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源義朝とはどんな人?頼朝に鎌倉と坂東武者を残した陰の功労者【鎌倉殿の13人】

14/02/2022


忙しい方にざっくり解答02 kawausoさん

 

今日の一言「鎌倉と坂東武者は俺のヨメ」

 

源義朝

 

源義朝(みなもとのよしとも)はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の前半の主人公である源頼朝(みなもとのよりとも)の父です。

 

朝廷すら意のままに操る平清盛

 

後に鎌倉幕府を起こす人物の父ながら平治(へいじ)の乱で平清盛(たいらのきよもり)に敗れて敗死し河内源氏(かわちげんじ)を没落させた事であまり評判が芳しくなく、多くの映画やドラマではスルーされがちです。

 

鎌倉を拠点にした源頼朝

 

しかし、義朝がいなければ頼朝は鎌倉に幕府を起こす事も、そもそも挙兵を成功させる事も出来ませんでした。今回のほのぼの日本史では鎌倉幕府の陰の功労者、源義朝を取り上げてみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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河内源氏の没落期に誕生

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

源義朝は保安(ほうあん)4年(1123年)河内源氏の棟梁(とうりょう)源為義(みなもとのためよし)と白河法皇の近臣(きんしん)である藤原忠清(ふじわらのただきよ)の娘の間に誕生します。

 

 

義朝が誕生した頃、河内源氏は源義家(みなもとのよしいえ)死後の家督を巡る一族紛争で没落。ライバルである伊勢平氏に差をつけられていました。当時の棟梁為義も粗暴な性格で問題が多く、白河法皇の信任を失い官位は低迷し将来は暗い状態でした。

 

 

義朝は父の為義との関係が悪く、為義は義朝ではなく息子の義賢に家督を継がせようと考えていたとする説もあります。そのため義朝は父とは別の基盤を持つ必要に迫られ少年時代に坂東(ばんどう)に下向し、上総氏(かずさし)の庇護を受けて同地で成長しました。

 

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WEB版 はじめての三国志

 

 

源頼信以来の拠点 坂東

 

義朝が坂東に下向したのは決して思い付きではありません。河内源氏は、源頼信が西暦1031年に房総(ぼうそう)で起きた平忠常の乱を平定した頃から坂東の御家人と主従関係を結んで坂東に拠点を得ていたからです。

 

坂東武士B(モブ)

 

頼信の子、源頼義は、坂東八平氏の平直方(たいらのなおかた)の娘を正室として坂東の勢力を引き継ぎ、前九年の役では坂東武者を動員して戦い、後三年の役では、頼義の子の義家が同じく坂東武者を率いて奥州清原氏の内紛に介入していました。

 

このような経緯から坂東は平氏の地盤ながら河内源氏のホームと呼べる存在で義朝がやってくる事も大歓迎だったのです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

坂東豪族の争いに介入し勢力を伸ばす義朝

大庭景親 鎌倉

 

義朝は関東に下向しただけではなく、相馬御厨(そうまみくり)大庭御厨(おおばみくり)などの支配権を巡って坂東豪族の勢力争いに介入。結果、三浦義明(みうらのよしあき)大庭景義(おおばのかげよし)などの有力豪族を支配下に収めます。

 

坂東武士A(モブ)

 

同時に義朝は関東豪族との婚姻(こんいん)を積極的に推進、相模豪族(さがみごうぞく)の三浦氏との間に庶長子義平(よしひら)、波多野氏との間には次男朝長(ともなが)、遠江国池田宿の遊女との間には六男範頼(のりより)を儲けるなど関東に自分の血脈を着実に広げていきました。

 

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ながら日本史

 

 

鎌倉に拠点を移し、鎌倉幕府の基礎を築く

京都御所

 

こうして義朝は関東の地盤を確立し、それまでの居城があった沼浜(ぬまはま)から高祖父(こうそふ)頼義(よりよし)以来の土地である鎌倉の亀ヶ谷に館を移しました。義朝が地道に築いてきた坂東武者との関係と本拠地鎌倉はその後、伊豆に流された息子である頼朝に引き継がれます。

 

もし義朝が関東に下向して、在地豪族と血縁関係を結ばなかったら頼朝の挙兵に従う坂東武者は遥かに少なくなっていたでしょうから、義朝こそは鎌倉幕府の土台を準備した人物と言えるのです。

 

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義朝は鳥羽上皇の勢力に接近し官位で父を追い越す

後白河法皇 天皇

 

東国を制した事で義朝の評価は格段に上がりました。寺社勢力の鎮圧や東国の荘園支配のため坂東武者の軍事力を必要とする鳥羽法皇(とばほうおう)や藤原忠通が義朝にラブコールを送り、取り込みを図ったのです。

