東郷平八郎は晩年老害化していた?日本海海戦のレジェンドの意外な事実

10/12/2021


軍艦(明治時代)

 

「命長ければ(はじ)また多し」とは、人間長生きすると恥をかく事も増えるという格言です。すべての人がそうではありませんが、一般に私たちは年齢を取ると考えに柔軟性がなくなり判断力が衰え、つまらない意地を張り、周囲を困らせる老害(ろうがい)に陥りやすくなります。

 

それは哀しいかな歴史上の偉人でも同じなのでした。

今回は晩年老害化してしまった日本海海戦の英雄、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)を解説します。

 

 

日本海海戦の英雄

 

東郷平八郎は薩摩藩に生まれ、薩英戦争で初陣を飾った後、戊辰戦争では春日丸(かすがまる)に乗り組み、箱館戦争に従軍した根っからの海軍士官です。維新後はイギリスのポーツマスに留学して海軍士官としての訓練を積み、日清戦争で手柄を立て日露戦争では連合艦隊司令長官として日本海海戦で世界最強のバルチック艦隊を殲滅(せんめつ)して世界的に名声を轟かせ東洋のネルソンと呼ばれました。

 

以後は海軍武官のトップである軍令部長(ぐんれいぶちょう)東宮御学問所総裁(とうぐう・ごがくもんしょそうさい)を歴任。伯爵の地位を授けられ、英国のジョージ5世の戴冠式に招かれたりタイム誌のカバーになったり世界的な名声を博します。

 

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ながら日本史

 

 

神聖視され老害化する東郷

軍艦(明治時代)

 

しかし、名声が高まると国内において東郷を神聖視する風潮が強まり、東郷の発言は絶対とする重苦しい空気が生まれてきました。東郷の老害が最悪の形で発揮されたのは昭和5年のロンドン軍縮条約(ぐんしゅくじょうやく)の時です。

 

西郷従道 幕末

 

戦前の海軍では重要事項を決める時、元帥(げんすい)(うかが)いを立てる慣例がありました。慣例といっても儀礼的なものでお伺いに対しては「(よろ)しいように」と言葉を掛けるのが長年の習わしでした。ところが生真面目な東郷は慣例である元帥へのお伺いにも全力で答えようとします。

 

ロンドン軍縮会議では、英米の補助艦保有率(ほじょかんほゆうりつ)において日本が7割を維持できるかが焦点でしたが、実質7割保有は厳しいと考えられていました。ところが東郷は、軍縮会議に向かう海軍大臣財部彪(たからべあきら)に対し「対英米7割の補助艦率が維持できないなら断固交渉を破棄(はき)せよ」と回答したのです。

 

財部は困惑し日記に「東郷元帥が晩節(ばんせつ)を汚さないように注意を要す」と書きました。

 

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ほのぼの日本史

 

 

昭和天皇に注意される東郷平八郎

国会議事堂

 

補助艦保有率交渉は厳しいものでしたが、日本代表は粘り、なんとか補助艦保有率英米比で69.75%まで漕ぎつけます。これはもう、四捨五入すれば7割も同然で昭和天皇は条約の締結を喜び、悪化しつつある日米関係を修復できると安堵しました。

 

ところが条約を裁可する枢密院は軍縮に反対であり、条約批准を図る浜口内閣と対立します。ここで枢密院に同調して猛烈な条約批准反対を唱えたのが海軍の重鎮である東郷平八郎でした。

 

東郷は軍縮反対の艦隊派、末次信正(すえつぐのぶまさ)加藤寛治(かとうかんじ)に担がれていたのですが、対英米7割を割り込んだ浜口内閣を激しく非難、加藤寛治は抗議の為に軍令部長を辞職するなど揺さぶりをかけます。

 

後任の軍令部長には良識派の呉鎮守府司令官(くれ・ちんじゅふしれいかん)谷口尚真(たにぐちなおみ)が決まりますが、この人事でも東郷がごねて承知しない可能性がありました。

 

