今回のほのぼの日本史は戦国時代のお葬式について取り上げます。織田信長が父信秀の葬儀の際に、抹香を位牌に投げつけたエピソードは有名です。信長の行為は当時でも特殊だったのですが、では戦国時代の葬式はどのようなものだったのでしょうか?
今回は特にインパクトの強いものを集め、戦国時代の葬儀の実像について取り上げます。
この記事の目次
足利将軍家の葬儀
戦国時代に名目上の権威として残っていた足利将軍家では、葬儀に関する資料が残されている場合が多くあります。例えば12代将軍義晴のものでは次の通り。義晴の時代は信長が登場する前、三好長慶が台頭してきて畿内を支配しようとしていた時期の将軍です。
義晴の死後、遺骸は東山慈照寺に運ばれます。その際に輿にのせて担がせ。
次に僧、奉公衆、同朋衆が、葬送行列として続きました。その後寺に安置し、前に香炉を置き、これらの供達が焼香します。この葬儀は何日も行われ、細川、佐々木らの関係する大名が参列します。また現代に続く風習として49日の精進明けもありました。それでもこの葬儀は当時の将軍のものとしては非常に簡素なものと伝わります。
関連記事:日本にも冥婚があった?東北や沖縄に伝わる死者の結婚式
関連記事:今昔物語とは?平安・鎌倉の人々のリアルな生と願望の記録
秀吉が仕掛けた政略的な信長の葬儀
葬儀を利用して自らの権威を高めていったのが羽柴秀吉。彼は本能寺で倒れた信長の葬儀を政治的に利用しました。
信長の後継者を決める清洲会議で、いち早く明智光秀を討ち、主導的な立場になった秀吉は、3歳の三法師を強引に後継者に決めます。
それに反発する柴田勝家らと対立。やがて彼らを滅ぼしますが、その前に秀吉は自らの権威に信長の葬儀を利用しました。京都大徳寺で行われ、本能寺の変で見つからなかった信長の遺体の代わりに高価な香木・沈香をくり抜いた仏像を入れました。宗派を超えた数知れない僧を結集させ、参列者が約3000人、そして3万もの軍勢を駐留させて警備させています。
また対立していた勝家をこの葬儀では蚊帳の外に置き、勝家が出席しないままおこなわれたため、信長後継者としての秀吉の権威が上がる結果となりました。
関連記事:清須会議を渡邊大門説を元に再構成してみた
関連記事:【書評】清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?
父の葬儀に鎧兜を着たまま参列した上杉謙信
有名な越後の戦国大名・上杉謙信。彼にまつわる葬儀でも面白いエピソードがあります。それは謙信が、まだ幼少の虎千代と呼ばれていたころ。父の長尾為景が死に、その葬儀での話です。
為景の時代の越後はまだ不安定で、越後守護代だった為景が一気に勢力を拡大するもいつ巻き返しがあってもおかしくない状況でした。実際に為景が病没し、葬儀が行われますが、それを聞きつけた敵対勢力が、居城の春日山城に迫っていました。そのため虎千代は甲冑をつけ鎧兜をきたまま葬儀に参列しています。
このような事例は謙信以外ではあまり出てきませんが、可能性として多くの戦国大名の立場では十分考えられます。
関連記事:上杉謙信の強さはフォーメーションにあり!軍神が変えた戦国時代
関連記事:今週もお疲れ様!よく前線に出た上杉謙信
伊達政宗が行った灰塚
独眼竜として戦国末期から江戸初期まで活躍した伊達政宗。彼の葬儀は「灰塚」と呼ばれる独特の葬儀を行いました。これは政宗の遺言で、現在の仙台市青葉区にある経ヶ峰で埋葬されたのち、連日法要を行い、政宗の死後1か月ほどが経過してから葬礼が行われます。
棺が用意されましたが、すでに遺体は埋葬されており、何も入っていない空の棺。葬礼後、今度はそれを焼き、その灰を集めて塚を築きます。これは伊達家だけが行っていた独自の葬式です。行ったのは政宗のほか母の保春院、二代藩主忠宗、三代藩主綱宗のものがありました。この灰塚は最終的に五代藩主吉村の代になって、戦国時代の遺風という理由で廃されます。
関連記事:相馬義胤はどんな人?伊達政宗絶対許さんマンの正々堂々人生
関連記事:伊達政宗とはどんな人?生い立ちから最期、性格などすべて丸わかり!
妻が先に死んでも葬儀に参列しない慣習を破った明智光秀
明智光秀の正室、明智(妻木)煕子にも葬儀に関するエピソードが残っています。お互いの仲が大変よく、光秀が側室を持たなかったほどの関係。
そして光秀が倒れたときには煕子が看病しました。それに疲れて煕子が倒れたときには光秀が看病のために病気平癒の祈願を依頼したと言います。
しかし通説ではこのときに煕子が亡くなります。妻が先に亡くなった場合、通常夫が葬儀に参列する慣習はありません。しかし光秀は熙子の葬儀に参列しました。ただし、一説には本能寺の変の後に煕子が自害したとも、いずれにせよそれほどまで仲の良い夫婦だったことがうかがえます。
関連記事:信長の親衛隊「馬廻衆」はなぜ本能寺を守れなかったのか?結果として完璧な段取りだった明智光秀のクーデター!
関連記事:明智光秀が苦戦した丹波はどんな国?
