NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人で、常に後白河法皇の傍にいるのが鈴木京香演じる丹後局です。ドラマでは序盤から登場し後白河法皇の死後も後鳥羽天皇を擁立して権勢を振るい、鎌倉の頼朝とも駆け引きをした丹後局。
同時代の公家に楊貴妃と変わらないと陰口をきかれ恐れられた彼女は、どんな人生を歩んだのでしょうか?
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平清盛に夫を殺される
丹後局は本名ではなく宮中に仕える女房の中で自分専用の部屋が与えられた高級女官を局といいます。本名は高階栄子と言い仁平元年(1151年頃)に法印大和尚位澄雲と平正盛の娘、政子との間に誕生したとされます。丹後局の父については上座章尋とも言われていますがハッキリしません。
成長した丹後局は大変な美貌の持ち主だったようで、伊勢平氏の出身で後白河法皇の近臣、平業房に嫁ぎ山科教成ら数名の子を産みます。
しかし、後白河法皇が平清盛と対立すると清盛は兵を率い福原から京都に入り後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し平家に批判的な公家を追放しました。この治承3年の政変で法皇の側近だった業房も役職を解かれた上に伊豆国に流罪となります。
ところが業房は伊豆流罪を納得せず逃亡を図ったので怒った清盛により捕らえられ福原で処刑されました。
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後白河法皇に接近し楊貴妃と呼ばれる
未亡人になってしまった丹後局ですが、彼女は負けず、夫が仕えていた後白河法皇に接近、持ち前の美貌で法皇を虜にします。
養和元年(1181年)孫を安徳天皇として擁立し権勢を振るった清盛は熱病で死去。それより少し前には高倉上皇も疫病で急死していた事から、平家は後白河法皇の幽閉を解かざるを得なくなりました。丹後局は後白河法皇との間に皇女覲子内親王を産み、いよいよ法皇の寵愛が深くなると法皇第一の寵妃として政治にも口を挟むようになります。
当時の右大臣九条兼実は「この頃の政治は彼女の唇に左右される」と玉葉に書くほどで本朝の楊貴妃と当時の公卿には思われていたようです。
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幼い後鳥羽天皇を推薦し後見人となる
寿永2年(1183年)7月源義仲の攻勢を前に都を二十年以上支配した平家が都を放棄。安徳天皇と三種の神器を奉じて九州に落ちていきます。
天皇と神器が不在になった朝廷では、後白河法皇が急遽、自分の孫で高倉天皇の第四皇子である3歳の尊成親王を後鳥羽天皇として擁立しました。実はこの時、尊成親王を強く推したのは丹後局であるようです。
どうして丹後局が実子でもない尊成親王を推したのか?
それは皇子を産めなかった丹後局が幼い後鳥羽天皇の後ろ盾になり、成長するまで権力を握る為でした。
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頼朝としたたかに交渉し従二位に昇進
源義仲はすぐに法皇と反りが合わなくなり後白河法皇を幽閉してクーデターを起こします。すでに後白河法皇と連絡を取り合っていた鎌倉の頼朝はチャンスと見て、弟の源範頼と義経を義仲討伐に送り込み宇治川で撃破しました。
やがて源義経が壇ノ浦で平家を滅ぼすと、丹後局は源頼朝の顔役となり大江広元と何度も交渉しています。このような功績から丹後局は文治3年(1187年)には従三位に昇進、覲子内親王に院号宣下があり「宣陽門院」となるとさらに昇進して従二位になります。
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法皇死後、ライバルの九条兼実を追い落とす
建久3年(1192年)丹後局を寵愛した後白河法皇が崩御すると丹後局も出家します。しかし、後白河法皇の遺言で山科に荘園を得た丹後局は娘の宣陽門院と変わらずに政治に介入しました。
当時、朝廷の権力を握っていたのは後白河法皇の近臣で後鳥羽天皇の後見人でもある九条兼実でした。兼実は公家ながら早くから鎌倉の頼朝に接近し、後白河法皇が渋って与えなかった征夷大将軍の称号を頼朝に与えるように働きかけるなど頼朝と親密な関係を築いていました。
その甲斐もあり、兼実は娘の任子を後鳥羽天皇の中宮にして権勢を振るいますが、これが頼朝との関係を悪化させます。頼朝も娘を後鳥羽天皇の妃として入内させ公武合体を画策していて、兼実とライバル関係になったのです。
兼実を追い落として権力を握りたい丹後局は、土御門通親と手を組んで頼朝と兼実の関係に亀裂を生じさせました。その上で土御門通親は頼朝の娘を後鳥羽天皇に輿入れさせる事に協力します。
頼朝の娘の入内に丹後局は消極的だったようですが、頼朝の娘2人はいずれも入内する前に病死しました。ただ、土御門通親と結んだ事で丹後局は九条兼実を追い落とし、後鳥羽天皇の後見人として権力を振るいます。
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後鳥羽上皇が院政を敷き権力を失う
しかし、建久10年(1199年)鎌倉の頼朝が急死。朝廷において後鳥羽天皇に諫言できた土御門通親も建仁2年(1202年)に急死します。これにより、22歳の後鳥羽天皇を抑えられる存在がいなくなり、さらに後鳥羽天皇が土御門天皇に譲位して院政を敷くと上皇の専制が確立しました。
丹後局は影響力を失い引退、亡き夫業房の領地があった浄土寺に住み、建保4年(1216年頃)に亡くなりました。
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日本史ライターkawausoの独り言
NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人でも円熟した妖艶な魅力と知的な雰囲気を漂わせる丹後局。しかし、彼女も政変で夫を平清盛に殺され、その悲しみを乗り越え持ち前の美貌と知略で平安末から鎌倉の世を渡り切った勝組の女性でした。
北条政子や静御前もそうですが、平安末から鎌倉時代の女性は多少の不幸にへこたれないパワフルな女性が多いですね。
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