昭和天皇は侍従武官長の奈良武次(ならたけじ)を呼んで「東郷元帥のところへ行って谷口起用の適宜(てきぎ)を図り、もし反対なら極力説得して納得させるように」と釘を刺します。

 

果たして東郷は昭和天皇の意志という事もあり、人事案を渋々承認(しぶしぶしょうだく)しますが、奈良侍従武官長に対して政府批判を延々と繰り返しました。知らせを受けた天皇は直々に東郷に対して「元帥は(すべ)ての事柄について達観するように」と戒告(かいこく)したそうです。昭和天皇を呆れさせ直接に戒告を出されるほどですから東郷の頑固というのは、老害というレベルに到達していたのではないでしょうか?

 

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東郷平八郎への批判

ほの日新聞

 

ロンドン軍縮で日本政治を振り回し海軍からも多くの追放者を出す切っ掛けになった東郷については、その後輩にあたる海軍軍人から否定的なコメントも出ています。

 

例えば、後の連合艦隊司令長官山本五十六(やまもといそろく)は、東郷平八郎の死後に出来た東郷神社について「面倒くさい事をやってもらって神様になったのだから拝めば御利益があるだろうよ」と皮肉を込めて言いました。

 

また、井上成美は「東郷さんが平時に口を出すと、いつもよくない事が起きた」と前置きし「人間を神様にしてはいけない、神様は批判できませんからね」と語っています。

 

政治だけではなく東郷は、河内型戦艦の主砲を「首尾線方向への火力は強力にすべきである」という持論から口径の違う大砲にして薬莢(やっきょう)を二種類にして装填の手間を増やしたり、兵科に比べて待遇が悪かった機関科の待遇改善問題にも「罐焚(かまたき)き共がまだそんな事を言っているのか!」と一喝、大東亜戦争終結直後まで待遇問題は放置されるなど、どう見ても老害と言うしかない口出しもしています。

 

こういう事が続いたので、山本五十六も井上成美も東郷に対して(うと)ましい感情を持ったのでしょう。もちろん海軍の英雄として尊敬はしていたのでしょうが「頼むから現場に口を挟むのだけはやめてくれ」と迷惑がっていたのです。

 

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幕末のエンジニア達

 

東郷平八郎の言い分

 

生前から(なか)ば神様となり昭和天皇以外、口を挟める人がいなくなった「老害」東郷ですが、ロンドン軍縮条約に関しては東郷にも譲れないプライドがありました。

 

ロシアを仮想敵とした陸軍と違い、海軍はハワイとフィリピンを領有するアメリカが仮想敵でした。そのアメリカに対し3割以上も艦船トン数で差をつけられたら、開戦時にとても勝負にならないと恐れたのです。

 

後には東郷を批判した山本五十六も、ロンドン軍縮条約の時には対英米補助艦保有率7割を強硬に主張し使節団を大いに混乱させていました。その後、山本五十六は、海軍航空本部技術部長に就任。

 

飛行機(プロペラ)に乗るkawausoさん

 

航空機の長足(ちょうそく)の進歩を目の当たりにした経験から艦隊戦が終わり、空母と航空戦力によるアウトレンジ攻撃とレーダーの性能が勝敗を決定する事に気づき大艦巨砲主義の無意味を悟ります。

 

しかし、そんな山本でもロンドン軍縮条約の頃には軍艦のトン数に拘っていたのです。東郷の危惧(きぐ)は、当時としては決して時代錯誤でも老害でもなく、当時の海軍軍人の少なくない割合が共有していた危機感でした。

 

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こんにちは西洋

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

東郷平八郎は海軍軍人として86年の生涯を真面目に頑固に生き抜きました。東郷の老害と位置付けられる行動でも、東郷本人は思い付きや気まぐれではなく、海軍の将来を考えてやっている一心だったのです。

 

海軍のレジェンドが愚直かつ懸命に助言するのでは、それが間違っていると思っても後輩では容易に違いますとは言えません。東郷に助言を受けた人々はさぞかし困難な状況に陥った事でしょうね。

 

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いだてん

 

 

 

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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