ガラシャの信仰を認め、キリスト教式の葬儀を行った細川忠興
明智光秀と煕子に間に生まれた珠(玉)子は、細川忠興に嫁ぎ、のちにキリスト教の洗礼を受け、細川ガラシャと呼ばれています。
関ケ原の合戦の直前に、石田三成に人質になるように迫ったガラシャはそれを拒否。壮絶な死を遂げ、結果的に三成の戦略を狂わす事件となりました。
それを知った忠興は、生前ガラシャに棄教を迫っていたのにもかかわらず、堺の神父・オルガンティノにガラシャの教会葬を依頼します。そして自らも出席。また藩主となった豊前小倉ではキリスト教を保護し、その菩提を弔いました。
関連記事:イエズス会って何?戦国武闘派キリスト教団を分かりやすく解説
関連記事:戦国日本は多神教でキリスト教は相容れないは嘘だった?
宣教師たちが記録を残した戦国武将の謎の風習「指先切り」
戦国後期に日本に来た外国人たちは、日本の文化風習をところどころにしたためています。
しかし宣教師のルイス・フロイスが記載した日本史や貿易商人のリチャード・コックスが残した記録の中には、
首をかしげるようなものがあり、それは葬儀の下りでもありました。
それは次の内容です。
「亡くなった藩主が火葬される場合、特に彼と近い関係の家臣や友人が、自分の指を切って火葬の火に投げ込む」というもの。しかし日本側の資料には一切ありません。ただし古代から日本では殉死の風習や体を傷つける風習があったこと。
現代の暴力団社会でこの指を詰める(切る)行為があることから、当時絶対にないと言い切れません。また戦前の民俗学者柳田国男によれば、宮崎や愛媛の古い風習として遺体を納棺する際に死者の持ち物を入れた袋に近親者の爪を入れる習わしがあるとのことです。
関連記事:神道国教化とは?廃仏毀釈による影響とは?
関連記事:伊集院須賀(いじゅういん・すが)とはどんな人?西郷どんに嫁いだ最初の妻の悲しい生涯
寺院墓地は戦国時代に始まった?
応仁の乱以降の戦国時代になってから始まったことで、現在に通じる出来事がありました。それは寺院の境内に墓地を設け始めたこと。
戦国時代の頃から武士を中心に、仏教の思想や祖先に対する祭祀がより活発になります。その結果大名たちは領内の菩提寺を決めてそこで葬儀を行うようになりました。
その際に追加の要望が出てきます。「できれば寺院の本堂近くに墓を立てることはできないか?そうすれば追善供養を受けることができる」というものです。
この動きがきっかけで、それまでと違って寺院内に墓を霊園ができ、敷地内に墓が立つようになりました。ただいわゆる「墓石」が一般化したのは江戸時代以降の風習です。戦国時代の遺骨はお棺に入れた後、そのまま土の中に埋めるだけでした。
関連記事:織田信長のお墓は一体どこにある?高野山「奥の院」と京都「阿弥陀寺」を紹介
関連記事:本多忠勝の墓はどこにある?徳川四天王の墓がある良玄寺と浄土寺へのアクセス方法
キリスト教禁令が、現代に通ずる葬儀の原型を作った?
現在の葬儀の場合、多くは檀家制度によって、先祖とかかわりのある宗派の葬儀を執り行うのが一般的。宗教の自由が憲法で保障されているのに、この制度が根強く残っているのは、元を正せば、戦国時代に入ってきたキリスト教が影響しています。
戦国時代後期にフランシスコ・ザビエルが初めてキリスト教を日本に伝えると、長い戦乱の影響で、魂の救いを求めていた庶民たちから一気に受け入れられました。
さらに九州の大名たちを中心に南蛮貿易を目的として改宗したり、大名並みに軍隊をもって君臨していた比叡山や本願寺に対抗させるべく信長が保護したりしたことも大きく影響します。
ところが秀吉以降、急激に広まったキリスト教への危機感が高まり、順次禁止令が出て、江戸時代の鎖国をもってキリスト教は完全に禁教となります。その結果キリスト教に入らないように半ば強制的に庶民を仏教徒にしたのが檀家制度。これにより現在の葬式の形態が形成されていきました。
関連記事:戦国時代、フランス、ドイツ、イタリアが日本に来なかった理由は?
関連記事:戦国時代を終わらせたのはぶっちゃけ鉄砲ではなかったって本当?
火葬は古代からあり戦国時代には広まっていた?
現在の葬儀で遺体の処理方法は、法律で原則火葬と決まっています。火葬の風習は日本では明治以降に定着し、それ以前の江戸時代では土葬が主流でした。
しかし意外にも火葬は仏教の荼毘に付すという意味があるため、仏教が伝来した古代から主に高貴な人の間で行われています。中世以降は高級な葬送方法として武家社会にも広がっており、戦国時代の頃には、主に大名間では広まっていた記録が残っています。資料によれば土葬との比率が半々だったとも。
ところが江戸時代には儒教思想の影響で急激に火葬が廃れていきます。代わりに江戸時代に火あぶりの刑が広まりました。
関連記事:魔女狩りはいつ始まりどうして終結したのか?社会への不満が魔女を産み出した
関連記事:三国志時代では戦死した遺体はどうしてたの?亡骸を運んだ霊柩車 槥
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の葬儀は方法としては現在と大きな違いがないと伝わります。また明治時代までの喪服は白衣とか、庶民はもっと質素な葬儀だったなど細かい点では違います。その中でも戦国時代らしい戦国大名やその家族の葬儀スタイルが記録に残っていることは非常に興味深く感じました。
関連記事:戦国時代の庶民は天皇や幕府についてどう考えていたの?
関連記事:納屋衆って何?戦国時代の倉庫屋「納屋衆」はどうして儲かった?