空白の4世紀とは、西暦266年から413年までの147年間を指します。
この時代、日本には文字が定着しておらず、当時の様子は主に中国の史書から推測するしかありませんが、4世紀は中国も西晋が滅亡し南北朝騒乱の時代で隣国の日本について記録する余裕がありませんでした。
そして空白の147年の間に日本は邪馬台国から大和朝廷へと文化的にも大きく飛躍しているのです。一体、僅か147年の間に日本で何が起きたのでしょうか
この記事の目次
空白の4世紀とは?
空白の4世紀とは、西暦266年から413年までの147年間を意味します。具体的には卑弥呼の後継者として邪馬台国を統治した女王台与の時代から413年の倭王「讃」の中国南朝への朝貢までを指します。
この147年間に日本は飛躍的な文化的進歩を遂げましたが、それがどうやって為されたのか文字的な史料も考古学上の発見も乏しいので、日本史上の大きなミステリーになっているのです。
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空白の4世紀、何が変化した
空白の4世紀の間に日本は大きく変化しました。5世紀に入ると、それまでの単純な方賁や円賁だった古墳が前方後円墳のような複雑な形になり、規模も比較にならない程に大型化したのです。
また弥生時代まで祭祀の道具として珍重されていた銅鐸が製造されなくなり青銅が中心だった金属器が鉄器に取って代わりました。
日本人の体形も、それまでの背が低くガッシリした体系の縄文人タイプから背が高く細い弥生人タイプへ変化すると同時に、それまで存在した刺青の風習も消滅します。
そして古墳の副葬品も剣や鏡、玉が中心だったものが馬具や王冠のような大陸の影響を受けた副葬品に変化し、柩を安置する玄室に壁画が描かれるようになります。これも中国や朝鮮の墳墓の影響です。
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空白の4世紀どうして分からない?
空白の4世紀を解くカギとして仁徳天皇陵のような古墳の調査が有効ですが、歴代天皇の墳墓については宮内庁が管理し、いかに学術調査と言っても勝手に墓を暴く事は許されていません。
そのため、宮内庁は天皇制を揺るがす重大な秘密を隠しているに違いないと盛んに陰謀論が唱えられる事になるのですが、それはさておき、このような事情から4世紀については、その全貌が分からない状態が続いていました。
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空白の4世紀 渡来人
文字史料が一切ない空白の4世紀ですが、歴史的な大発見が平成30年にありました。
4世紀末から5世紀初め頃に建てられた「大壁建物」と呼ばれる渡来人由来の建築物が奈良県の市尾カンデ遺跡で見つかったのです。大壁建物とは、方形に掘った溝の中に細い柱を並列で何本も並べて立て、その後土で塗りこめて壁にした建物で東西15メートル南北13メートルの当時としては日本最大の建築物です。
また、大壁建物の遺跡からは朝鮮半島の土器に類似する「韓式系土器」も多く出土し朝鮮半島との深い繋がりが分かります。従来、渡来人の日本移住は倭の五王の1人、5世紀後半の雄略天皇以降のことと考えられていたので定住時期が大幅に早まるかも知れません。
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空白の4世紀 日本書紀
日本書紀には、渡来人の入ってきた時期を5世紀のはじめとする記述がありましたが、市尾カンデ遺跡からの大壁遺跡の発掘までは、信憑性が低いと考えられていました。
しかし、今回の遺跡発掘で渡来人の渡ってきた時期が日本書紀の記述と符合する事が証明され、日本書紀の別の記述にも信憑性が期待できる可能性が出てきました。
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空白の4世紀馬
魏志倭人伝には、倭国には牛、馬、虎、豹、羊、はいないと記されています。実際、日本在来馬の起源は古墳時代に軍馬や家畜としてモンゴル高原から朝鮮半島を経由し国家方針として国内へ導入された蒙古系馬にあるようです。
馬の伝播ルートとしては、朝鮮半島から対馬海峡を渡って対馬へ船で運搬し玄界灘を渡って九州本土へ運んだと考えられます。
DNA解析でも日本在来馬8品種と世界の32品種を比較した結果、日本在来馬は蒙古在来馬の祖先が対馬を経由して輸入され、全国に広がった事が裏付けられています。古墳から馬具が出てくるのも、5世紀頃からなので、馬の伝播と空白の4世紀は密接に関係していると言えるでしょう。
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空白の4世紀 朝鮮半島
空白の4世紀に日本が文化的に大きな進歩を遂げた理由として大陸や半島から大勢の渡来人がやってきた事があります。では、どうして大勢の渡来人が4世紀日本に来たのでしょうか?