 

義朝は庶長子の義平に関東を任せると京都に戻り、熱田大宮司(あつただいぐうじ)藤原季範(ふじわらすえのり)の娘、由良御前(ゆらごぜん)との間に三男頼朝を儲けました。そして法皇や藤原忠通(ふじわらのただみち)の引き立てで仁平3年(1153年)には31歳で従五位下・下野守(しもつけのかみ)に任じられ翌年には右馬助(うまのすけ)を兼任します。

 

義朝の受領就任は祖父源義親(みなもとのよしちか)以来、五十年ぶりの快挙で検非違使に過ぎない父の為義を追い越す事になりました。しかし、この事は河内源氏の快挙という単純な事ではなく、藤原摂関家(ふじわらせっかんけ)を後ろ盾とする父為義と鳥羽法皇を後ろ盾とする義朝との対立をはらんでいました。

 

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大蔵合戦で弟義賢を殺し、父との対立は決定的に

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

久寿(きゅうじゅ)2年(1155年)為義は関東における義朝の勢力を削ごうと義朝の弟の義賢を関東に下向させました。これに対し義朝は鎌倉に置いてきた義平に義賢の排除を命じ大蔵合戦で義賢を討ち取ります。

 

これは明らかな私闘であり、京都に報告が届くと義朝も処罰は免れない所ですが、当時の武蔵守(むさしのかみ)藤原信頼(のぶより)の黙認があり事態は握りつぶされました。為義はさらに義朝の弟の頼賢を派遣して信濃国の鳥羽法皇の荘園を奪うなどしたので、法皇は義朝に頼賢討伐の院宣を出すなど一触即発の状態となりました。

 

合戦は義朝が直前で回避に動いたので何とか阻止されますが為義と義朝の対立は決定的になります。

 

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ほのぼの日本史

 

 

保元の乱で父為義を殺す

炎上する城a(モブ)

 

保元元年(1156年)7月、鳥羽法皇の死去を切っ掛けに藤原摂関家の頼長を味方につけた崇徳上皇(すとくじょうこう)と鳥羽法皇の権力を継承する後白河天皇の間で皇位継承を巡る戦い保元の乱が勃発します。

 

すでに鳥羽法皇の勢力と結びついていた義朝は、崇徳上皇についた為義や兄弟の頼賢、為朝(ためとも)と袂を分かち、平清盛等と共に後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣。この戦いでは先制攻撃と夜襲を主張した義朝の主張が通り、戦いは後白河天皇方の勝利に終わりました。

 

平家の総帥・平清盛

 

敗北した為義は義朝の元に出頭、保元物語では義朝が自分の手柄と引き換えに父の助命を求めたとされますが後白河法皇の側近、信西(しんぜい)が拒否。義朝は船岡山村の辺りで為義とその子供たちを処刑しました。

 

噂話をする戦国時代の庶民(モブ)

 

都の人々は義朝を「父殺し」と(そし)ったと言われています。

 

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恩賞に不満を持つ義朝

NHK大河ドラマ 平清盛風

 

しかし、父を殺し親殺しと後ろ指を指されてまで天皇方に尽くした義朝の恩賞は左馬頭(さまのかみ)任官、息子の義平には何もなしという寂しいモノでした。一方で宿敵平清盛は、保元の乱の前から正四位以下と公卿直前の地位まで昇進していて、その地位の絶望的な差に義朝が不満を持ったとも言われています。

 

元々、謀反鎮圧(むほんちんあつ)の功績については通常の褒美とは違い、源頼信や義家のケースを見ても「望みの通りの受領への任官」や「飛び級での官位上昇」「子弟や郎党への官位授与」が通例だったので、義朝が自分も清盛に並ぶ官位を授けられるに違いないと期待しても不思議ではありませんでした。

 

それらがことごとく無視され、ライバルと待遇の差を見せつけられた義朝が強い不満を持ったとしても不思議はないのです。

 

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平治の乱で信西を討つ

朝廷(天皇)

 

保元の乱後、政治は後白河天皇の乳父でブレーンである信西に握られました。

 

まもなく後白河天皇は息子の二条天皇に譲位して上皇となり、政治は二元化しますが、相変わらず政治的な判断は信西が下していて、この事に嫌気が差した勢力が後白河上皇派と二条天皇派で台頭して、信西排斥で手を組む事になりました。

 

後白河上皇サイドの反信西派の筆頭は藤原信頼で、義朝とは彼が坂東で勢力を広げている頃からの親しい関係です。義朝にとっても信西は父の助命嘆願を拒否し、ろくに恩賞も出さなかった憎い相手であり、源光保(みねもとのみつやす)源季実(みなもとのすえざね)源重成(みなもとのしげなり)などに声をかけて与党を造ります。

