戦国時代の日本の中心畿内から離れた地域を紹介するシリーズ。今回は名古屋を紹介します。
名古屋のある尾張、その隣の三河も加えれば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3代英雄が生まれた地。そんな名古屋とその周辺での戦国時代の状況を解説します。
この記事の目次
戦国時代における名古屋の人口
戦国時代当時の名古屋(尾張)の人口ですが、1580年代(天正年間)の清洲城下の推定人口の記録があります。それによると7,500人。また1600年の尾張全体の人口が312,000人となっています。
また戦国武将がの兵力から逆算した場合でみると、1560年に行われた桶狭間の戦いで織田信長は最大5,000ともいわれる兵力を所有。4万人に近い今川義元軍と対峙しました。これは国の存亡にかかわる状態なので、全人口の5〜10パーセント近く動員された可能性があります。
そうなると当時の尾張の人口は5万人から10万人程度と推測できます。戦国時代でも後半になると全国的に経済成長しました。特に尾張は信長が勢力を伸ばしていく起点となる地だったことで、経済が活発化し、人口が大幅に上がった可能性が考えられます。
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戦国時代の名古屋を主に支配していた者・豪族
戦国時代に名古屋を支配していたのは、主に次の勢力です。
- 斯波氏
- 今川氏(那古野氏)
- 織田氏
- 福島氏
- 松平氏
- 徳川氏
名古屋を含めた尾張の地を室町時代の初期のころには土岐氏が守護を務めていました。1400年に斯波義重が尾張守護となってからは斯波氏が代々世襲します。斯波氏は足利将軍に次ぐ地位である管領になるなど、室町幕府の幕臣として重みを増していました。
そして尾張の守護代として現地を任されていたのが織田氏です。ただこの織田氏は信長の織田氏とは別。応仁の乱で分裂し、大和守家と伊勢守家が争っていました。
ちなみに信長の家系である弾正忠家は、守護代の家臣で清洲城の三奉行の一家にすぎません。また名古屋城の前身である那古野城を建てたのは、織田家ではなく今川家でした。今川義元の父・氏親は勢力を尾張にまで拡大。一族の那古野氏が領有して、1521年に築城します。
1538年になると織田弾正忠家で信長の父・信秀が勢力を拡大。那古野城を守っていた今川氏豊を追放して織田家のものとなります。有力な説では信長はこの那古野城で誕生しました。家督を信長が継ぎ、既に名目上になっていた守護の斯波氏や守護代の織田信友らを滅ぼし信長が尾張を統一。
さらに今川義元を桶狭間の戦いで破ると、信長は勢力を美濃、さらには京へと広げます。
本能寺の変で信長が倒れた後、信長次男の信雄が支配しました。ところが豊臣秀吉の時代になり、秀吉に逆らったために信雄は改易。
代わりに入ったのが秀吉の子飼いの家臣、福島正則です。やがて関ケ原の戦いとなり、正則は徳川家康側(東軍)だったので、戦後は広島に加増されて転封。その後は家康4男松平忠吉を経て9男の徳川義直が入り、新たに名古屋城を築城しました。そして徳川御三家の尾張藩として江戸時代を迎えます。
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応仁の乱から家康の天下統一までに名古屋で何が起きていたか?
