砂山城というのは、ただの峻厳な山で、山頂の館以外に人工物らしきものはなさそうな記述なので除外しました。
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居館を捨て城に籠った城氏
鳥坂城は、戦国時代のような堅牢な城郭ではなく、掘っ立て小屋の周囲に柵を巡らせ、堀を掘って逆茂木や垣盾を並べた程度で砦というレベルで、一ノ谷での平家軍と余り変わらない備えでした。しかし、城氏は山の地形を生かし砦と上手く組み合わせる事で幕府軍を翻弄し、少ない人数で大きな損害を与える事に成功したのです。
城氏のような戦い方は次第に鎌倉時代に浸透し小競り合いなら平地の居館で戦い、相手が大軍の場合には山中に砦を築いて抗戦し出血を強いる戦い方が確立します。ここから山城が発達するようになり、戦国時代の城郭へと進化していきます。
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日本史ライターkawausoの独り言
源平合戦においては見られない籠城戦ですが、鎌倉時代になると館で敵を防げない場合の措置として、山の中に砦を築いて持久し、幕府なり味方の援軍がくるのを待つという形で発展していきました。
山の中では馬もあまり役に立たないので、騎兵の突撃を防げますし地形を活用すれば、敵の大軍を分散させ迎え撃つ事もできるので、次第に山城が研究され発展していく事になったのです。
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