その理由として世界規模の地球の寒冷化があります。寒冷化は3世紀頃に頂点を迎え、有名な三国志の時代の中国は寒波の到来で南の長江が凍結するほど寒く、軍船が長江に入れずに退却した記述が出てきます。
この寒冷化はただでさえ貧弱な農業に大打撃を与え、中国周辺の遊牧民族も食糧を求めて晋帝国の領内に度々侵入するようになり、ここに八王の乱のような晋朝の内乱もあり、華北は五胡十六国の大動乱時代に突入しました。
この影響で朝鮮半島でも騎馬民族の高句麗が朝鮮半島を南下します。当時、朝鮮半島にあった大きな国、百済と新羅と伽耶の中で百済と新羅が高句麗に降伏します。
しかし、百済王族の一部と伽耶国が倭国に救援を求め、これに応じて倭国が救援を差し向け、広開土王碑によると西暦391年に倭国が百済と新羅を破り臣民とするなど朝鮮半島で激しい勢力争いがあった事が窺えます。
これらの事から推測すると高句麗の南下で国を失った百済や伽耶から倭国に大勢の政治難民が渡来し、同時に騎馬民族である高句麗に対抗すべく、馬や牛が日本にもたらされたと考えられるのです。
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空白の4世紀天皇
4世紀の天皇には、欠史八代の天皇に続き実在した可能性が高い天皇として以下の天皇がいます。
10代 | 崇神天皇 | 3世紀後半から4世紀前半 |
11代 | 垂仁天皇 | 4世紀前半 |
12代 | 景行天皇 | 4世紀前半 |
13代 | 成務天皇 | 4世紀中期 |
14代 | 仲哀天皇 | 4世紀後半 |
15代 | 応神天皇 | 4世紀後半 |
15代応神天皇は、晋書の倭王讃と推定される天皇の1人で西暦413年に東晋の安帝(司馬徳宗)に使いを出し貂皮と人参を送ったと記録されています。
日本書紀や古事記によると応神天皇は渡来人を用いて国家を発展させたとあるので、積極的に大陸と交流を持ち、進んだ文化や技術を熱心に導入した天皇なのかも知れません。
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空白の4世紀 邪馬台国
空白の4世紀には、忽然と姿を消してしまう邪馬台国の問題もあります。
邪馬台国の消滅理由については空白の4世紀の間に、大陸から精強な騎馬民族が大挙襲来し騎馬を持たない邪馬台国を蹂躙して滅ぼし、邪馬台国を簒奪し大和王権を建国したとする説があります。
もうひとつは、大陸から入ってきた文明と文化の影響を受けて、邪馬台国が大和朝廷へと発展的に解消したとする説です。また、もう1つは邪馬台国自体が魏志倭人伝に出てきて有名になっただけで、元々長期存続するような政権基盤を持っていなかった可能性もあります。
つまり、正史三国志に取り上げられたから邪馬台国がクローズアップされただけで、実際の邪馬台国は大した強国ではなく、その後の騒乱で呆気なく滅びた。最初から大和朝廷とも大陸からの渡来人とも無関係と考える事も出来るのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は日本史のミステリー空白の4世紀について解説しました。
カワウソが考えるに3世紀の地球規模の寒冷化が深刻な食糧不足を産み、満洲にいた高句麗が南下して、新羅や百済を圧迫、亡命した百済や伽耶国の王族や技術者が馬や牛を伴い大勢日本に渡来した結果。大陸の文化がそれまでとは比較にならない規模で日本に伝播し、文明の水準が飛躍的に上がったというのが真実に近いような気がします。
皆さんは、空白の4世紀をどのように考えますか?
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