「北条義時」は、源頼朝の創業に大いに貢献し、頼朝が亡くなった後は「執権」として鎌倉幕府の政治を担った武士です。
NHK大河ドラマの主人公になるなど、一般的にも知名度が高くなってきた人物でもあります。そんな北条義時も当然、妻はいたのですが、その正妻はどんな人だったのでしょうか。今回の記事では北条義時の「正妻」について調べてみましょう。
北条義時、のちの正妻と出会う
北条義時は源頼朝の協力者でもある豪族「北条時政」の次男として生まれました。後に姉の「北条政子」は頼朝の妻となっています。義時は頼朝の挙兵に従い、数々の兵士との戦いに転戦しました。
そして頼朝の側近として頼朝の邸宅の警護などを務めるようになります。そこで義時は頼朝の邸宅「大倉御所」で働く女官「姫の前」と出会うことになります。
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姫の前に言い寄る義時
「姫の前」の本名は不明ですが、父は鎌倉幕府の有力な御家人「比企朝宗」です。当時の歴史者「吾妻鏡」によると姫の前は「権威があり、頼朝のお気に入りで、容姿はとても美麗である。」と書かれており、人々の噂になるほどの絶世の美女だったようです。
そんな姫の前に義時はほれ込み、何度も恋文を送り、その期間は1年にも及んだそうですが、姫の前は相手にしませんでした。
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頼朝の仲介によりついに結婚
義時が何度も姫の前に言い寄っていたことを知った頼朝は、忠実な家臣であった義時のために仲を取り持つことにしました。頼朝は義時に「絶対に離婚しない」という起請文を書かせたのです。
頼朝の仲介と「起請文まで書く」という熱意に折れたのか、西暦1192年、姫の前と北条義時は結婚することになりました。二人の間には「朝時」「重時」そして「大江親広」(大江広元の長男)の妻となった「竹殿」らが生まれています。
勢力争いに巻き込まれてしまう
子宝にも恵まれた義時夫妻でしたが、西暦1203年に「比企能員の乱」が発生します。頼朝の死後、跡を継いだ「頼家」の舅であった御家人「比企能員」は権勢をふるっていました。
北条時政を中心とする北条氏は頼家とは折り合いが悪く、比企氏の事を苦々しく思っていました。そんな時将軍頼家は比企能員と北条氏を討伐する計画を立てます。
しかし、この話を北条政子は障子越しに聞いており、それを家長の時政に伝えます。時政はこれを聞き、兵をあげ、比企一族を滅ぼしてしまうのです。
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その後の姫の前
姫の前は比企一族であったので、確かな記録はないのですが、その後義時と離縁してしまったとみられます。
これは「明月記」(公家の日記)という記録に「源具親の子は北条朝時と同母弟で・・・」と記載されていることから、義時と離縁した後に「源具親」と再婚した、と考えられるからです。その後「明月記」によると西暦1207年に姫の前は亡くなっています。
義時の後妻
義時は姫の前と離縁後、後妻を迎えたようです。それは「伊賀の方」(本名不明)で、関東の豪族「伊賀朝光」の娘です。彼女は義時との間に「政村(のちの7代執権)」「実泰」らを儲けています。
西暦1224年に義時は亡くなるのですが、その後伊賀の方は兄とともに政村と娘婿を執権にしようと画策しますが、北条政子に拒否され、伊賀の方は流罪となってしまい、流罪先の伊豆で亡くなっています。伊賀の方の墓は静岡県の「北條寺」という寺に義時の墓の隣に立てられています。
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北条泰時の母親
義時の死後、執権職を継いだのは「北条泰時」ですが、彼の母は「姫の前」でも「伊賀の方」でもありません。史書には「阿波局」と記載されていますが、御所の女官だったということ以外、全く人物像はわかりません。
泰時が生まれたのは姫の前と結婚する前ですから、御所で働いていた女官に若気の至りで義時が手を付けたのかもしれませんね。息子が執権になったのですから、阿波局はその後栄達してもよさそうですが、全く記録がないのでどのような人生を送っていたのかは謎です。
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日本史ライターみうらの独り言
義時の正妻の「姫の前」は実家に振り回された波瀾万丈の人生を送ったようですね。それでも一族滅亡の後にも生き残り、他の人に嫁ぐことができのですから、わりと恵まれた最期だったのかもしれません。
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