源仲章は宇多源氏の流れを汲む人物です。院近臣として後鳥羽上皇に仕えると同時に鎌倉幕府3代将軍、源実朝の教育係としても活躍し、その功績から従四位上の官途を受けて殿上人になりました。
しかし、そんな仲章も最後には北条義時に間違えられて暗殺されるという悲惨な最期を迎えるのです。
記事を引用する方へ:ほのぼの日本史はエンタメ要素を重視した娯楽読物であり、学術論文ではありません。記事内容の正確さについてほのぼの日本史はその一切を保障しません。ほのぼの日本史の記事を引用した結果、生じた損害等については、全て引用者の自己責任となります。
父の代から院近臣として仕える
源仲章は、宇多源氏の流れを汲む左大臣源雅信の後裔です。父の源光遠も後白河法皇の近臣として院判官代を勤め、仲章はその後を継いで後鳥羽上皇に仕えました。
仲章は朝廷だけでなく鎌倉幕府とも誼を通じて朝廷に仕えたまま御家人としての資格を得ます。これは特に珍しい事ではなく、当時は朝廷と幕府に仕える御家人は存在しました。
公家っぽい仲章ですが京都では盗賊を捕縛したり、幕府との連絡係を務めるなど無骨な仕事もしていて、謀反を企んだとされた阿野全成の子、頼全を処刑したのも仲章です。
阿野全成はどんな人?
-
阿野全成とはどんな人?本当に占いで頼朝に仕えた人物なのか?【鎌倉殿の13人】
続きを見る
将軍実朝の教育係に抜擢
鎌倉で3代将軍実朝が即位すると建永元年(1206年)頃から、幼い実朝の侍読(教育係)として仲章に声がかかり鎌倉へ下向します。学者としては、それほど有名ではない仲章ですが博学であり、武芸に秀でた人はいても、学問が出来る人材には乏しい初期の鎌倉幕府では重宝されました。
将軍実朝に気に入られた仲章は御所の近くに邸宅を与えられつつも、院の近臣としての地位も保持し、京都と鎌倉を往復して幕府情報を後鳥羽上皇に流していたようです。
後鳥羽上皇とはどんな人?
-
後鳥羽天皇とはどんな人?権力を取り戻す為、鎌倉幕府に挑んだ覇道の君
続きを見る
政所別当を務め殿上人に昇進
仲章は実朝の信任もあり昇進して建保4年(1216年)には政所別当に任じられました。しかし、政所別当は侍所別当と違い独任制ではなく2人~5人で職務を担当していて、仲章ばかりではなく大江広元や北条義時も別当でした。
幕府の重職を勤めるに従い、官位も相模守から大学頭を経て建保6年(1218年)には幕府の推薦という形で、従四位下、文章博士と上昇し順徳天皇の侍読を兼務して昇殿を許されます。こうして仲章は殿上人となりますが、思わぬ悲劇が待っていました。
鎌倉時代の訴訟とは?
-
梶原景時は嫌われ者だからイジメ訴訟で失脚?鎌倉時代の訴訟を解説【鎌倉殿の13人】
続きを見る
悲惨、北条義時と間違われ斬殺
建保7年(1219年)源実朝が右大臣に任官した事を記念し、鶴岡八幡宮において祝賀拝賀が開催されます。吾妻鏡によると、この時実朝を護衛して剣を持っていたのは北条義時でしたが、急に体調不良を起こしたとして仲章と役目を交替し自宅に戻ります。
しかし、ここで公暁一味が将軍実朝を襲撃して斬殺、さらに護衛役の仲章も義時と誤認して殺害しました。
一方、天台宗僧侶、慈円の日記である「愚管抄」では、実朝が義時に八幡宮の中門に留まるように命じたので義時は殺害現場に同行していなかったと記します。この時、仲章は先導役として先頭で松明を振っていて、公暁一味に義時と勘違いされ殺害されました。
公暁とはどんな人?
-
公暁とはどんな人?実朝絶対殺すマンの凶行には黒幕がいた?それとも単独犯?【鎌倉殿の13人】
続きを見る
勘違いではなかった説
義時の身代わりで殺されたと記される仲章ですが、仲章が最初から殺害目標に組み込まれていたとする説もあります。それによると、仲章は後鳥羽上皇との結びつきを強める将軍実朝のブレーンであり、その存在を疎んだ御家人の北条義時と三浦義村が公暁を使って実朝と共に排除したとしています。
真相は不明ですが、近年では実朝が決して北条氏の傀儡ではなく強いリーダーシップを発揮し、後鳥羽上皇を後ろ盾にして政権を運営していた事が分ってきており、可能性は十分にあると言えます。
実は実力があった3代将軍実朝
-
源実朝とはどんな人?兄の暗殺後に北条氏に擁され甥に殺された悲劇の3代将軍
続きを見る
日本史ライターkawausoの独り言
源実朝は執権北条義時に対抗すべく、後鳥羽上皇を後ろ盾として京都から院の近臣を召集して、自身の手足とする事で将軍権力の確立を図りました。
その究極の策が、後継者として後鳥羽上皇の皇子を4代目の鎌倉殿にする計画だったのです。源仲章は後鳥羽上皇の、あるいは自分の意思で実朝のブレーンとして働き、その結果義時や義村のような有力御家人に疎まれ、実朝と共に殺害されたのかも知れません。
闇落ちする鎌倉幕府の実力者
-
北条義時とはどんな人?鎌倉幕府を全国区にした二代執権【鎌倉殿の13人】
続きを見る