戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は越後春日山を紹介します。春日山は現在の直江津(上越市)のあたりです。古くから交易の町としてにぎわっていた春日山とその周辺。都市としての戦国時代の春日山の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における春日山の人口
戦国時代における越後春日山周辺の人口ですが、残された情報として1570年代ごろの春日山の人口が30,000人、1488(長享2)年の柏崎の人口が30,000人程度と推計されています。時代は多少前後しますが、この当時の他の地域の人口と見比べると、京都の100,000人は別格としても、天王寺、博多の35,000人に次ぐ人口。堺や伊勢の山田と並ぶほどの人がいたことがわかります。
意外にも越後の人口は多く、そのことが結果的に上杉謙信の躍進などにつながった可能性が考えられます。
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戦国時代の春日山を主に支配していた者・豪族
戦国時代に春日山を支配していたのは、主に次の勢力です。
- 長尾氏
- 上杉氏
越後国は律令制の施行時には存在しましたが、日本海側では蝦夷の領域に属する辺境地域でした。その後平安時代には摂関家の荘園、奥山荘」が置かれます。
鎌倉時代には三浦和田氏が地頭として支配。その後室町時代になると、この三浦和田氏を先祖に持つ在地の国人領主が数多く現れます。そして小さな領地を実効支配していました。そのころ国人衆と力のバランスを保ちながら国を守護していたのは上杉氏です。
藤原北家を先祖に持つ上杉氏は、鎌倉時代に将軍に就任した宗尊親王と共に関東に下向。南北朝の時代を経て上野、越後、伊豆の守護と関東管領に任命されます。やがて分家が出来ていき、越後1国の守護・上杉氏が誕生します。
ここに上杉氏の家臣だった長尾氏が春日山城を拠点に頭角を現しました。徐々に長尾氏が実権を握ります。
しかしこのころには将軍家や鎌倉公方らを巻き込んだ抗争が頻繁に勃発。1454(享徳3)年に勃発した享徳の乱により、応仁の乱に先んじて戦国時代に突入します。
上杉、長尾、小さな国人衆が勢力を保ちながら均衡を保っていた時代を経て誕生した長尾景虎(上杉謙信)が登場すると、越後一国を統一。
越後を支配すると甲斐の武田信玄と川中島で数回の死闘を演じます。やがて上杉家を継ぎ、関東管領になります。
謙信の後には上杉景勝が後継者争いに勝利して越後の支配者となり、織田信長や豊臣秀吉と戦いました。豊臣政権では、5大老の地位を確保。秀吉の晩年に会津が加増された景勝は会津に入り、東北大名と徳川家康の監視役となります。
代わりに越後に入った堀秀治は春日山ではなく、直江津港近くに拠点を移しました。この後関ケ原の戦いのきっかけとなる、上杉討伐により家康と対峙します。最終的に家康が勝利して天下を取ると、上杉家は越後から出羽国・米沢に入封。越後には幕府の天領と複数の藩による所領が飛び地の様に存在しました。また秀治は家康側だったので、所領を安堵され、高田藩を立藩しました。
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応仁の乱から家康の天下統一までに春日山で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に春日山で起きた主な出来事です。
- 摂関家の荘園「奥山荘」を中心に三浦和田氏が地頭として支配。
- 三浦和田氏の子孫が国人衆として国内の小領地を支配。
- 南北朝時代の後に、守護として上杉氏が着任。
- 上杉氏の家臣であった長尾氏が台頭。
- 上杉、長尾、国人衆に鎌倉公方、足利将軍家を巻き込んだ享徳の乱により先行して戦乱の世に突入。
- 長尾氏がリードするも上杉や国人衆との力は微妙にバランスを保っている状態がつづく。
- 長尾景虎により越後を統一。
- 甲斐の武田信玄と数度にわたり川中島で激突。
- 上杉を継ぐことになり、上杉謙信の名前に。関東管領になる。
- 謙信の後継者争いで勝利した景勝が後継者。
- 豊臣政権下で、景勝は5大老に就任。
- 秀吉の命により景勝は会津へ。代わりに入った堀秀治は拠点を直江津近くの福島に移動。
- 家康の上杉討伐の途中で石田三成らが動き、関ケ原の合戦につながる。秀治は東軍に参加。
