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北条政子だけじゃない!愛人の家を壊す日本の奇習うわなりうちとは?【鎌倉殿の13人】

27/03/2022


鎌倉殿13人 北条義時

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第12話は「亀の前事件」です。

 

北条政子に隠れて愛人を作る源頼朝

 

亀の前事件とは、頼朝の正室、北条政子(ほうじょうのまさこ)が頼朝の(めかけ)である亀の前の存在を知って激怒し、牧宗親(まきのむねちか)に命じて亀の前が密かに住んでいる伏見広綱(ふしみのひろつな)の屋敷を襲撃し破壊した事件です。

 

源頼朝の浮気相手の屋敷を破壊する北条政子

 

大河ドラマでは破壊に留まらず放火までして全焼させてしまい頼朝に「そこまでするか?」と呆れられていました。政子の嫉妬深(しっとぶか)さを象徴する事件ですが、これは政子だけに留まらず「うわなりうち」と呼ばれ広く日本に存在した奇習でした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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うわなりうちの意味とは?

忙しい方にざっくり解答03 kawausoさん

 

最初に聞きなれない「うわなりうち」の言葉の意味を解説しましょう。うわなりとは「後妻」を意味し先妻を意味する「こなみ」の対義語です。この「うわなり」を「こなみ」が打ちすえるので「うわなりうち」と呼ばれました。

 

元々は、妻がいながら妾をもった男性の妾をうわなりと言いましたが、後には妻と離婚後に迎えた後妻についても「うわなり」と呼ぶようになったようです。

 

直垂を着用する源頼朝

 

頼朝の場合、正室の政子がいながら、妾として亀の前を置いたので本来の意味でのうわなりうちという事になります。

 

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歴史ヒストリア

 

 

うわなりうちの起源

京都御所

 

うわなりうちが最初に文献に登場するのは寛弘(かんこう)7年(1010年)2月に藤原道長(ふじわらのみちなが)侍女(じじょ)が夫の愛人の屋敷を30人の下女と襲撃した事件だそうです。しかし侍女の夫は浮気者だったのか、侍女は2年後の2月にも別の女性の屋敷を襲撃しているのだとか…

 

これらの記録は権記(ごんき)御堂関白記(みどうかんぱくき)に登場しますが、別に驚かれたような書かれ方ではないので、実際にはそれ以前からうわなりうちという習慣は存在していたのでしょう。

 

名古屋城

 

うわなりうちは中世には存在し、その後戦国を通じて続き江戸時代の寛永年間に入る頃には下火になったようです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

ドラマはやりすぎルールがあるうわなりうち

炎上する城a(モブ)

 

大河ドラマでは、伏見広綱の屋敷を壊すだけに留まらず放火して全焼させていますが、実際のうわなりうちでは、ここまではやらなかったようです。

 

一見すると女性の嫉妬心(しっとしん)を解放した暴力行動に見えるうわなりうちですが世間に受け入れられる中で厳密なルールが誕生し、その枠内でやる分には大目に見られるようになりました。

 

ルールは江戸時代初期のものですが、以下の通りです。

 

・うわなりうちが認められるのは先妻と離婚後、1ヶ月以内に後妻を迎えた時

・先妻は家老(かろう)を使者として後妻の元に派遣しうわなりうちの人数、武器、日時を報告

・先妻側は台所側から乱入、鍋や釜、(かまど)、障子を壊し後妻が集めた女と戦う

・刃物のような取り返しがつかない傷を負わせる武器は禁止。

・頃合いを見て、先妻と後妻の仲人が仲裁にはいり双方とも引く

 

このように予告の無いうわなりうちは禁止され、刃物のような相手を殺す恐れがある武器も禁止。ある程度モノを壊して暴れたら、仲裁人の裁定を受け入れて引き下がるのが掟でした。

 

うわなりうちは江戸初期までは盛んにおこなわれ、生涯に十六回も助っ人を頼まれた老婆がいるなど、女性の数少ないストレス解消法として機能していた様子がうかがえます。

 

先妻も後妻も激しく喧嘩(けんか)して(ののし)り合い、ストレスを解消し、後はそれぞれの人生を歩んで恨みっこなしというのが、うわなりうちの正体だったのでしょう。

 

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亀の前事件とは?

