NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第12話は「亀の前事件」です。
亀の前事件とは、頼朝の正室、北条政子が頼朝の妾である亀の前の存在を知って激怒し、牧宗親に命じて亀の前が密かに住んでいる伏見広綱の屋敷を襲撃し破壊した事件です。
大河ドラマでは破壊に留まらず放火までして全焼させてしまい頼朝に「そこまでするか?」と呆れられていました。政子の嫉妬深さを象徴する事件ですが、これは政子だけに留まらず「うわなりうち」と呼ばれ広く日本に存在した奇習でした。
この記事の目次
うわなりうちの意味とは?
最初に聞きなれない「うわなりうち」の言葉の意味を解説しましょう。うわなりとは「後妻」を意味し先妻を意味する「こなみ」の対義語です。この「うわなり」を「こなみ」が打ちすえるので「うわなりうち」と呼ばれました。
元々は、妻がいながら妾をもった男性の妾をうわなりと言いましたが、後には妻と離婚後に迎えた後妻についても「うわなり」と呼ぶようになったようです。
頼朝の場合、正室の政子がいながら、妾として亀の前を置いたので本来の意味でのうわなりうちという事になります。
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うわなりうちの起源
うわなりうちが最初に文献に登場するのは寛弘7年(1010年)2月に藤原道長の侍女が夫の愛人の屋敷を30人の下女と襲撃した事件だそうです。しかし侍女の夫は浮気者だったのか、侍女は2年後の2月にも別の女性の屋敷を襲撃しているのだとか…
これらの記録は権記や御堂関白記に登場しますが、別に驚かれたような書かれ方ではないので、実際にはそれ以前からうわなりうちという習慣は存在していたのでしょう。
うわなりうちは中世には存在し、その後戦国を通じて続き江戸時代の寛永年間に入る頃には下火になったようです。
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ドラマはやりすぎルールがあるうわなりうち
大河ドラマでは、伏見広綱の屋敷を壊すだけに留まらず放火して全焼させていますが、実際のうわなりうちでは、ここまではやらなかったようです。
一見すると女性の嫉妬心を解放した暴力行動に見えるうわなりうちですが世間に受け入れられる中で厳密なルールが誕生し、その枠内でやる分には大目に見られるようになりました。
ルールは江戸時代初期のものですが、以下の通りです。
・うわなりうちが認められるのは先妻と離婚後、1ヶ月以内に後妻を迎えた時
・先妻は家老を使者として後妻の元に派遣しうわなりうちの人数、武器、日時を報告
・先妻側は台所側から乱入、鍋や釜、竈、障子を壊し後妻が集めた女と戦う
・刃物のような取り返しがつかない傷を負わせる武器は禁止。
・頃合いを見て、先妻と後妻の仲人が仲裁にはいり双方とも引く
このように予告の無いうわなりうちは禁止され、刃物のような相手を殺す恐れがある武器も禁止。ある程度モノを壊して暴れたら、仲裁人の裁定を受け入れて引き下がるのが掟でした。
うわなりうちは江戸初期までは盛んにおこなわれ、生涯に十六回も助っ人を頼まれた老婆がいるなど、女性の数少ないストレス解消法として機能していた様子がうかがえます。
先妻も後妻も激しく喧嘩して罵り合い、ストレスを解消し、後はそれぞれの人生を歩んで恨みっこなしというのが、うわなりうちの正体だったのでしょう。
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亀の前事件とは?
うわなりうちが分かった所で、吾妻鏡に記録された亀の前事件について現代文に直して解説してみましょう。
寿永元年(1182年)11月10日、ここのところ頼朝様が寵愛する「亀の前」を伏見広綱の飯島の屋敷に住まわせました。しかし、この事が御台所(政子)にばれ御台所は激しく怒ってしまいます。
どうして浮気がばれたのかと言えば、北条時政殿の後妻、牧の方が、これは内緒の話だけどと申して御台所に教えてしまったからです。御台所は、本日牧三郎宗親に命令し広綱邸を破壊し、亀の前に侮辱を加えました。
広綱は亀の前を連れてなんとか逃げだし大多和五郎義久の鐙摺の屋敷に逃げ込みました。
11月12日、頼朝様は遊覧という名目で大多和五郎義久の家へ向かう事にし、牧三郎宗親にお供を命じます。屋敷につくと頼朝様は宇都宮広綱を呼んでおとといの出来事を一部始終話させ、その後宗親を呼びつけて厳しく詰問しました。
宗親は弁明できずにしどろもどろになり、地べたに這いつくばって許しを請います。頼朝様はカッとなり、宗親の髻をつかんで小刀で斬り落としてしまいました。そして宗親に言うには
「御台所を重んじるのも、その命令を守るのも立派な心掛けだが、どうして実行する前に私に相談しなかったのか?私を無視して亀の前に恥辱を与えるとはけしからん事だ」
宗親は泣きながら逃亡してしまいました。そして頼朝様は今夜も亀の前の所にお泊りです。
一切反省していない頼朝と、政子と頼朝に挟まれ髻を切られて泣きながら逃げる牧宗親、夫婦喧嘩は犬も食わないとは、まさにこの事でしょうね。
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もうひとりの犠牲者 伏見広綱
亀の前事件には、もうひとり犠牲者がいます。頼朝に命じられて屋敷に亀の前を住まわせていた伏見広綱です。政子の怒りは屋敷を貸しただけの広綱にも向い、彼は浜松に島流しにされています。
可哀想な事に頼朝が広綱の処分について政子に抗議した様子もなく、広綱もこの後出てくる事はなくなりました。頼朝の命令で屋敷を貸しただけなのに、トカゲの尻尾切りをされるとは、浮気なんぞに協力するのではなかったと広綱はつくづく思った事でしょう。
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事件で一人だけ株を上げた義時
亀の前事件は、北条時政を激怒させました。自分の妻である牧の方の兄を頼朝が髻を斬り落として辱めたのだから当然です。
「冗談じゃねえよ、なにが頼朝だ!金輪際、お前なんか助けてやるもんか!」
こうして時政は北条家の人々を連れて伊豆に引っ込んでしまったのです。
頼朝は困ると同時に激怒しますが、義時は心が穏便だから伊豆に戻らずに残っているのではないかと考え、梶原景時の子、景季に命じて様子を見させると、その通りで義時は時政に同調せずに鎌倉に留まっていました。
嬉しくなった頼朝は義時を御所に呼び出して
「そなたの父は心得違いをして伊豆に帰ってしまったが、お前は私の心を汲んで時政に同調しなかったな。その事を嬉しく思う。きっとお前は私の子孫を守ってくれるだろう。いつか褒美をとらそう」
義時はこの時、とくにうんともすんとも言わず、褒美については有難く受け取ると告げて屋敷に引き上げたそうです。義時も頼朝の身勝手さに言いたいこともあったのでしょうが、今後を考えて我慢したのでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
亀の前事件は、北条政子の嫉妬から発生した単発的な事件ではなく、政子の時代より180年前から記録されていた「うわなりうち」という作法に則った復讐方法だったようです。
伏見広綱の屋敷を失った浮気者の頼朝ですが、全く懲りる様子もなく、鐙摺の大多和五郎義久の屋敷から、より鎌倉に近い小坪の小忠太光家の屋敷に亀の前を移しました。
亀の前は政子の怒りを恐れ引っ越すのは嫌だと言ったそうですが、頼朝は亀の前を少しでも鎌倉の近くに置きたい一心で説得し、亀の前も従う以外になかったようです。その後、亀の前がどうなったのかは吾妻鏡に欠落があり分かりません。
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