 

藤原京(地図)

 

しかし、信西は京都最大の軍事勢力である平清盛と姻戚関係にあり、清盛が京都にいる限りクーデターは難しい状態でした。ところが都合よく清盛が熊野参詣に出かける事が分かり、義朝は隙を突いて信西が住んでいる三条殿に奇襲を掛けたのです。

 

信西は異変を察知して逃げており、三条殿で討ち取る事は出来ませんでしたが、その後地中に潜んでいる事を信西の部下が白状します。信西は観念して自害しクーデターは成功しました。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

平清盛に敗れる

朝廷すら意のままに操る平清盛

 

信西を打倒した義朝は政治の実権を握った藤原信頼に恩賞として播磨守(はりまのかみ)に任官されます。さらに嫡男の頼朝は右兵衛佐(うひょうえのすけ)に任じられました。

 

しかし、元々信西憎しで結束していた上皇派と天皇派の結束は信西が消えた事で早くも空中分解し、今度は信西をしのぐ権力者として振る舞い出した信頼と二条天皇の側近である藤原経宗(ふじわらのつねむね)葉室惟方(はむろのこれかた)との対立へと変化しました。

 

義朝の子、義平は清盛が二条天皇サイドにつく事を警戒し、京都に戻ってくる前に討ち取るように信頼に進言しますが、すでに清盛と姻戚関係にあった信頼は清盛の追討には否定的で六波羅(ろくはら)に戻ってきた清盛が名簿(みょうぶ)を提出して臣下の礼を取るとすっかり信用して警戒心を解きました。

 

和宮が嫁入り時の行列(将軍の上洛)女性

 

まだどちらに味方するか決めかねていた清盛を味方に引き込む為に、藤原経宗と葉室惟方は行幸を口実として二条天皇を御所から連れ出して六波羅の清盛の館に避難させると同時に後白河法皇も屋敷から仁和寺に脱出してしまいます。

 

天皇と上皇を一夜で失いおろおろする信頼に義朝は「ボクちんが天皇を奪われないよう見張っててねと言ったのにあんたは日本一のウッカリさーん」と罵声を浴びせたそうです。天皇と上皇の身柄を確保した清盛は官軍となり、元々信頼についていた貴族や源頼政のような武士も清盛に従い、続々と六波羅に移動しました。

 

こうして信頼と義朝は朝敵となり六波羅で合戦となりますが、清盛軍が6000に対し義朝軍は1500と劣勢で士気も低く、戦いはワンサイドゲームとなり義朝軍は壊滅します。

 

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尾張国野間で入浴中に殺害される

 

信頼を見捨てた義朝は、息子の義平、朝長、頼朝、大叔父の源義隆(みなもとのよしたか)平賀義信(ひらがのよしのぶ)、源重成、家臣の鎌田政清(かまたのまさきよ)斎藤実盛(さいとうのさねもり)渋谷金王丸(しぶやこんのうまる)を伴い坂東まで下って勢力回復を企て東海道を下りますが、執拗な落ち武者狩りに遭遇して、朝長、義隆、重成を失います。

 

また頼朝は途中で一行とはぐれ、義平は別行動で北陸、または東山道を目指して離脱しますが、上手くいかずに京に戻って潜伏し、清盛暗殺を試みて失敗し打首となりました。

 

義朝は馬も失い裸足で尾張国野間に辿り着き、鎌田政清の年来の家人だった長田忠致(おさだのただむね)と、その子景致(かげむね)の元に身を寄せます。しかし、長田父子はすでに清盛に内応し義朝が風呂に入っている間に襲撃して殺害しました。

 

丸腰の義朝は「我に一本の木刀でもあれば」と無念を叫んだそうですがあえない最期となりました。それは京都を発ってより僅か3日後の事だったのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

坂東を中心に河内源氏の勢力を拡大して鳥羽法皇に取り入り、摂関家を後ろ盾にしていた父、為義を保元の乱で切り捨て権力の階段を駆け上った源義朝。

 

しかし、頼みとした藤原信頼が日本一のウッカリさんだったせいで、天皇と上皇を奪われ、一夜にして朝敵に落ちてしまい、最期は信じた家人に裏切られ風呂場で丸腰のままで殺される最期を迎えました。

 

子の頼朝と比較すると政治力で比較にならない義朝ですが、義朝が平治の乱で手に入れた頼朝の官位、右兵衛佐と鎌倉と坂東武士団は頼朝が挙兵するのになくてはならない財産となりました。そう考えると義朝は鎌倉幕府の礎になって死んだのだなと思わずにはいられませんね。

 

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カワウソ編集長

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