NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」登場時から兎一羽を巡って簡単に人を殺してしまうバーサーカーとして登場した義経ですが、実は兄頼朝に負けない女好きである疑惑が登場してきました。
悲劇の英雄として、これまで下半身問題はボカされ、静御前を一途に愛する愛妻家扱いをされてきた義経ですが、実際彼の妻は何人いたのでしょうか?
あれだけ義仲に会いたがっていたのにウヒョを取る
NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、第13話「幼馴染みの絆」では、これまで純粋なバーサーカーキャラだった義経に新たな一面が浮上しました。
合戦がしたくてたまらず、義時に無理を言ってまで信濃の源義仲へ会いに行く随員に選ばれた義経ですが、同じ日の夜に比企能員の屋敷に招かれ、能員の娘、郷御前を紹介されると一目ぼれ、夜の間にウヒョに及び、翌日は寝過ごして義時においてけぼりを食わされたのです。
もっとも、この段階で未婚の義経ですから頼朝と違い浮気ではありません。ただ、純粋なバーサーカー義経がスケベ狂戦士のイメージに変わった人も多いのではないでしょうか?
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義経の妻は知られているだけで3人
源義経の妻については、正室郷御前以外にも、有名な静御前や、平家一門の平時忠の娘である蕨姫が知られています。もっとも正室は生涯、郷御前であり静御前も蕨姫も妾として、正室よりは1ランク落ちる扱いをされています。
こうして見ると義経は静御前一途というわけでもなく、頼朝同様の恋多き男という事かも知れません。さて、ここからは義経のそれぞれの妻について解説します。
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実は比企能員の娘ではない郷御前
最初に正室の郷御前について解説します。ドラマでは比企能員の娘として紹介されていましたが、郷御前は比企能員の娘ではなく、武蔵国の豪族、河越重頼の娘です。
ただ比企氏と無関係かというとそうではなく、河越重頼の妻は頼朝の乳母である比企尼の次女、河越尼なので、郷御前もちゃんと比企氏の血を引いている事になります。
また、結婚した時期もドラマとは違い、義経が義仲を破って上洛した後である元暦元年(1184年)9月14日です。ただ、婚儀自体はそれ以前から決まっていたようで、義経が鎌倉にいる時から準備は進んでいたのかも知れません。
京都に上洛した郷御前は、頼朝に疎まれ討伐される義経を見捨てずに最後まで付き従い、娘と共に藤原秀衡が支配する奥州平泉まで逃げのびました。
しかし、頼みの秀衡はまもなく病死。文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉の頼朝の脅迫に耐えかねた藤原秀衡の子、泰衡が衣川に義経一党を襲撃すると義経は22歳の郷御前と4歳の娘を殺し、その後自害したと伝わります。義経の正室として、一途に夫を支え続け苦楽を共にした見事な最期でした。
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義経を伝説にした静御前
静御前は平安末から鎌倉初期の白拍子です。白拍子は芸能を専業とする遊芸人で権力者の屋敷に招かれては歌い舞を舞い、神社仏閣では芸能を奉納していました。
静御前の母は磯禅師と言い、同じく白拍子で静は母と共に暮らして生計を立てていたようです。
身分の性質上、静御前が義経に出会った具体的な逸話はありませんが、義経の生涯を描いた「義経記」によると、日照りが続いたので後白河法皇が100人の容姿端麗な白拍子に舞を舞わせて雨乞いをさせたところ、99人までは一滴も雨が降りませんでした。
しかし、100人目の白拍子が舞を披露した途端黒雲が出現し、3日間も大雨が降り続きます。その百人目の雨女が静御前であったそうで、その後、住吉でも静御前が雨乞いをした時に義経が見初めて妾にしたと伝わります。
静御前は義経が挙兵に失敗して、九州で再起を図ろうとした時に義経に従う人々としてカウントされていますが、船は暴風雨で難破し、義経が九州行きを断念して平泉に向かう途中、別れ別れとなり、頼朝が出した追手に逮捕され鎌倉に送られ義経の居場所について尋問を受ける事になります。
鎌倉においても義経の妻である事を誇りにし、毅然とした態度を崩さなかった静御前ですが、すでに義経の子を身ごもっていました。頼朝は女子なら見逃すが男子なら生まれた直後でも取り上げて由比ヶ浜に捨てて殺害すると宣告します。
無情にも生まれた子は男子で、安達清常が赤子を渡すように静御前に厳しく迫りますが、静御前は赤子をしっかり抱きしめて泣き叫び、決して手放そうとしません。そして数時間後、頼朝の怒りを恐れた母の磯禅師が赤子を静の手から取り上げ安達清常に渡しました。
こうして静御前と磯禅師は許され、京都に帰ったと伝えられます。義経の愛人として有名な静御前ですがその最後を共にする事はありませんでした。
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詳細が不明な蕨姫
蕨姫は、権大納言平時忠の娘です。平時忠は平清盛の継室、平時子の弟であり、平治の乱で平清盛が台頭すると時忠も引き立てを受けて権勢を振るいます。
よく知られている「平家にあらずんば人にあらず」は、この時忠の言葉だと言われています。
そんな時忠も平家の都落ちに従って各地を転々とし、壇ノ浦の戦いの後、源氏に捕らえられて捕虜になりました。しかし、老獪な時忠は平家を滅ぼした功労者である義経に取り入ろうとして、娘の蕨姫を妾として義経に差し出します。その影響もあってか、能登に流罪になる予定の時忠を義経は中々護送せず頼朝の怒りを買っています。
また、平家物語によれば、時忠は平家の重要文書を義経に押収され、それを返してもらおうと娘を妾に差し出そうと考えますが、現在の妻の娘は惜しいので、前妻との間に出来た当時23歳の蕨姫を差し出したと書かれています。
蕨姫に泣きつかれた義経は封も切らずに文書を時忠に返却、時忠は急ぎ文書を焼き捨てたとされています。蕨姫は義経が挙兵に失敗して都落ちした後から記録に登場しなくなるそうで、義経と行動を共にせず京都で余生を送ったと考えられているそうです。
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日本史ライターkawausoの独り言
こうしてみると郷御前も静御前も蕨姫も義経が上洛を果たしてから、義経と同居しだした事が分かります。義経が京都にいたのは3年余りであり、その間に3人の女性と関係を持ったのだとしたら、傍目にはかなり派手な女性関係と映った事でしょう。
ただ、源氏の御曹司として平家を滅ぼす大功を立てた義経が自分の跡継ぎを早く作って、一家を立てようと考えても当時としては不自然ではなく、スケベだったというよりも、早めに跡継ぎを産んで家を存続させたいとする考えが先だったかも知れませんね。
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