源義経は日本史最初のヒーローと呼ばれる人物です。
源氏が平氏に大勝した富士川の戦いの後、忽然と登場し、宇治川合戦で木曾義仲を滅ぼし、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦いと連勝して平氏を滅ぼし鎌倉幕府の成立に大きく貢献します。彗星の如く出現した義経ですが、その後兄頼朝に疎まれて悲劇の最後を迎えました。その原因は一体なんだったのでしょうか?
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この記事の目次
頼朝に従い5年で平氏を滅亡させる
源義経は河内源氏の源義朝の九男として誕生し幼名を牛若丸と言いました。しかし生まれた直後、父義朝は平治の乱で平清盛に敗北、幼い牛若丸も命の危機を迎えますが乳飲み子という事で助命され鞍馬寺に預けられます。
僧侶になるハズだった義経ですが、後に平泉に下って奥州藤原氏当主藤原秀衡の庇護を受け、兄頼朝の挙兵を知ると馳せ参じて義仲征伐、さらに一ノ谷、屋島、壇ノ浦の平氏との三連戦に勝利して平氏を滅ぼしました。
忽然と歴史に姿を現してから、僅か5年で栄華を極めた平氏を滅ぼした義経は、日本史上最初のヒーローと呼ぶに相応しい功績を残したのです。
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表面化する頼朝との軋轢
平氏を壇ノ浦に滅ぼし三種の神器である八尺瓊勾玉を奪還した義経は凱旋将軍として京都に帰還し、後白河法皇から戦勝を讃える勅使を派遣されます。しかし、平氏が滅んだ事でそれまで抜群の戦勝のお陰で黙認されていた義経のスタンドプレーへの不満が噴出しました。特に屋島の戦いで義経が味方の軍勢を多く置き去りにして平氏に奇襲をかけた事は軍監の梶原景時以下に大きな不満を与えました。
梶原景時は義経のスタンドプレーに抗議して窮地に陥った義経の軍勢に加勢するのを意図的に遅らせるなど感情的にも義経を敵視します。また、頼朝は義経と範頼に対し、平氏から三種の神器の奪還と安徳天皇を生きたまま確保する事を厳命していましたが、義経はそれに失敗していたのです。
範頼は頼朝の怒りを恐れて大江広元を通じて報告を出すくらいでしたが、義経は特に反省する様子もなく戦勝を誇っていた事から頼朝の不信を招きます。
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義経を重用し頼朝との不和を助長する法皇
梶原景時は鎌倉の頼朝に書状を送り、「義経は頼朝の威光で従えた御家人を使い平氏を滅ぼしたのに、それらの手柄は全て自分1人で出来た事と威張っているとし、平氏滅亡後はいよいよ傲岸不遜になり、御家人はいつ逆鱗に触れるかと戦々恐々であり、景時は頼朝の臣下である事を忘れず義経に諫言するものの逆に刑罰を科せられない勢いとし、平氏討伐が終わったので関東に帰りたい」と書いています。
梶原景時は義経と作戦面で意見が対立しているので個人的な私怨も入っていますが、義経の独断専行は事実で、不満を持っている御家人は多くいました。
さらに義経は兄頼朝の許可を得ないうちに朝廷から官位を受けていて、頼朝は激怒、義経に対し東国への帰還を許さず、京都で仕えるように厳命しています。ところが義経は頼朝の怒りを一時のものだろうと軽視し、鎌倉に護送が決定した平氏の総大将、平宗盛と清宗を自ら引き連れて京都を出発し鎌倉に入ろうとしますが頼朝は義経が鎌倉に入る事を認めず、腰越の関で留めて宗盛と清宗のみを鎌倉に容れました。
この時、義経は頼朝に対して自分には謀反の気持はないと弁明した腰越状を出していますが、最近では腰越状自体を創作とする説もあるようです。
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頼朝の義経への不信感
頼朝が義経に厳しい態度を取った事には複雑な事情がありました。第一には、義経が平氏討伐で余りにも活躍しすぎて関東御家人の恩賞の機会を奪い、関東武士に恨まれている点があります。頼朝は勢力圏の関東武士の不満を考えると簡単に義経を赦すわけにはいかなかったのです。
もう1つは、義経が頼朝の許しも得ずに平氏の投降者である平時忠の娘を妻にした上、後白河院政における軍事のトップである院御厩司に義経が就任した事があります。これは頼朝から見れば義経が平氏に代わって京都で西国を握る布石に見え、そうでないとしても老獪な後白河法皇に操縦され鎌倉に対抗する勢力として利用されていると考えるに十分でした。
頼朝は最後まで義経を鎌倉に入れず、宗盛父子と平維盛を伴わせて義経に帰洛を命じます。この時義経は頼朝を激しく恨み、「関東で恨みを為す者は義経に就くべし」と言い放ったそうで、これを耳にした頼朝は義経の所領を全て没収します。
