大野治長は生母の大蔵卿局が淀殿の乳母であり、淀殿の閥族として昇進しました。大河ドラマどうする家康では、徳川家康暗殺計画に関与しながら許され、その後は豊臣秀頼の側近として返り咲き、淀殿を支える立場になる武将です。今回は世間的に臆病な風見鶏の評価がある大野治長を解説します。
この記事の目次
永禄12年頃誕生
大野治長は、永禄12年(1569年)前後に産まれました。父は大野定長で母は淀殿の側近として活躍した大蔵卿局と言われています。大野氏は元々は岩清水祠官職でしたが、祖父の大野治定の時代に神職を失い、美濃に流れたのを織田信長の命令で大野城を築いたのが織田家に仕えた最初であるようです。
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淀殿とは乳母子
治長の生母である大蔵卿局は淀殿の乳母であり、治長は淀殿と乳母子の間柄になります。その縁で大蔵卿局と幼い治長は、小谷城以来、ずっと淀殿に付き従っていたと見られますが、越前北ノ庄城の落城後は淀殿の消息も不明で、大野一族がどのような顛末をたどったのかは不明です。そのため、治長が秀吉の馬廻衆となった時期も不明ですが、淀殿が秀吉の庇護下に入った時期に前後していると考えられるので、淀殿が秀吉の側室となった天正16年(1588年)頃か、その少し前に秀吉に仕え始めたと考えられています。
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鶴松出生で1万石を受ける大野治長
治長は、天正17年(1589年)に父および母の功績で、太閤蔵入地から和泉国佐野と丹後国大野に合計1万石を与えられ、丹後大野城を拠点とします。この時期は淀殿が第一子鶴松を出産した時期で、この点に関連する褒美ないし祝賀と考えられます。
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淀殿を近くで守る大野治長
治長は天正19年、秀吉の三河国吉良狩猟に従った頃から確かな史料に登場。秀吉が朝鮮出兵の前線基地である名護屋城に在陣した時には、大野治長も在陣していました。これは、秀吉が大坂から引き連れてきた淀殿を守るためであるようです。慶長3年、治長は秀吉の死に際して金子十五枚を拝領、豊臣秀頼に仕えその側近となり、淀殿に絶大な信頼を寄せられる存在になりました。
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家康暗殺計画に加担したとして流罪
1599年9月7日、ここまで順風満帆できた治長の身に大事件が起こります。重陽の賀のために大坂城へ登城した徳川家康に対して、五奉行の一角、増田長盛が家康暗殺計画があると密告したのです。その首謀者には治長の名前もありました。家康は警備を厳重にして祝賀を乗り切り、10月2日治長は逮捕され、下総国の結城秀康のもとに預けられました。治長は冤罪を主張していないので、計画を知っていたか加担したのは事実かも知れません。
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関ケ原では東軍に味方した大野治長
しかし、流罪になって9カ月後、慶長5年(1600年)7月24日、治長は家康により罪を許され、関ヶ原の役では東軍として参戦し先鋒である福島正則隊に属しています。こうしてみると、家康暗殺に失敗して逮捕されビビった治長が家康に日和ったようですが、最近の研究では淀殿自身が、三成よりも家康を信頼していた事が分っていて、治長も三成を豊臣を危うくする存在として東軍についた可能性が高そうです。関ケ原の戦いが終わると、治長は、豊臣家への敵意なしと記した家康の書簡をもって大坂城に向かい、その後も江戸に戻らず秀頼に仕え続けました。
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戦争回避に尽力した大野治長
治長は、豊臣の宿老であった片桐且元が追放されると豊臣家を主導する立場になります。治長は家康の強大さを知っていて、戦を回避する方向性でしたが、家康は豊臣を滅ぼそうと、方広寺の梵鐘の銘文事件等で難癖をつけて挑発。豊臣家内部で主戦派が主流になり、各地から浪人を召し抱えて大坂冬の陣が始まります。治長は渡辺糺ととも籠城戦を指揮しました。
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屈辱の和平交渉
天下の名城である大坂城は、徳川軍の攻撃に耐え続けます。こうして徳川方から和睦が持ちかけられると、元々和平派である治長は織田有楽斎とともに徳川方の本多正純および後藤光次との交渉を開始します。徳川方が出した和睦内容は屈辱的であり、淀殿を江戸に人質に出す事や、大坂城本丸のみを残して二丸、三丸を壊すことなどでした。治長は淀殿を江戸に人質に出す事については拒否し、ようやく和議を成立をさせます。しかし、優勢であったにも関わらず、敗北に近い講和条件が発表されると、城内では猛反発が起こり、治長は大坂城の楼門で闇討ちを受け、護衛2名が死傷し本人も一刀を浴びて負傷します。
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最後は雄々しく出陣した大野治長
散々な目にあっても和平を優先した治長ですが、その努力は無駄になり、慶長20年大坂夏の陣が始まります。当初、治長は大坂城本丸の守備を預かりますが、5月6日、誉田合戦では後詰めを指揮、膠着状態になった後、豊臣諸隊と撤収しました。翌7日、天王寺口の戦いでは、全軍の後詰として四天王寺北東の後方、毘沙門池の南に布陣しますが、豊臣軍は総崩れとなり、撤退してきた治長も重傷を負いました。
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助命嘆願も実らず自害した大野治長
豊臣軍総崩れの知らせを聞いた秀頼は、最後に打って出て華々しく討ち死にしたいと望みますが、治長はそれを押しとどめ籠城戦を選択します。なんとしても淀殿と秀頼を生き延びさせたいと考えた治長は、最後の策として、独断で将軍秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫を脱出させました。そして千姫を使者として家康と秀忠に秀頼母子の助命を嘆願させようとします。家康は孫の願いにためらいを見せますが、秀忠は千姫が秀頼とともに自害しなかったことに激怒、秀頼母子の助命嘆願を拒否します。知らせを聞いた治長は、もはやこれまでと覚悟し、秀頼や母親の大蔵卿局、長男の大野治徳と共に自害します。その最後は作法に則った堂々としたものであったようです。
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戦国時代ライターkawausoの独り言
大野治長は、淀殿と近しい関係である事から、江戸時代には淀殿の不倫相手と揶揄され、秀頼の実父とも噂されました。また関ケ原では東軍についたり、大阪の陣では徹底して和平を主張する様子を、臆病な風見鶏と描写するドラマや映画もあります。一方で治長は、真田信繁とは秀吉の馬廻り時代からの旧知の間柄で、大坂の陣で信繁を招いたのも治長だったとされています。実際の治長は臆病でも卑怯でも無能でもありませんが、淀殿に近く、閥族として成り上がった背景と、家康に盾突いた豊臣重臣のイメージが強く、徳川の時代には、ことさら悪役に仕立てられたのです。
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