日本古来の姓と言えば、源、平、藤、橘の四姓が有名です。その中でも幕府を開き武士の棟梁になった源氏は人気がある姓と言えますね。よく言われる源氏といえば清和源氏ですが、そもそも清和源氏はどうして、ここまでメジャーな存在になったのでしょうか?
この記事の目次
間違うなかれ!源氏は清和源氏だけじゃない
源氏と言えば清和源氏と書きましたが、少しでも源氏に詳しい人は、「源氏は清和源氏だけじゃないよ」とすぐに突っ込みを入れると思います。
全くその通りで、そもそも源という姓は歴代の天皇が増えすぎた子孫たちを臣下の地位に降下させる際に与えたメジャーな姓で、何も清和天皇の子孫だけに留まらないのです。
清和源氏を含めた源姓は源氏二十一流と呼ばれ、その名の通り21もの系統があります。著名な源姓には、嵯峨源氏、文徳源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、後白河源氏などがあります。では、その点を踏まえた上で清和源氏について解説しましょう。
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清和源氏は清和天皇の4人の親王と12人の王がルーツ
清和源氏は、清和天皇の皇子のうちの4人、天皇の孫にあたる王の中の12人が臣籍降下して名乗りました。天皇の血筋を引く者がわざわざ臣籍降下して皇族から抜けると聞くと不思議な感じですが、これには理由があります。当時の天皇や皇子、王はほぼ例外なく一夫多妻制であり、1人の天皇から孫の代には数百人の子孫が出来るのもザラでした。
そんな大勢の皇子や王を仕事もさせないで養っていては、皇室は破産してしまうので皇位継承者である皇太子を除いては出家させて仏門に入れたり、臣籍降下させて臣下とし適当な国の国守として派遣して、食い扶持は自分で稼がせたのです。
そんなわけで、清和天皇の系統からは、皇子4人、王12人が民間に下りていきましたが、清和天皇の第六皇子貞純親王と、その子の源経基の子孫が特に繁栄する事になります。
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平将門とトラブルを起こし出世する経基
清和源氏の繁栄の元になった源経基ですが、源氏の祖らしくバイオレンスな人なので紹介します。源経基は承平8年(938年)武蔵介として同じく赴任した興世王と現地に赴任し着任早々に検注を実施しようとします。検注とは、後の検地と似ていて支配地の石高を報告させて不正がないかをチェックする事でした。
これに対し足立郡司で判代官の武蔵武芝が「国司が赴任する以前には検注がおこなわれない慣例になっている」として検注を拒否。怒った経基と興世王は、兵を繰り出して武芝の屋敷を襲い略奪をしました。
これだけ見るとどっちもどっちですが、実は検注とは賄賂の意味であり、厳しく田畑を調べられたくないなら金品を寄こせという事でした。つまり武芝は「国司が赴任した後で検注に応じます=あんたらに賄賂は出さない」と断ったので経基は激怒したのです。
武蔵武芝は将門記によると、公明正大な名郡司であり、彼が統治する地域の領民はそれぞれ蓄えがあったそうなので経基が悪辣だったと考えて間違いなさそうです。襲撃された武芝は逃亡し、その噂を聞きつけた下総国の平将門が私兵を引き連れて武芝の下を訪れます。
形成不利になった経基は興世王と妻子を伴い武装して比企郡狭服山に立て籠もり将門に抵抗しました。しかし、興世王は先に山を下りて将門と和解、武蔵国府で将門、武芝と引見しますが経基は不服を申し出て山に留まります。
その後国府では双方の和解が成立し酒宴が開かれますが、その最中に武芝の兵士が勝手に経基の営所を包囲。経基は殺されると恐れて京都に逃亡し、将門、興世王、武芝が朝廷に謀反を企んでいると誣告します。
これに対し将門は承平9年(939年)5月2日付で常陸、下総、下野、武蔵、上野の5カ国の国府が書いた謀反の事実はないという証明書を太政大臣、藤原忠平に送付。経基は逆に讒言の罪で逮捕され左衛門府に拘禁されました。
これでキャリア終了かと思われた経基ですが、天慶2年(939年)11月に平将門が乱を起こすと以前の讒言が真実と見なされて晴れて無罪放免。そればかりか、将門の乱を未然に伝えたとして従五位下に叙せられる事になります。
その後、経基は平将門の乱鎮圧や、藤原純友の乱鎮圧に従軍し、特に大きな手柄はありませんでしたが、武蔵、信濃、筑前、但馬、伊予の国司を歴任、最終的には鎮守府将軍にまで登り詰めたそうです。
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藤原摂関家に取り入り屋敷を焼かれた源満仲
源満仲は経基の嫡男で、当初は都で活動する武官貴族でした。
父、経基が武芝の襲撃を恐れて都に逃げる有様だったのとは対照的に満仲は武芸に秀でていて、自分の屋敷を襲った強盗の一味を自ら捕らえるような剛の者ぶりを発揮しました。