- 家康の勝利の後、上杉家は米沢に入封。秀治は所領を安堵され、直江津港近くに福島城を築城。
- 秀治に代わって高田藩に入った松平忠輝により高田城が築城され福島城は廃城。
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なぜ春日山は首都になれなかったのか
春日山が首都にならなかった理由は、天皇家が越後まで足を運ばなかったからですが、それ以前に越後は中央からは辺境の地だったことが挙げられます。越後は中央より十数年も早く戦乱の状態に陥るほど、小領主が入り混じった複雑な場所です。長尾景虎が誕生するまでは国内すら統一できない状況でした。
景虎が統一後、上杉謙信として関東管領の地位についてからは、春日山城周辺が準首都クラスにまで発展した可能性はあります。しかし謙信は織田信長と対峙している途中で、脳出血により急死。これにより景勝が跡を継ぐも、上杉家の勢いが落ちたことは間違いありません。
そのほか秀吉後の世界で、もし家康が関ヶ原に向かう途中に景勝が進撃して背後から家康を攻撃して勝利すれば、秀頼を中心とした新しい時代の中、越後で強力な力を保持してこの地域が発展した可能性はありました。しかしその前に秀吉により会津に入封となったのでそれすらも微妙。
代わりに越後に入った豊臣系大名の秀治は、山沿いにある春日山ではなく直江津港に近い福島城に拠点を動かしたため、春日山城周辺の時代は終わります。結局は江戸時代には分割統治され、長岡藩の代官を配置した新潟町がそのまま現在の新潟市として発展します。
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春日山の経済面について
春日山城周辺は、もともと越後国の国府があった場所です。直江津湊は日本海水運の主要な港のひとつとなっていたため、主にこの港を通じて経済活動が盛んにおこなわれています。
越後の地では「越後上布」の産地として交易が活発でした。これは越後地域で採れる青苧(カラムシ)と呼ばれる植物を原料にした布地です。当時まだ木綿が移入される前だったこともあり、衣服の原料として非常に重宝されました。
そして戦国期では日本一の生産量を誇ります。その後江戸時代になっても上杉氏の拠点・米沢藩の収入源となりました。この交易は元々は京都の三条西家が青苧座を設置して独占していましたが、やがて越後を支配した長尾氏が介入していきます。上杉謙信は、この青苧を使った交易をより積極的に取り入れ、直江津の港から主に上方方面に運んで売り出しました。
そして謙信はこれらの青苧を販売する商売人から税金を取ることで資金源にしています。そのほか越後には複数の金山と銀山がありました。そのため辺境の地にありながら越後・春日山周辺は相当潤っていたことが伺えます。
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地震や津波などの自然災害について
春日山城周辺、越後での地震や津波についてですが、1502(文亀元)年にマグニチュード6.5〜7相当の地震が発生しました。春日山城のある直江津周辺での被害が甚大との記録が残っています。また信濃国との県境付近では大規模な山崩れが発生。周辺を流れる姫川がせき止められ、一時天然のダムが形成されました。
そのほか影響した可能性があるのが天正地震です。これは1586年に中部地方を襲った巨大地震で、その範囲が非常に広いもの。ただ越後での具体的な被害の記録は残っていません。
それでも隣の越中では高岡にあった木舟城が倒壊。城主前田秀継夫妻ら多数の死者がでました。また富山湾で津波が発生し、溺死者が多数出たとの記録があります。その後江戸時代中期には、1751年にに越後高田で大震災が発生し、最大2000名の死者を出しています。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
現在の直江津に当たる春日山は、港があることから賑わっていました。特に越後上布と呼ばれていた青苧の交易で潤い、また金山や銀山が領内にあったのが大きかったようです。長く国人衆という地元の小領主に悩まされていた守護の上杉家でしたが、最終的に家臣の長尾家から出た上杉謙信の登場により越後統一。その強力な国人衆が強力な味方となって謙信の躍進に一役買いました。
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