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義経、叔父の源行家と謀反
頼朝の怒りとは無関係に義経は朝廷により伊予守、検非違使・左衛門少尉へ任官されます。一方で義経は頼朝への反逆を考え、叔父にあたる源行家と組んで挙兵を企んでいました。
義経謀反の情報を掴んだ頼朝は、探りをいれるために梶原景時の息子の景季を義経邸に派遣し、叔父である行家を討つよう要請します。しかし、義経は憔悴しきった顔で現れ重病である事と行家が自分と同じ源氏である事を理由に拒否しました。
頼朝は義経が仮病を使い、すでに行家と共謀していると判断し義経討伐を決意、部下の土佐坊昌俊に六十余騎を従わせ堀河の義経邸を襲撃しますが、義経は最前線に出て戦い土佐坊昌俊を破って捕らえます。
そして、土佐坊を尋問し襲撃が頼朝の命令であると知ると土佐坊を縛り首にし、源行家と頼朝討伐の軍を挙げ、後白河法皇に頼朝討伐の院宣を出すように強制しました。法皇は思い留まるように義経に命じますが義経は聞かず、やむなく院宣を出します。ところが義経の挙兵に従う武士はほとんどいませんでした。
恩賞を出す権限は義経ではなく頼朝にあるので当然と言えば当然で、むしろ反義経を表明して頼朝に取り入ろうとする武士も出てきます。ここで後白河法皇が一転して義経追討の院宣を出した事で義経は窮地に陥り、頼朝が義経討伐の軍勢を出すと義経は西国で体制を建て直そうと九州に向かいます。
鎌倉の軍勢が駿河国の黄瀬川に到達すると義経は西国九州の緒方氏を頼り、300騎で京都を落ちていきました。
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暴風で軍勢が壊滅し奥州へ
摂津国大物裏で船団を組んで九州へ向かう義経一行ですが途中に暴風に遭遇して船が難破し主従散り散りで摂津に押し流されます。これで九州行きが不可能になった義経は郎党や愛妾の白拍子静御前を連れて吉野に身を隠しますが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられました。
義経は京都の反頼朝勢力の貴族や寺社に匿われますが、その間に和泉国で叔父の行家が鎌倉方に討ち取られます。各地に潜伏していた郎党、佐藤忠信や伊勢義盛も鎌倉の捜索により次々に発見され処刑されました。
頼朝は京都に義経が潜伏していると睨み、京が義経に味方するなら大軍を送ると恫喝。京都にも居られなくなった義経は藤原秀衡を頼り、伊勢、美濃を経て奥州へむかいます。この時、付き従っていたのは正妻と女児で、義経は山伏と稚児の姿に変装していました。
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奥州衣川館で最期を迎える
奥州藤原氏の当主である秀衡は、すでに常陸の佐竹氏を援護して頼朝とは交戦状態でした。そこで戦には滅法強い義経を将軍として迎えて頼朝に備えようとします。
ちょうど曹操に追われた劉備が荊州の劉表の下に亡命して最前線の新野城を任されたみたいなものですね。しかし、義経には劉備ほどに悪運はありませんでした。
義経を庇護した秀衡が文治3年(1187年)に没します。義経が秀衡を頼ってから1年に満たず義経には痛恨の死です。秀衡は後継者の泰衡に義経の指図を仰げと遺言を残しますが、ここで頼朝は巧妙にも、泰衡に義経討伐を命じてきました。頼朝が自ら親征すれば泰衡と義経は運命共同体ですが、泰衡に義経を討てと命じた事で仲間割れを狙ったのです。
泰衡は度重なる頼朝の恫喝に屈し、文治4年閏4月30日に500騎を率いて衣川の藤原基成館に滞在する義経郎党十数騎を襲撃、義経は抵抗せずに妻と子供を殺害して自害したと伝わります。しかし、義経の首は真夏に上等な酒に浸され43日もかけて鎌倉に送られたので、腐食が進んで本人とは判別できなかったと考えられ泰衡は頼朝に偽首を送り義経を蝦夷に逃がしたという話も伝わっています。
日本史ライターkawausoの独り言
義経の生涯を見ると「狡兎死して良狗煮らるる」を地で行く生涯と言えそうです。
下積みの苦労なくいきなり義仲討伐でスターダムにのしあがった義経は部下の気持を考える部分に欠け、同時に手柄は全て自分のお陰で頼朝も感謝しこそすれ、自分を疎んじるとは想像だにしなかったのでしょう。
しかし、頼朝は政治的にはリアリストで肉親であっても特別扱いはしないので、義経の行動が越権と見えて見過ごせず討伐の判断を下したと考えられます。平家が滅んでしまった段階で義経は頼朝に粛清される運命だったと言えますね。
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