源頼朝の死因となった?頼朝の落馬した場所はどこなの?


鎌倉を拠点にした源頼朝

 

長く続いた「武家政治」の基礎を作ったのが鎌倉(かまくら)幕府の創設者「源頼朝(みなもとのよりとも)」です。彼は西暦1199年に亡くなるのですが、ある説ではその死因が「落馬」とも言われています。

 

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

戦場を駆け回った武家の棟梁が「落馬」とは意外な感じもしますが、その落馬した場所はどこなのでしょうか?

 

直垂を着用する源頼朝

 

今回の記事では頼朝の落馬場所、そして死因についても探ってみましょう。まずは頼朝のプロフィールから。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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源氏の棟梁の息子として生まれるが

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

源頼朝は源氏の棟梁である「源義朝(みなもとのよしとも)」の3男として生まれました。父や兄たちは朝廷の権力争い「平治(へいじ)の乱」で敗れ、戦死または処刑されてしまいます。頼朝や弟の義経(よしつね)らは幼年のため命は助けられ、頼朝は伊豆に流刑となります。

 

家を飛び出し源頼朝と交際を続ける北条政子

 

長じてからは伊豆で「北条政子(ほうじょうまさこ)」と出会い結婚、以後は北条家とともに平家打倒を目指すことになります。

 

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北条義時

 

 

 

挙兵し、ついに平家を滅ぼす

源義経を匿って養育していた藤原秀衡

 

西暦1180年、頼朝は後白河法皇(ごしらかわほうおう)の息子「以仁王(もちひとおう)」の要請に応じる形で平家打倒の兵をあげ、奥州(おうしゅう)で生活していた弟の義経とも再会します。源氏の嫡流である頼朝は信望を集め、まずは関東地方を中心とする東国を勢力下に納めます。

 

源義経 vs 木曽義仲.jpg

 

一方同じく挙兵した「源義仲(みなもとのよしなか)」は平家を各地で破り、平家を都から追い出すことに成功します。しかし、義仲の兵は略奪など傍若無人にふるまい、義仲も後白河法皇と対立。

 

早く木曽義仲と戦争をしたい源義経.jpg

 

後白河法皇は頼朝に義仲討伐を命じ、頼朝は義仲を破り、以後は平家との戦いに専念することになります。そして西暦1185年「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」で平家を滅亡させます。

 

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源義経

 

 

鎌倉幕府を創設する源頼朝

激怒した頼朝、義経討伐を命じる

 

平家滅亡後は義経と対立し、彼をかくまった奥州藤原氏(ふじわらし)を攻め、それを滅ぼし義経も自害させます。これで頼朝はほぼ日本全国を勢力下に納めることになり、ついには「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任命されます。

 

ダークサイドに堕ちた源頼朝.jpg

 

これで頼朝は名実ともに武家の棟梁となり、以後700年以上続く武家政治の基礎を築くのです。彼が亡くなったのは西暦1199年ですが、その死因は「落馬」である、という説があります。

 

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源頼朝

 

 

源頼朝が落馬?

最強の寄せ集め集団を率いる源頼朝

 

源頼朝は1198年、家臣の「稲毛重成(いなげしげなり)」が亡き妻のために掛けた橋「相模川橋(さがみがわばし)」の「橋供養(はしくよう)」に参加します。「橋供養」とは橋が完成した時に渡り始めの前に行う供養の事で、現在でも橋が完成すると式典が行われるのと同じようなことでしょう。

 

その「橋供養」の帰路、頼朝は馬から落ちてしまい、それが原因で亡くなってしまった、ということです。先述の通り、頼朝は若き頃から戦場を駆け回り、馬に乗ることも慣れているでしょうから、落馬してしまうということは元々何らかの病気にかかっていたと考えられるのではないでしょうか?

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

不気味な異説「保暦間記

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南北朝時代に編纂(へんさん)された歴史書「保暦間記(ほうりゃくかんき)」には異説があります。それは頼朝が橋供養の帰り、弟の義経や平家とともに壇ノ浦で海に沈んだ「安徳天皇(あんとくてんのう)」、の亡霊を見てしまい、驚いて落馬した、という説が書かれています。

 

頼朝が亡くなった13年後、「相模川の橋が壊れて住民が困っている」という苦情が幕府に届きます。事情を聴いてみると、橋供養の帰りに頼朝が落馬したので縁起が悪く、橋を放置していたようなのです。また、川沿いで落馬して溺れた、暗殺されたなど頼朝の死因には様々な説があります。

 

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源頼朝が落馬した場所はどこなのか?

 

頼朝は落馬したと言われる場所は「源頼朝公落馬の地」として「神奈川県藤沢市辻堂」に看板が建てられています。看板が建てられ、ちょっとした解説が書かれているだけで他には何もありませんが、一見の価値はありますね。ちなみにこの看板は「三浦藤沢信用金庫辻堂支店駐車場前」にあります。

 

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「橋供養」した場所は?

 

一方、頼朝が橋供養した「相模川橋」は現在は存在していませんが、「旧相模川橋脚」として史跡として残されています。ここはプールのようになっていて、そこから数本の木の柱が突き出しています。

 

これは大正12年の関東大震災の際に水田から橋抗(はしぐい)が発見されたそうで、のちの調査から「相模川橋」だったことが分かったそうです。住所は「神奈川県茅ケ崎市下町屋1丁目4-2」となっており、「ニトリ茅ケ崎店」の真向かいです。

 

 

 

日本史ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

源氏の棟梁が落馬してしまうとは意外ですね。現在では50代は若いですが、鎌倉時代は頼朝くらいの年齢になるとかなりいろんなところが弱ってきたのかもしれませんね。もしくは権力を握り、体の鍛錬を怠っていたのかもしれません。

 

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三国志とりかへばや物語

 

 

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日本史で好きなところは一つの「決断」が大きく世の中を変えてしまうことでしょうか。そんな中でも「決断」にミスをしても、その後復活したりする人物には尊敬をかんじますね。自分もミスしてもあきらめずに過ごしたいものです。
好きな歴史人物:長宗我部盛親、立花宗茂

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