ちなみにこの時の強盗には醍醐天皇の孫である親繁王や清和天皇の孫、源蕃基が含まれていて、いかに天皇の子孫でも臣籍降下すると生活が厳しい状況が垣間見られます。
このように武芸に秀でた満仲ですが、皮肉な事に彼を出世させたのは戦場での手柄ではなく摂関政治を完成させた安和の変での権謀術数でした。安和2年(969年)右大臣藤原師尹は、醍醐源氏で左大臣を務めていた源高明を排斥して、藤原氏で政権を独占しようと画策します。
そして、源高明が皇太子守平親王(後の円融天皇)の廃太子を計画していると満仲が密告したのを利用し、源高明を大宰員外帥に左遷。藤原以外の貴族を政権中枢から排除する事に成功、ここから藤原摂関政治が確立しました。
元々、満仲は源高明のグループで高明を裏切ったのですが褒美として藤原氏により従五位下に叙され貴族に列します。
以後、満仲は藤原摂関家の為に働き、摂津国、越後国、伊予国、越前国、陸奥国の受領を歴任し左馬権頭、治部大輔を経て父と同じく鎮守府将軍に昇進し受領を歴任した事で莫大な富を得ます。
しかし、悪辣な手段で成り上がった事で満仲は他の武士から嫉妬され天延元年(973年)には武装した集団が左京一条の満仲屋敷を襲撃して放火。周辺の邸宅300~500軒が燃える大火事に発展しました。
そういう事もあってか満仲は二度国司を務めた摂津国の多田盆地に入植して所領を開拓し、多くの郎党を養い武士団を形成して清和源氏支流、多田源氏を興しました。
満仲の子、頼光、頼信も摂関家に仕え繁栄
満仲の子である嫡男頼光や三男頼信も、父のように藤原摂関家に接近して繁栄します。源頼光は正暦元年(990年)関白、藤原兼家の葬儀に際しての藤原道長の振る舞いに感心して側近として仕えるようになったようです。
以後は道長の昇進に合わせて頼光も、美濃、但馬、伊予、摂津の受領を歴任し左馬権頭となって正四位下に昇進、後一条天皇の即位に際して昇殿を許されました。
受領を歴任して蓄えた財力で京都一条の屋敷を構え、度々道長に贈物をして尽くします。この時代は藤原道長の最盛期で頼光も武門の名将「朝家の守護」と称えられ清和源氏を隆盛に導く事になりました。
頼光の子孫は摂津国に土着し清和源氏の支流、摂津源氏と呼ばれます。
頼光の弟の頼信も頼光と同じく、最初は関白の藤原道兼、その死後は道長に仕えて諸国の受領や鎮守府将軍を歴任します。武勇に優れた事から平維衡、平致頼、藤原保昌と共に道長四天王と称されました。その後、頼信は河内国に土着し河内源氏の祖となりました。
上野介在任を切っ掛けに上野国、そして関東、東国に地盤を持つようになり、甲斐守在任時の長元4年(1031年)数年に及んだ平忠常の乱を鎮圧。この時、関東の武士をまとめて戦った事から、どこでも望みの受領にしてやると朝廷より恩賞を受けた時、東国である美濃守を選択します。
頼信の子である源頼義は、平忠常の乱鎮圧に失敗した桓武平氏嫡流の平直方から娘を娶り、桓武平氏の嫡流を受け継ぎ、関東を地盤に前九年の役、後三年の役で手柄を立て、八幡太郎義家、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光の3人の子はそれぞれ東国に地盤を築きました。
この源義家の系統からは、河内源氏の7代目、源頼朝が登場、祖先の義家や父の義朝が残した関東の桓武平氏の武士団をまとめて鎌倉幕府を開く事になります。また、満仲の子の頼親は、頼光や頼信ほどの活躍はありませんが、大和に勢力基盤を築いて大和源氏の開祖となりました。
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河内源氏が清和源氏のトップに躍り出る
河内源氏の祖、源満仲の子である頼光と頼信ですが、頼信が関東に出て行ったのは何も好き好んでではありませんでした。京都では兄の頼光が摂関家の藤原道長に張り付いて栄耀栄華に浴していて、自分が勢力を伸ばす道がないので関東へと目線を移したのです。
ところがこれが大当たりし、源義家は奥州安倍氏の騒乱を鎮圧するなど朝廷の意に沿う活躍をしていき、源頼光の摂津源氏よりも藤原摂関家の信任を受け、皮肉な事に河内源氏が清和源氏でトップに躍り出る事になりました。
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伊勢平氏の台頭で清和源氏は停滞
しかし、摂関家に近づく事で繁栄していた清和源氏は白河法皇が院政を敷いて藤原摂関家を排除するようになると没落します。白河法皇は摂関家に近い河内源氏を嫌い、自らの近臣である伊勢平氏を重用して勢力をつけさせ河内源氏に対抗させるようになりました。
おまけに河内源氏は源義家の嫡男の義親が朝廷に弓を引く不祥事を起こし、さらに義親を廃嫡して立てられた義忠が叔父の新羅三郎義光に殺害される内紛に巻き込まれます。
ようやく混乱を収拾したのは義忠の子とされる為義でしたが、こちらは素行が悪、白河法皇に近づこうとして失敗し、再び摂関家に接近するなど腰が定まらない状態でした。