応仁の乱の前から徳川家康が天下を支配するまでの間に名古屋で起きた主な出来事です。
- 1400年 斯波義重が尾張守護に着任。
- 1402年 織田常松が尾張守護代として着任。
- 1465年 斯波一族が分裂、将軍家と畠山氏の家督争いと絡み応仁の乱へ。
- 応仁の乱で守護代の伊勢守・織田敏広が斯波義廉と共に西軍に入る。
- 斯波義敏と共に大和守・織田敏定が東軍に入り、織田家が分裂・対立。
- 1479年 織田伊勢守と織田大和守が和睦し、尾張の共同統治が始まる。
- 斯波氏の力が衰え、今川氏親が尾張に侵攻。
- 1521年 氏親が那古野を築城。
- 織田大和守家の家老だった弾正忠家の織田信秀が勢力を拡大。
- 信秀が今川氏豊を追い出し、那古野城を確保。
- 1534年 織田信長誕生。
- 1559年 尾張を統一した信長が上洛。以降勢力拡大。
- 1582年 本能寺の変で信長の死後、次男信雄が支配。
- 1590年 豊臣秀吉により信雄が改易、代わりに福島正則が尾張を支配。
- 1600年 関ケ原の戦いの後、正則が広島へ移封、松平忠吉が入る。
- 1607年 忠吉の死により徳川義直が後を継ぎ、尾張徳川家が誕生。
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なぜ名古屋は首都になれなかったのか
名古屋のある尾張は隣の三河も含め、信長、秀吉、家康が誕生した場所ということもあり、首都になりえる可能性は十分にありました。しかし当時の首都であった京に近いところに拠点を設けた関係で、名古屋が首都になる可能性が薄まります。
信長は尾張から拠点を美濃の岐阜に移しました。その後安土と、より京都に近づきます。信長家臣だった秀吉は天下を取る際に、京都の西にある海に面した大坂を拠点としました。
そしてそのあと天下を取った家康は、秀吉の時代に関東に移封されたことで、関東に独立した勢力を持っています。そのため関東の拠点・江戸に幕府を開きました。ただ尾張は重要拠点との認識があり、将軍家に近い存在を配置する意味で、尾張徳川家を創設。御三家筆頭として江戸や京都・大坂に次ぐ町として発展していきました。
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名古屋の経済面について
名古屋を含む尾張の経済については、織田信長の父・信秀が支配してからが注目されます。尾張の横には木曽川、揖斐川、長良川の三川が流れており、濃尾平野を形成していますが、その中の最も東にある木曽川沿いに津島湊という場所がありました。
ここは木曽川の舟運で栄えていましたが、信秀はまずここを支配下に置きました。そしてこの経済力で力を蓄え、守護代の家臣の奉行に過ぎなかった立場から一気に他国と領土を争う戦国武将にのし上がります。信秀の跡を継ぐ信長も経済を重視していました。
有名なのが楽市楽座。これは信長が発案したものではありませんが、これにより商人が集まりやすくなり町が発展していきました。平安時代からわずかばかりに残っていた荘園には関所があります。荘園領主は通行料で稼いでいましたが、信長はそれを撤廃。また街道を整備し物流の流れを良くします。
こうして信長が多額の資金を手に入れられたので後に将軍義昭とともに京都に入り、天下統一に向けて動き出せました。そんな信長の経済を支えた大元であるある尾張を、後に徳川御三家が引き継ぐことになります。また尾張では古瀬戸と呼ばれる焼物が盛んに取引されました。
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地震や津波などの自然災害について
戦国時代に尾張で起きた天災は、1586(天正13)年に発生した天正地震があります。震源地は飛騨地方とされていますが、日本海側から太平洋側にかけて大きく揺れており、記録では名古屋のある尾張周辺では震度6クラスの揺れがありました。
また当時の中心部だった清州城下では、液状化現象の痕跡が発見されています。翌1587年に当時の領主だった織田信雄が清洲城を大改修しました。さらに近くにある蟹江城はこの地震で壊滅しています。南の伊勢湾では津波の被害も報告。
そのほか1498(明応7)年に東海道沖で発生した明応地震では、尾張地方が震度4から5を記録。このときも伊勢湾では津波が発生しました。
戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の名古屋は、織田信長の登場前まではそれほど目立った場所ではありません。しかし信長が尾張統一を達成。美濃、京へ勢力を広めて行きます。そのときに必要な軍資金を確保するために信長は徹底的に経済政策を行いました。
その政策により、中世以前の荘園制度がほぼ終了し、新しい時代を迎えるきっかけとなります。尾張は江戸時代に御三家筆頭の尾張家に引き継がれ、引き続き発展していきます。
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