NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、第12話「亀の前事件」の発端となったのは、北条時政の継室であるりく(牧の方)が頼朝の浮気を実依(阿波局)に話し、おしゃべりの実依から御台所の政子の耳に入った事でした。
ドラマにおいてはトラブルメーカーの牧の方ですが、史実ではどんな人だったのでしょうか?
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本当は駿河生まれの坂東女
牧の方は北条時政の継室で義時や政子にとっては継母という事になります。駿河国の生まれと考えられ、頼朝に髻を切り落とされた牧宗親は父か兄であるようです。
大河ドラマと違い史実の牧の方は政子と同じ坂東の女のようですが、牧の方の出身母体である牧氏は大岡牧と呼ばれる荘園を経営し荘園を後白河法皇に寄進していたので、京都との往来も多かったと考えられ、京都の文化に馴染んでいた可能性もあります。
夫である時政といつ出会ったのか不明ですが、時政が大番役で京都に数年滞在している間に、縁が出来たとしても不思議はありません。また年齢差はあるものの時政と牧の方は仲睦まじい関係だったようです。
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牧の方は政子より年下だった?
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、時政が若い女好きである事が、娘の政子や阿波局のセリフから語られますが、実際、牧の方は何歳だったのでしょうか?
鎌倉歴史文化交流館学芸員の山本みなみ氏は、明月記の天福元年(1233年)五月十八日の日記より、時政の八女の生年を文治3年(1187年)と確定。
また、時政と牧の方の男子、政範の生年が文治五年(1189年)である事から合計9人いる牧の方の子供の年齢を逆算し時政と政子の結婚を治承4年(1180年)と仮定しています。
そして、当時の結婚年齢を考え牧の方の誕生年を永暦2年(1161年頃)と推測しました。つまり、時政と結婚した時、牧の方は19歳だったという事です。
しかし、これだと面白い事になります。時政の娘である北条政子は保元2年(1157年)生まれなので牧の方よりも年上の娘になってしまうのです。
いくら時政が若い女が好きと言っても、自分よりも年下の継母がやってきたとしたら、政子や阿波局は驚いたのではないでしょうか?
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源頼朝を助命した池禅尼は伯母
牧の方の祖父は藤原宗兼であると考えられ、宗兼の娘には平忠盛に嫁いだ池禅尼がいます。
この池禅尼は平治の乱で敗れて捕らえられた源頼朝の助命を義理の息子である清盛に熱心に働きかけた事が知られ、事実頼朝はその事を恩義にし、池禅尼の子である平頼盛の罪を許して京都に帰し、頼盛は後白河法皇より、院分国の播磨国と備前国の知行を任されています。
牧の方から見て池禅尼は伯母にあたり近しいので頼朝も牧の方については、何らかの厚遇をしていた可能性もあります。
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亀の前事件は事実
寿永2年(1182年)11月、牧の方は嫡男、万寿を出産したばかりの継娘政子に、頼朝が亀の前という愛人をつくっていると告げます。
激怒した政子は、牧の方の兄か父と考えられる牧宗親に命じて、亀の前が匿われていた伏見広綱の屋敷を打ち壊すように命じました。これはうわなり打ちと呼ばれる報復行動ですが、この仕打ちに激怒した頼朝が牧宗親を呼び出し、髻を切り落として辱める事件が発生。
北条時政は舅が頼朝に恥をかかされた事を怒り一族を引き連れて伊豆へ帰る大騒動に発展しています。このように牧の方はドラマ同様、周囲にトラブルをまき散らす一面があったようです。
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待望の嫡男、政範の死去
仲睦まじかった時政と牧の方ですが、女児は生まれるものの男児が授からないという悩みがありました。
このままゆけば、北条家の家督は義時が継いで自分はお払い箱と焦る牧の方ですが、結婚から9年近く過ぎた文治5年(1189年)待望の男子、政範が誕生します。政範は若年でしたが官位の昇進が義時よりも早く、時政は政範を北条の後継者と考えていたようです。
しかし政範は16歳の時、3代将軍源実朝の正室、坊門信清の娘を迎える使者として上京した際に流行り病に罹り急死しました。
