NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。富士川の戦いの敗戦を受けて清盛は激怒し、自ら頼朝討伐の指揮を執ると息巻きました。
その頃、後白河法皇の下に現れたのはあの髑髏坊主の文覚、後白河法皇は文覚に呪殺して欲しい者がいると打ち明け、清盛を呪い殺すように依頼します。
そして、この文覚の呪殺からしばらくして清盛は原因不明の熱病で死んでしまうのです。しかし、清盛の死因は本当に文覚の呪いなのでしょうか?
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高熱に身を焼き悶絶死する清盛
平清盛の死については、あまりに壮絶で奇異な描写から昔から様々に死因が推測されました。最初に平家物語延慶本から清盛の最期を現代文に直して見てみましょう。
”清盛入道は病に伏してより、水さえも喉を通らず体から高熱を発し燃えるようである。入道の半径6メートル四方は高温で耐え難いので近くに侍る人間は稀で、うわごとのように「熱い、熱い」と言うばかり。
比叡山、信貴山千手院という所の令水を汲んできて石の船に入れ清盛入道を冷やしても、下の水は上に湧きあがり上の水は湯になり下へ吹きこぼれた。入道はもだえ苦しみ辺りを這いずりまわり、発病して七日が過ぎた頃に熱によりこと切れた。”
このように平家物語において清盛の死は異常に劇的な描写をされています。
実際に同時代の歌人藤原定家の日記「明月記」にも「清盛は臨終の時、動熱悶絶のうちに死んだと聞く」と高熱に苦しみ、のたうちまわって死んだ断末魔が記録されていて平家物語の描写を裏付けています。
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平清盛の死因は?
では清盛の死因は一体なんなのでしょうか?
平家物語の異様で劇的な描写から天罰ばかりではなく、医学的な見地から様々な解釈が登場しました。
例えば、当時、瘧と呼ばれたマラリア説や、風邪を放置したせいで急性肺炎を引き起こして死んだという説、風邪から中耳炎か副鼻腔炎を引き起こしそれが髄膜炎に悪化したという見解もあります。
そして最近では、清盛が飛沫感染する溶連菌感染症の1つである猩紅熱で死んだのではないかとする説があるのです。
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劇的症状をもたらす溶連菌感染症
溶連菌感染症とは、レンサ球菌属によって引き起こされる感染症すべてを指します。
一般によく知られているのは化膿レンサ球菌ですが、中には壊死性筋膜炎のように発症すると指先や足先のような四肢の末端部が1時間に数センチもの速さで壊死し死亡率が3割にも上る人食いバクテリア感染症。
レンサ球菌が血液中に毒素を放出して起きる免疫アレルギー反応で多臓器不全になり死に至る毒素性ショック症候群。また突如高熱を発し、頭痛、嘔吐、痙攣、猩々のような赤い顔になり全身に紅斑がみられる猩紅熱も溶連菌感染症です。
特に猩紅熱は特効薬のペニシリンが発明されるまで、進行が極めて速い悪性の電撃性猩紅熱が日本で猛威を奮いました。電撃性猩紅熱の潜伏期間は2日~5日で咽頭痛から始まり悪寒がして39度から40度の高熱が出ます。
それ以外にも家庭医学大辞典によると、溶連菌感染症の症状には
・癤、膿痂疹など皮膚の化膿性疾患症状
・猩紅熱や敗血症など全身性疾患症状
・扁桃炎や咽頭炎など上気道の急性炎症性疾患症状
・中耳炎、乳様突起炎など局所の化膿性疾患症状
このように幅広く様々な症状が出るようです。
平家物語によれば清盛は、
声のいかめしい人だったのに声が震えて呼吸も弱く、ことのほか弱っていて皮膚の赤いのは朱色を塗ったようであり、吹き出だす息の末に当たる者は火にあたっているようだ。
とも描写されていて、発症から7日で死ぬ電撃的な病の進行や、水も飲めないほどの喉の炎症、皮膚が朱を塗ったように赤いという特徴から電撃性猩紅熱にピタリと当てはまります。
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清盛の感染症はどこからもたらされたのか?
しかし、清盛の病が飛沫感染する電撃性猩紅熱だとすれば、同時期に平家一門からも、似たような症状を発症する人が出てもいいはずです。ところが実際には清盛以外に平家の人々で猩紅熱に倒れた人はなく、そうなると清盛は別の誰かから病気を感染させられた事になります。
この清盛に電撃性猩紅熱を感染させたと疑われるのが、清盛の後を追うように死んだ清盛の盟友、藤原邦綱でした。
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藤原邦綱とは?