為義の子、義朝は関東に下向して、かつて義家がまとめた坂東の平氏勢力と縁戚関係を強化、保元の乱では父為義や兄、為朝と袂を分かち後白河天皇の側について勝利。
一時、河内源氏の名声を回復させますが、同じく勝組についた平清盛との処遇があまりに違う事に不満を持ち、後白河法皇の寵臣藤原信頼と組んで平治の乱を起こし一時は勝利します。
しかし、その後、信頼の独裁に反対する二条天皇派が中立の平清盛を味方に引き込み、信頼が軟禁していた二条天皇を脱出させ清盛の屋敷に引き入れました。
天皇を失った信頼の勢力からは次々と兵力が離反していき、義朝は六波羅の戦いで官軍となった清盛の軍勢に敗れ逃亡する途中、味方に殺されました。こうして清和源氏は決定的な没落を経験します。
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以仁王の令旨で各地の源氏が挙兵
権力を握った平清盛は伊勢平氏とそれにゆかりの勢力に恩恵を与え、それ以外の勢力は無視したので次第に不満は高まります。そして治承4年(1180年)平家に皇位継承を邪魔された以仁王に摂津源氏の源頼政が協力して反平家で挙兵しますが失敗に終わりました。
しかし、挙兵は以仁王の令旨として源行家により全国の反平家勢力へ届けられ、河内源氏の源頼朝ばかりでなく、信濃の源義仲や甲斐源氏の武田信義、安田義定、近江源氏の山本義経や柏木義兼、下野源氏の足利義清、上野源氏の新田義重、多田源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長、大和源氏では源親治が各地で挙兵します。
ただ、これらの源氏は示し合わせて行動したのではなくで源氏同士で戦う事はあまりなかったものの、共同作戦までに踏みこむ事はありませんでした。
やがて、これらの勢力の中から、最初は信濃源氏の源義仲が京都の平家勢力を追い払い、次に鎌倉から頼朝の代官である源範頼と義経が義仲の勢力を宇治川の戦いで撃破して上洛。
以後は平家討伐に切り替えて、壇ノ浦で平家水軍を破って平家を滅亡させました。
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頼朝により他源氏の粛清が続く
この手柄から朝廷は清和源氏を武門の棟梁として認めます。しかし、頼朝は河内源氏以外の源氏を危険視して、常陸源氏や甲斐源氏、多田源氏、上野源氏のような勢力を滅亡に追い込んでいきました。
こうして、頼朝の統一に協力した源氏の一族だけが御門葉と呼ばれて源姓を名乗る事を許され、それ以下の御家人はたとえ源氏でも苗字しか名乗る事が出来なくなります。御門葉として存続したのは、甲斐源氏の安田氏、加賀美氏などの新羅三郎義光の系統、そして足利氏、山名氏などの源義国の系統になります。
こうまでして源氏の血を一本化した頼朝ですが、因果応報というか、三代将軍実朝が甥の公暁に暗殺されると北条氏は摂関家から将軍を迎える事にし、騒乱のタネになる義朝と頼朝の血筋を粛清するか仏門に入れるかしたので頼朝の嫡流は途絶えてしまいました。
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室町時代には下野源氏、足利氏が頂点に
河内源氏嫡流が途絶えた結果、鎌倉幕府における清和源氏は、源義家の子源義国の嫡男の子孫である新田義重の系統と次男の子孫である足利義康系統に二分されます。
鎌倉幕府で勢力を伸ばしたのが足利義康系統の源氏であり、その中から鎌倉時代末に足利尊氏が登場、新田義重の子孫である新田義貞と共に鎌倉幕府を倒した後に、両者が激突し足利尊氏が勝利しました。
尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開くと、孫の足利義満が清和源氏出身者として初の源氏長者になり、その後の将軍が源氏長者となる道を開きます。
尊氏の子孫は鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方、堺公方、阿波公方などに別れて全国に散らばっていきました。足利氏庶流でも「御一家」とされた吉良氏、渋川氏、石橋氏や「三管領」の斯波氏・細川氏、「四職」の一色氏、山名氏や土岐氏が中央で台頭していきました。
地方では九州探題や駿河・遠江守護を歴任した吉良家庶流の今川氏、斯波氏庶流奥州探題の大崎氏や羽州探題の最上氏が勢力を伸ばし清和源氏は復活していきます。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は清和源氏について解説してみました。紆余曲折があった清和源氏ですが途絶えそうになると名将を輩出し一門を復興させるなど、底力がある一族のようですね。
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