この事は時政を嘆かせると共に牧の方を落胆させたようです。政範の死で北条家の家督を義時が継ぐ事がほぼ確定し、牧の方は娘が嫁いだ鎌倉幕府の重臣、平賀朝雅に肩入れして生き残りを図るようになります。
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源氏のエリート平賀朝雅
平賀朝雅の父は平賀義信と言い信濃の佐久郡に拠点を持っていましたが途中で頼朝に従うようになりました。
その後は頼朝の郎党として木曾義仲と対峙し、信濃佐久地方における有力な御家人勢力として重んじられるようになり、頼朝の乳母である比企尼の三女を正室とし、源氏門葉の地位を確立します。
朝雅は義信の次男で頼朝の猶子(財産相続権がない子)として扱われて変わらず引き立てを受けていました。牧の方は、朝雅の毛並みの良さを考えて娘を嫁がせたのでしょう。平賀朝雅は父義信、兄大内惟義の後を継いで武蔵守に任じられます。しかし、武蔵国は鎌倉幕府の大御家人である畠山重忠を筆頭とする秩父氏の領地でした。平賀朝雅とその後見人である北条時政、牧の方vs畠山重忠の間で対立が起きるのは必然だったのです。
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畠山重忠の乱
そんな折、三代将軍、実朝の御台所を迎えるべく上洛していた畠山重忠の子、重保が平賀朝雅の屋敷で朝雅と口論を起こしました。
口論自体はつまらない事で周囲が宥める事で治まったのですが、それから半年以上も経過した元久2年(1205年)6月、突如として朝雅は、牧の方に重保が暴言を吐いたと訴え、牧の方は時政に、畠山氏の謀反として讒言します。
すでに、武蔵国の支配権を巡り、時政と畠山氏は対立関係にあり、また嫡男政範が死んだ事もあり時政も娘婿の平賀朝雅に賭けようと踏んだのか、息子の義時や時房が畠山重忠討伐に反対するのを強引に押し切り、畠山重保を鎌倉で謀殺。
さらに偽命令で畠山重忠を鎌倉に呼び出して、大軍で包囲して攻め殺しました。
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牧氏の乱で時政と共に鎌倉を追放
畠山重忠を排除した牧の方と時政の暴走は止まりません。その時、時政の屋敷に居た三代将軍源実朝を暗殺し、平賀朝雅を4代将軍に立てようと画策したのです。
これに成功すれば、鎌倉幕府の実権は義時や政子から、時政と牧の方に移るハズでしたが、畠山重忠の乱の無茶苦茶ぶりに、義時と政子が時政を見限りました。
政子は時政の屋敷から将軍実朝を連れ出して義時の屋敷に移動させ、御家人の大半が義時と政子の命令に従い、時政を見放します。すべてが終わったと感じた時政は、すぐに剃髪して出家しこれ以上逆らう気がない事を示し、義時は時政を伊豆に隠居させ牧の方を追放したのです。
娘婿の平賀朝雅にも追手が差し向けられ、朝雅は自害して果てました。
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娘を公家に嫁がせ権力を維持する牧の方
時政は伊豆に押し込められてから10年後に失意のうちに病死しますが、牧の方は時政死後も意気消沈する事はありませんでした。男子である政範には先立たれた牧の方ですが、時政との間には娘が8人もいて、多くが当時の権門に嫁いでいました。
例えば、時政の八女は宇都宮頼綱に嫁ぎ、その娘は権中納言、藤原定家の子為家に嫁いでいて、為家は太政大臣西園寺公経の猶子となっています。
牧の方は八女を通じ、孫婿の藤原為家や西園寺公経に鎌倉の情報を送り、その中には北条政子死去の情報や、鎌倉幕府執権北条泰時が政子に出家を願い出て止められた等の極秘情報をもたらしていたのです。
牧の方の没年は不明ですが2020年に発見された新史料、藤原定家自筆明月記断簡によると、嘉禄元年(1225年)に64歳で存命である事が分っています。太政大臣や権中納言の権力に娘を嫁がせて食い込み、なおも存在感を維持している牧の方の姿がありありと浮かんできますね。
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日本史ライターkawausoの独り言
牧の方の消息は牧氏の乱以後は、明月記などにしか出てこなかったのですが、2020年に散逸して消えていた明月記の断簡が発見された事で、牧氏の乱後も失脚したわけではなく、娘たちを通じて京都の政界に食い込んで、鎌倉の情報を伝えるなど活躍している事が分かってきました。
牧の方は転んでもタダでは起きない女傑だったと言えるでしょう。
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