「三浦義村」は若いころは源頼朝の挙兵に加わり、頼朝亡き後は鎌倉幕府の激しい権力争いを乗り切り幕府で重きをなした人物です。
鎌倉幕府内で北条氏が権力を握る中で、多くの御家人が悲しい最期を迎えるわけですが、三浦義村の死因は何だったのでしょうか。
今回の記事では三浦義村の生涯とその死因について探ってみましょう。
この記事の目次
父と共に平家追討の戦いに参加
三浦義村は相模国(神奈川県)の有力武士「三浦義澄」の嫡男として生まれました。父は鎌倉幕府の有力な御家人で、のちに「13人の合議制」にも参加しています。
17歳ころに父と共に平家追討の戦いに参加し、主に「源範頼」の下で戦い、平家滅亡後は父から譲られる形で恩賞として官位を得ています。
幕府の権力争いの裏には三浦義村?
平家が滅亡し、鎌倉幕府が成立、そして源頼朝が亡くなると、北条義時をはじめとする北条氏と御家人たちの権力争いが激しくなります。
「梶原景時」は「結城朝光」が「頼朝様が死んだときに出家するべきだった。今の世はちょっと休まらないな。」と語ったことを聞き、「謀反の疑いがある」と、将軍頼家に讒言したのです。
朝光は人望のある人物で、景時は彼を排除しようとしたとも考えられます。慌てた朝光は義村に相談。義村は他の御家人たちと相談し、66人の署名を集めて「梶原景時状糾弾訴状」として景時の横暴さを幕府の有力者「大江広元」に訴えます。
こうして梶原景時は逆に自らが排除されることになるのです。
また、「畠山重忠」が謀反の疑いで兵を向けられたときには義村も参戦しています。実は過去に義村の祖父を討ったのは重忠一族でした。
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畠山重忠と三浦義村の因縁とは?
畠山重忠は頼朝挙兵時は平家に味方していました。重忠は頼朝と戦うべく軍を進め、そこで頼朝に味方していた三浦一族と遭遇、両氏は激戦を繰り広げます。
三浦氏は本拠地である「衣笠城」まで退却、畠山重忠らは城を攻めて落城させ、三浦義村の祖父である「三浦義明」を討ち取ります。
後に畠山重忠らは頼朝に帰順しますが、因縁のある三浦氏に対し「目的のためには畠山氏の力が必要、三浦氏は恨みを残すな。」と言い聞かせ、三浦義村らは納得したと言います。しかし、のちに義村らは重忠を討ったことから、恨みは残っていたのかもしれません。
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謀反に誘われることも多い三浦義村
三浦一族でもある「和田義盛」が決起した際は義村も誘いを受け、一度は同意していました。しかし、土壇場で裏切り、北条義時に義盛の決起を伝えています。
また、将軍実朝が「公暁」に暗殺された際には公暁から「私が東国大将軍である、準備をせよ。」という書状を受け義村は「迎えに行きましょう。」と偽り、討手を差し向け、公暁が義村の邸宅へ向かう途中で殺害しています。公暁の乳母は義村の妻であること、公暁が義村を頼ったことから、実朝暗殺には「義村黒幕説」もあります。
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承久の乱では弟が裏切る
後鳥羽上皇と鎌倉幕府の戦い「承久の乱」では弟の「胤義」が上皇に味方してしまいます。胤義は義村を誘うものの、義村は逆に北条義時にこれを伝え、自らは追討軍大将軍の一人として参加します。
進軍の際に胤義と再会し、胤義は義村に「あなたに手紙を出したのが間違いだった!あなたの目の前で自害するから出てこい!」と挑発しますが義村は「馬鹿には付き合わない」と無視。その後胤義と息子らは自害します。
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朝廷にも容赦ない三浦義村
承久の乱は鎌倉方の勝利に終わり、義村は北条義時と共に戦後処理にもあたります。そして後鳥羽上皇ら3人の上皇は配流し、後鳥羽上皇の血がつながる皇族らは出家させるなどし、皇位継承権を事実上はく奪しました。また、のちの「後堀河天皇」を屋敷から無理やり連れだして即位させた、という逸話もあります。
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有力御家人の生き残りとして三浦一族の最盛期を築く三浦義村
三浦義村は様々な危機を乗り越え、御家人たちの勢力争いにも勝利しました。
そして幕府の有力者である北条義時や北条政子、大江広元などが亡くなると鎌倉幕府の「宿老」(古参の有力者)として北条氏に次ぐ地位を得ました。源氏の将軍が絶えたのちは公家から将軍が迎えられ、4代将軍「藤原頼経」は三浦一族の事を信頼していたと言います。
三浦義村の死因は急死(頓死)
三浦義村は西暦1239年、当時として長命の71歳で亡くなりました。
その死因は幕府の公式文書「吾妻鏡」によると「頓死、大中風」あります。「頓死」とは「急死」という意味で「中風」とは「脳卒中や脳梗塞による半身不随」を示します。
「大中風」ということですから、おそらく「脳梗塞で突然倒れ亡くなった」というのが三浦義村の死因ではないでしょうか。
また、異説では義村が島流しにした「後鳥羽上皇」らの「呪い」ではないか?と当時は噂されていたようです。
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日本史ライターみうらの独り言
鎌倉幕府の功労者たちはほとんどが勢力争いで命を落としましたが、三浦義村は生き延びることができました。裏切ろうとしたり、謀反に誘われたりあまり真面目ではなさそうな人物ではありますが、その飄々とした感じが彼の命を長らえたのかもしれませんね。
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