藤原邦綱は藤原北家良門流の系統に属する下級役人でした。
平家物語によれば邦綱は火事の際に近衛天皇を救った事が評価され、関白藤原忠通の家司になって頭角を現し、和泉、越後、伊予、播磨の受領を歴任して財力を蓄えていき朝廷の行事や寺社の修理・造営などを自費で賄う成功を活用して官位を上げていき蔵人頭まで昇進します。
さらに邦綱は4人の娘を六条、高倉、安徳の三天皇及び、高倉天皇中宮、平徳子の乳母とし財力を傾けて養育に力を尽くします。同時に平清盛に接近して親密な関係を築き、藤原氏の傍流ながら権大納言まで出世し正二位の官途を得ました。
しかし、平滋子の子で清盛の娘平徳子を后に迎えた平家の傀儡、高倉上皇が病に倒れ危篤となると、清盛に幽閉されていた後白河法皇が幼い安徳天皇の上に立ち権力を取り戻す状況が生まれていました。
同じ頃、関東では源頼朝、武田信義、源義仲という源氏勢力が平家の追討軍を撃破しており予断を許さない状況であり、邦綱は清盛と密談を繰り返し清盛の7女御子姫君を後白河法皇の後宮に入れ、何とか影響力を残す事に成功します。
ところがやっと、平家の延命が出来た所で邦綱も伝染病に倒れたのです。
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清盛と同じ溶連菌感染症の症状
九条兼実の日記である「玉葉」には、治承5年(1181年)2月27日の日付で清盛と邦綱の病状が記されています。
「邦綱卿が二禁を煩い禅門(清盛)は頭風を病む」とありますが、この二禁というのは、腫物、ニキビの事を意味しています。その後、邦綱の腫物は酷くなり、針治療で腹部に出来た腫物の膿を取り出したとありますが、これは溶連菌感染症の症状、癤(おでき)膿痂疹(水ぼうそう)など皮膚の化膿性疾患症状と考えられます。
清盛には邦綱と違いおできも二禁もありませんが、同じく溶連菌感染症の症状、扁桃炎や咽頭炎など上気道の急性炎症性疾患症状や猩紅熱は出ているので、清盛は邦綱から感染症をうつされたと考えても良さそうです。
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邦綱は崩御した高倉上皇から感染した
では、清盛に感染症をうつした邦綱は誰から溶連菌感染症をうつされたのでしょうか?
どうもこれは、少し前に崩御した高倉上皇であるようです。それというのも玉葉、治承五年正月13日には、高倉上皇崩御時の様子として、
「お顔と両手両足がすこぶる腫れ、特に熱さを嫌がり、衣装を軽く薄いモノに取り替えさせたが、病は増々重い」と記録しています。
季節は真冬であり高倉上皇の症状は、高熱に苦しんだ清盛の病状によく似ていると言えるでしょう。藤原邦綱は高倉上皇が皇太子の時代からの側近であり、高倉上皇の病状を見舞う間に自身も溶連菌感染症に感染したと考えられます。
また、高倉上皇は飛鳥時代の崇峻天皇以来とされる崩御した当日に埋葬され、葬儀でも上卿は1人も参列しないという異例の事態になっており、それは疫病が疑われる時に取られる措置だそうです。
邦綱は清盛に遅れる事12日後の1181年4月8日に死去しますが、邦綱も死の翌日には埋葬されていて当時の人々が邦綱も高倉上皇同様疫病に感染したと考えていた節が窺えます。
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清盛の熱病が強調された理由
平清盛が高熱で死んだと言う事は疑いなさそうですが、平家物語とは違い、同時代の藤原定家の「明月記」では、清盛が熱に苦しみのたうちまわって死んだとは書いていても、高熱が周囲に発されているとは書いていません。
どうもこれは、前年に清盛が子の重衡に命じて興福寺と園城寺を焼き払わせた因果で、清盛が炎に焼かれるような苦しみにあったと連想されたものであるようです。
いくら高熱を発するとしても、人間は体温が42度以上になれば細胞のタンパク質が凝固して元に戻らず死滅するので周囲の人が熱を感じるほどの高熱を放射できるハズはありませんからね。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、東北大学、大学院文学研究科、赤谷正樹氏が日本医師学雑誌に投稿した論文平清盛の死因―藤原邦綱の死との関連を中心に―を参考にして清盛の命を奪った原因不明の熱病について書いてみました。
清盛が熱病で死んだという話はよく耳にしていましたが、清盛と同時期に死んだ高倉上皇や、藤原邦綱が溶連菌感染症と見られる伝染病で死んでいて、清盛も邦綱との密談を通じて溶連菌感染症の症状の1つ、電撃性猩紅熱に罹ったとする説は斬新で説得力があると感じましたが、皆さんはどうですか?
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