鎌倉殿の13人、先の展開を知っていながらもドキドキするものとなっていますね。これは大河ドラマだけに非ず、歴史ものの妙とも言えるものですが、もう一つ、歴史ものにある一つの要因に付いて今回は語りたいと思います。
それは「脚色」です。回に回を重ねて心を寄せ合って、結ばれた二人。しかし実際に歴史を紐解いていくと何とも複雑なもので……?
この記事の目次
伝承のみで実在が確かではない八重姫
さてまずは八重殿、歴史で追っていくと伊東祐親の娘、八重姫について。八重姫はその存在すら虚ろとも言われる一方で、少ないながら伝承が残されている姫君です。
彼女は源頼朝の最初の妻となるも、父親によって引き離されて江間の小四郎という男性と結ばれたとも、そこから逃げて身を投げたとも言われています。
大河ドラマでは江間次郎と結ばれ(ていないけど)、後に江間を拝領した江間小四郎、北条義時と結ばれましたね。この北条義時と結ばれた、という伝承も残されています。
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小四郎とは四男坊ではなく父親と同じ名前を持つジュニアの意味
ドラマでは江間を拝領して小四郎は江間小四郎となりましたが、実際にこの長れは歴史でも見受けられます。吾妻鏡でも基本的に北条よりも江間として記されていることが多いようですね。ちょっとこの名前について少し話しましょう。
元服した後で義時は小四郎と名乗るのですが、これにもきちんと意味があるのです。例えば「小太郎」という名前がありますが、これは「太郎」の「小」ということで「太郎の息子」という意味で名乗られることが多いのです。北条時政が北条四郎を名乗っているので、四郎の子で「小四郎」と名乗っているということです。
逆を言うと、他に「四郎」という名前の男性の子がいれば、それは小四郎、ということもあるということにもなります。
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八重姫は江間次郎と江間小四郎のどちらに嫁いだ?
ここで少し触れておきたいのが、江間次郎と江間小四郎、そして曾我物語です。実は曾我物語と言っても、大きく分けて真名本と仮名本の二種があります。その内、八重姫が嫁がされたのが真名本では「江馬次郎」で、仮名本では「江間小四郎」となっています。
大河ドラマでは最初に嫁がされた(嫁いでない……)江間次郎、そして北条義時=江間小四郎とすることで、これらの逸話や伝承部分を上手に取り込んでいると言えるのではないでしょうか。
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北条義時は八重姫と結ばれていない?
大河ドラマ、鎌倉殿の13人では北条義時は北条時政の次男。江間を拝領したことで江間小四郎義時を名乗るようになりました。そもそもは田舎の純朴な若者、といった彼が鎌倉殿の天下の中でどう生きていくか、どう変化していくか、どう変化していかざるを得ないのか……それが見どころの一つでもありますね。
更に踏み込んでいきましょう。大河ドラマではこの北条義時と江間小四郎を上手にミキシングしていますが、前述した江間小四郎、別人であるという説もあります。
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共に伊東祐親の娘を母とする血縁が近い八重姫と義時
北条義時は北条時政の息子です。その母は伊東祐親の娘となっています。さて、八重姫もまた伊東祐親の娘ですね。つまり血筋が近すぎるのです。血筋が近すぎると子に良くないという理由から、流石にこの婚姻はなかったのではないかと言われています。
このためか、大河ドラマでは義時の母親は伊東祐親の先妻の娘、八重殿は後妻の娘と、少しばかりですが血筋を遠くしていると推察しました。
義時が幼すぎ八重姫との婚姻に無理がある
もう一つあるのが、年齢です。北条義時は1163年生まれとされています。そして伊東祐親が源頼朝を殺害しようとしたのが1175年、この時期に八重姫を別の男性に嫁がせたとなれば、義時は12、13歳となります。
鎌倉時代の元服は12歳前後なのでギリギリ元服しているとは思いますが、流石に無理があり過ぎるのではないか?そもそも頼朝が次に逃げ込んだのが北条家なのに、そこに娘を嫁がせるか?
等など、北条義時と江間小四郎とを一致させるのはやや脚色が過ぎる……とも言えるかもしれません。しかし、ここで脚色についても考えてみたいのです。
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脚色がないとドラマは成立しない
脚色についてはたまに問題になりますが、脚色とは「実際の事件などに基づいて、脚本を作ること」であり、そして「話の一部を膨らませ、飾ること」となります。歴史をそのまま物語とするのは、ほぼ不可能です。
何故なら歴史は、細部まで事細かに記録されてはいません。日々の些末とも言える出来事、そこにドラマは生まれますが、それらは脚本が脚色していくべきことであり、欠かせないものでもあるのです。
歴史の資料だけを追っていけば、江間小四郎と北条義時は別人であるかもしれない。もっと言うと、そもそも八重姫が現在していたかどうかは、分からない。それでも一つの伝承、逸話、それらを上手に絡ませ、重ねて、話を美しく飾っていく。この脚色こそが、歴史物語の楽しみの一つだと思います。
なので歴史に踏み込んでみて「ドラマと違う!」と思っても、それは間違いではないのだ。そのことは、見ていく上で良く理解しておくべきことではないか、と、大河ドラマを見ていて再確認しましたね。
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三国志ライター センのひとりごと
脚色に脚色を重ねすぎる、言われることがありますね。例えば歴史の授業であるならば、これは正しいことでしょう。記録に華美な様相は不必要であるし、何より分かりにくい、それは分かります。
しかしエンターテイメントとなれば、また話の土台が違うのではないでしょうか。寧ろこのエンターテイメントを楽しんだ上で、正しい歴史を紐解き、違いを見つけ、更に楽しむ。
そういう楽しみもまたあるのでは、と思う筆者でした。どぼーん。
参考文献:曾我物語 吾妻鏡
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