NHK大河ドラマどうする家康21話「長篠でどうする?」では、家康の長女、亀姫が嫁ぐ事になる三河長手の国人衆、奥平信昌が登場します。長篠の戦いの勝利の切っ掛けをつくり、家康にも信頼された奥平信昌はどんな人だったのでしょうか?
この記事の目次
三河国長手の奥平貞能の長男として誕生
奥平信昌は、三河国作手の有力国人奥平定能の長男でした。奥平氏は祖父貞勝の代までは今川氏に味方していましたが、桶狭間の戦い後に今川氏の影響力が後退すると徳川家康に従属して遠江掛川城攻めに加わりました。この良くも悪くもフットワークが軽い辺りは、奥平氏に限らず、当時の三河国人には共通していました。
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秋山虎繁に敗れ武田に従属
元亀元年(1570年)12月、武田重臣の秋山虎繁が2500の兵を率いて東美濃の遠山氏の領地を通過して奥三河へ侵攻します。この時、信昌と父の奥平定能は徳川勢として同盟する遠山氏と伴に秋山軍と対峙し、上村合戦が勃発します。兵力では勝っていた遠山と徳川連合軍ですが、遠山氏が惨敗すると奥平定能と信昌親子は、殆ど戦わずして城へ逃げ戻り、まもなく武田軍に鞍替えしました。
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家康に寝返りを勧められるが定能が煮え切らない
一方、家康も奥三河における武田氏の勢力を牽制する目的から奥平氏を味方に引き入れることを考えます。そこで奥平氏に使者を送りますが、奥平定能の返答は芳しくありません。そこで家康は織田信長に相談すると信長は「家康の長女の亀姫を定能の長男信昌に与えるべし」とアドバイスしました。
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奥平定能が徳川に味方
家康は信長の意見を入れて奥平定能に
①亀姫と信昌の婚約
②領地加増
③定能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に輿入れさせる
の3条件を提示します。
元亀4年(1573年)定能は家康に対し、武田信玄の死は確実なことと、定能・貞昌親子の徳川帰参の意向を伝えました。こうして信昌は、武田家に人質として送っていた妻おふうと離婚し徳川氏の家臣になりました。
そして仕方のない事ですが、武田勝頼は信昌の離反を受けて、みせしめとして妻おふうと信昌の弟仙千代など奥平氏の人質3人を処刑しています。不幸はありましたが亀姫との間には、松平家昌、松平家治、奥平忠政、松平忠明の4人の男子と1人の女子の5人の子どもに恵まれ、側室を置くことも無かったそうで、亀姫とは政略結婚とはいえ、仲睦まじい関係だったかも知れません。
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長篠城を守りぬく
奥平氏の離反に激怒した武田勝頼は、天正3年(1575年)5月に1万5000の軍を率いて長篠城へ押し寄せました。
信昌は長篠城に籠城、家臣の鳥居強右衛門に援軍を要請させ、織田・徳川連合軍の分遣隊が武田の包囲を破り救出に来るまで耐え忍びます。長篠は東三河と長野県方面、静岡県と岐阜県方面に至る陸上交通や水上交通が交わる交通の要所でした。
この長篠を抑えた結果、同月21日の長篠の戦いで、織田・徳川連合軍は武田軍を撃破して勝利を収めました。
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信長と家康に激賞される
信昌は戦いぶりを信長から褒められ、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌に改めたと言われています。信長の直臣でもないのに偏諱を与えられたケースは長宗我部信親や松平信康などがいますが、これらは外交的儀礼の意味合いでの一字贈与で戦場の手柄による一字拝領は珍しいそうです。
家康も娘婿である信昌を褒め称え、名刀大般若長光を授けています。家康はそれだけに留まらず、信昌の籠城を支えた奥平の重臣12名一人一人に労いの言葉をかけ、彼らの知行地に関する特権などの約束事を子々孫々まで守ると異例のお墨付きを出しています。
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徳川の武将として大活躍
信昌は、本能寺の変後に起きた天正壬午の乱で酒井忠次と共に武田家遺領へ侵攻し、徳川の領地を拡大、天正13年(1585年)徳川氏の宿老石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔する大事件が起きると、数正によって徳川の軍事機密が流出したことに対抗するため、家康は急遽三河以来の軍制を武田の軍制に改めました。この時、かつて武田に臣従していた信昌は軍制改革に貢献したとされます。
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関ケ原の戦い以後、美濃加納藩10万石の大名へ
天正18年(1590年)信昌は、関東へ国替えとなった家康と共に関東に移転し上野国甘楽郡宮崎3万石に入封します。そして、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは本戦に参加し、戦後は京都の治安維持で京都所司代を翌年まで務めました。
慶長6年(1601年)には、関ヶ原の戦い以後の一連の功績を認められ、上野小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増の上で転封され、慶長7年(1602年)加納で隠居し三男奥平忠政に藩主の座を譲りました。
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慶長20年に62歳で死去
慶長19年(1614年)、嫡男忠政と下野国宇都宮10万石の長男松平家昌に先立たれます。その後、大坂冬の陣が始まりますが高齢を案じられ、息子たちに代わる大坂冬の陣への参陣を免除されました。信昌は唯一参戦した末の息子、松平忠明の下へ美濃加納から兵力を派遣し、翌年3月に62歳で死去します。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は家康の長女、亀姫を妻にした三河の国衆、奥平信昌を解説しました。最初は変転極まりない三河の国衆らしい動きをしていた奥平氏ですが、亀姫を正室に迎えてからは、謀反する事もなく忠義を見せ、家康の信任も厚い重臣になったと言えるでしょう。
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