山内首藤経俊とはどんな人?無能だが先祖の七光りで長寿した人【鎌倉殿の13人】

25/03/2022


忙しい方にざっくり解答01 kawausoさん

 

親の七光りってありますよね?

 

自分を実力以上に輝かせてくれる先祖や父母からのギフト。「そんなモノがあっても本人がメッキじゃあ…」と思いつつも、あったらいいなと思わなくもありません。

 

山内首藤経俊 鎌倉

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも、まさしく先祖の功績で斬首当然の罪を免れ89歳まで長生きした山内首藤経俊(やまうちのすどうつねとし)という人がいました。頼朝が文句を言いつつ許し続けた山内首藤経俊はどういう人物なのでしょうか?

 

 

頼朝の乳兄弟

戦国時代の武家屋敷a

 

山内首藤経俊は保延(ほうえん)3年(1137年)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲む刑部丞俊通(おさかべのじょうとしみち)の子として誕生しました。生母の山内尼(やまうちのあま)は源頼朝の乳母(うば)を勤めていて、その事が何度も経俊の命を救う事になります。

 

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

経俊が19歳の時、平治の乱が勃発、山内氏は源義家(みなもとのよしいえ)以来、河内源氏(かわちげんじ)に仕えている家柄であり、一族はすべて源義朝に味方します。しかし、経俊は病の為に参陣できず源氏方について戦った父の俊通と兄、俊綱(としつな)の討死で家督を継ぎました。

 

この消極的に家督を継いだトラウマが経俊を戦争恐怖症にしたようです。

 

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はじめての平安時代

 

 

頼朝の挙兵要請を暴言で拒否

安達 盛長 鎌倉殿の13人

 

治承4年(1180年)8月、乳兄弟(ちきょうだい)の頼朝が平家打倒に立ち上がる事を決意し経俊の下に従者の安達盛長(あだちのもりなが)を派遣しました。しかし、経俊は要請には従わず「富士の山と背比べをしたり、ネズミがネコを狩る無謀な事だ」と暴言を吐いて追い返します。

 

 

平家の総帥・平清盛

 

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はじめての鎌倉時代

 

大庭景親の軍に参加し頼朝を矢で射る

 

一方で経俊は平清盛の信任厚い大庭景親(おおばのかげちか)に従い、頼朝追討の先頭に立ちました。それも時の勢いに逆らえずに仕方なくというより超ノリノリであり、石橋山山中に逃れた頼朝に向かい、矢を放って大鎧(おおよろい)に突き刺しています。

 

源頼朝から信頼が厚い北条義時

 

(挙兵に参加しないだけならまだしも、乳兄弟のわしに矢を放つか?絶対に許さんぞ経俊)

 

経俊としては討ち死を避けるために、頼朝よりも圧倒的に強い大庭景親についただけでしたが、その目論見はすぐに崩れてしまいます。

 

鎌倉仏像(仏教)

 

伊豆を離れて房総に逃れた頼朝は上総の大豪族、上総広常(かずさのひろつね)千葉常胤(ちばのつねたね)など平家に不満を持つ武士を吸収。6万人の大軍になり要害である鎌倉の土地に入城したのです。

 

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源頼朝

 

 

山内尼の嘆願で許される

比企尼 女性 鎌倉殿の13人

 

こうなると、坂東(ばんどう)の武士は次々に頼朝について平家方の武士を攻撃、最後の頼みの綱だった平維盛(たいらのこれもり)を総大将とする頼朝征討軍が富士川で戦わずに潰走すると大庭景親は捕まって斬首され、山内首藤経俊も捕まって鎌倉の荘園を没収されます。経俊も頼朝に矢を放った事から斬首が内密に決定していました。

 

常に北条家に監視される源頼朝

 

しかし、それを知った経俊の母である山内尼が頼朝に助命嘆願にやってきます。それに対し頼朝は無言で大鎧に突き刺さった経俊の矢を尼に見せました。さすがに尼も顔色を変えその場は引き下がっていきます。これで経俊の斬首は決まったかと思われましたが、頼朝は結局経俊を赦免しました。

 

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源義経

 

 

数少ない頼朝の親族として重職を任される

 

その後、経俊は元暦元年(1184年)5月の志田義広(しだのよしひろ)の反乱、7月の平家残党の反乱の追討に出陣し功績で伊勢国守護になります。さらに大内惟義(おおうちのこれよし)の後任で伊賀国の守護も兼ねます。経俊が守護のような重職に任じられたのは、頼朝に親族が少なく坂東武者より乳兄弟の経俊に任せた方がいいという判断があったようです。

 

京都御所

 

一方、経俊はポカをやらかし、頼朝に無断で朝廷から官途を受けた24人に名前を連ねました。頼朝は激怒し「経俊のような役立たずに官職を与えるのは無益な事よ」と罵倒しますが経俊を守護から解任しませんでした。

 

その後の経俊は、謀反した義経の家臣、伊勢義盛と交戦してこれを破り、奥州合戦にも参加して領地を増やします。建久元年(1190年)の頼朝の上洛にも参加しました。頼朝が死去すると経俊は梶原景時(かじわらのかげとき)弾劾(だんがい)する側に回り延命します。

 

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三日平家の乱を鎮圧できずに逃亡

逃亡する兵士 日本史ver

 

元久(げんきゅう)元年(1204年)伊勢・伊賀の任地で起きた三日平氏(みっかへいし)の乱で経俊は反乱鎮圧に失敗、ただしくじっただけではなく、反乱を放置して逃亡します。反乱は平賀朝雅(ひらがのともまさ)が鎮圧し経俊は任務を放棄して逃げた事で守護を解任され、両国の守護は平賀朝雅に移りました。

 

りく(牧の方) 女性 鎌倉殿の13人

 

ところが平賀朝雅は牧氏の乱の首謀者として失脚し、経俊の子の六郎通基(ろくろうみちもと)に殺害されます。経俊は、伊勢と伊賀の守護職復帰を願いますが許されませんでした。すでに頼朝は亡く、将軍権力は陪臣(ばいしん)である北条氏に移りつつある中で経俊の利用価値はなくなり過去の人になっていました。

 

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北条義時

 

 

89歳の長寿で大往生

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その後、経俊の動向が記される事も減ってゆき建保(けんぽう)4年(1216年)80歳の時に3代将軍、源実朝(みなもとのさねとも)の供をして相模川に赴いたのが最期でした。老齢の経俊はさらに9年も生き続け嘉禄(かろく)元年(1225年)89歳で死去します。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

山内首藤経俊は、無能な人物でしたが生母が頼朝の乳母だった事で斬首相当の立場にあっても延命する事ができました。また、無能であるために頼朝死後も北条氏に脅威に思われる事もなく、有能な御家人が次々と粛清される中でも閑職にまわされ生き続ける事が出来たのです。

 

無能である事と先祖からの七光りが経俊の長寿の秘訣だったのでしょう。

 

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