水滸伝って何? 書類や本

 

うわなりうちが分かった所で、吾妻鏡に記録された亀の前事件について現代文に直して解説してみましょう。

 

亀の前 女性 鎌倉殿の13人

 

寿永元年(1182年)11月10日、ここのところ頼朝様が寵愛(ちょうあい)する「亀の前」を伏見広綱の飯島(いいじま)の屋敷に住まわせました。しかし、この事が御台所(みだいどころ)(政子)にばれ御台所は激しく怒ってしまいます。

 

どうして浮気がばれたのかと言えば、北条時政殿(ほうじょうのときまさ)の後妻、牧の方(まきのかた)が、これは内緒の話だけどと申して御台所に教えてしまったからです。御台所は、本日牧三郎宗親に命令し広綱邸を破壊し、亀の前に侮辱を加えました。

 

広綱は亀の前を連れてなんとか逃げだし大多和五郎義久(おおたわのごろうよしひさ)鐙摺(あぶずり)の屋敷に逃げ込みました。

 

11月12日、頼朝様は遊覧(ゆうらん)という名目で大多和五郎義久の家へ向かう事にし、牧三郎宗親にお供を命じます。屋敷につくと頼朝様は宇都宮広綱を呼んでおとといの出来事を一部始終話させ、その後宗親を呼びつけて厳しく詰問しました。

 

宗親は弁明できずにしどろもどろになり、地べたに這いつくばって許しを請います。頼朝様はカッとなり、宗親の(もとどり)をつかんで小刀で斬り落としてしまいました。そして宗親に言うには

「御台所を重んじるのも、その命令を守るのも立派な心掛けだが、どうして実行する前に私に相談しなかったのか?私を無視して亀の前に恥辱を与えるとはけしからん事だ」

宗親は泣きながら逃亡してしまいました。そして頼朝様は今夜も亀の前の所にお泊りです。

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん03 怒

 

一切反省していない頼朝と、政子と頼朝に挟まれ髻を切られて泣きながら逃げる牧宗親、夫婦喧嘩は犬も食わないとは、まさにこの事でしょうね。

 

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もうひとりの犠牲者 伏見広綱

戦国時代の武家屋敷a

 

亀の前事件には、もうひとり犠牲者がいます。頼朝に命じられて屋敷に亀の前を住まわせていた伏見広綱です。政子の怒りは屋敷を貸しただけの広綱にも向い、彼は浜松に島流しにされています。

 

可哀想な事に頼朝が広綱の処分について政子に抗議した様子もなく、広綱もこの後出てくる事はなくなりました。頼朝の命令で屋敷を貸しただけなのに、トカゲの尻尾切りをされるとは、浮気なんぞに協力するのではなかったと広綱はつくづく思った事でしょう。

 

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源頼朝

 

 

事件で一人だけ株を上げた義時

北条時政

 

亀の前事件は、北条時政を激怒させました。自分の妻である牧の方の兄を頼朝が髻を斬り落として辱めたのだから当然です。

 

「冗談じゃねえよ、なにが頼朝だ!金輪際(こんりんざい)、お前なんか助けてやるもんか!」

こうして時政は北条家の人々を連れて伊豆に引っ込んでしまったのです。

 

田舎の武家の次男坊だった北条義時

 

頼朝は困ると同時に激怒しますが、義時は心が穏便だから伊豆に戻らずに残っているのではないかと考え、梶原景時(かじわらのかげとき)の子、景季(かげすえ)に命じて様子を見させると、その通りで義時は時政に同調せずに鎌倉に留まっていました。

 

嬉しくなった頼朝は義時を御所に呼び出して

 

源頼朝活躍の陰に北条義時あり

 

「そなたの父は心得違(こころえちが)いをして伊豆に帰ってしまったが、お前は私の心を汲んで時政に同調しなかったな。その事を嬉しく思う。きっとお前は私の子孫を守ってくれるだろう。いつか褒美をとらそう」

 

平家の横暴に辟易している北条義時

 

義時はこの時、とくにうんともすんとも言わず、褒美については有難く受け取ると告げて屋敷に引き上げたそうです。義時も頼朝の身勝手さに言いたいこともあったのでしょうが、今後を考えて我慢したのでしょう。

 

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北条義時

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

亀の前事件は、北条政子の嫉妬から発生した単発的な事件ではなく、政子の時代より180年前から記録されていた「うわなりうち」という作法に則った復讐方法だったようです。

 

女好きだった源頼朝

 

伏見広綱の屋敷を失った浮気者の頼朝ですが、全く懲りる様子もなく、鐙摺の大多和五郎義久の屋敷から、より鎌倉に近い小坪(こつぼ)小忠太光家(こちゅうたみついえ)の屋敷に亀の前を移しました。

 

亀の前は政子の怒りを恐れ引っ越すのは嫌だと言ったそうですが、頼朝は亀の前を少しでも鎌倉の近くに置きたい一心で説得し、亀の前も従う以外になかったようです。その後、亀の前がどうなったのかは吾妻鏡に欠落があり分かりません。

 

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はじめての平安時代

 

 

 

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カワウソ編集長

カワウソ編集長

日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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