youtubeで話題沸騰!なぜかこれまで存在しなかったご当地戦国時代特集。今回は東北、山形県の戦国時代をメインに古代から廃藩置県頃までを解説します。
戦国大名伊達政宗や最上義光、上杉景勝が本拠地を置いた時期もある山形県の戦国時代。果たして、どんな様子だったのでしょうか?
※2分足らずで山形県の歴史がそこそこ分かる動画
この記事の目次
大型哺乳類を追ってハンターが山形圏域に住み着く
山形県域に人が住み始めたのは3万年前後期旧石器時代にさかのぼります。当時の日本列島は大陸と地続きで、大型哺乳類であるナウマンゾウやオオツノシカ。ヘラジカがいて、これらを狩るハンターが登場しました。
この時代の遺跡は、最上川や荒川、赤川の主要な河川からその支流の河岸段丘上に100カ所以上発見され、槍先に使う斜軸尖頭器や木の枝や骨に溝を付けて刃を埋め込んで使いやすくした石刃などの狩猟用道具が発見されています。
縄文時代の遺跡も多いですが、三崎山遺跡からは大陸との交易でもたらされたとみられる3000年前の青銅刀子が出土しています。これは日本国内の出土例としては最も古い部類に入ります。
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寒冷化の影響で弥生文化が後退し続縄文文化が繁栄
山形県域には日本海海運の発達により弥生文化の伝播も早かったのですが、気候の寒冷化で山形県域での稲作は振るわなくなり弥生後期になると、北海道領域から続縄文文化が県内を南下していきました。
この傾向は7世紀頃まで続き弥生文化が継続していく関東以南と東北との間に文化の違いを産んでいきます。
山形県の古墳時代の到来は日本海の海上交通が早くから開けていた影響で4世紀前半には前方後円墳である稲荷山古墳が造営されています。
当初、庄内地方は越後国の置賜、村山、最上地方は陸奥国の一部でした。しかし、越後国の要請で和銅元年(708年)に出羽郡が置かれました。当初、出羽は「いでは」と読み、出端の意味で越後から見て北端に出ていた事から命名されたと言われています。翌年には出羽柵が設置されました。
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大和朝廷の東北支配の拠点 出羽柵
出羽柵とは防御陣地であると共に行政府の役割も持っています。つまり、大和朝廷による東北地方の蝦夷征服活動の拠点でした。
大和朝廷は出羽柵の強化に力を入れ、和銅7年(714年)には尾張、上野、信濃、越後等から二百戸の住民を出羽柵に移動します。その後も716年には信濃、越前、越後から100戸。717年には信濃、上野、越前、越後から各100戸。719年には東海道、東山道、北陸道から200戸を出羽柵へ編入させ合計では1300戸にもなりました。
移住者は公民の身分で蝦夷地を教化し、出羽国の開発や開拓を担わせ同時に戦争では兵士として戦う事になります。蝦夷は続縄文文化の中で生活しており、弥生文化の基礎に建つ大和朝廷とは激しく対立。8世紀末の坂上田村麻呂の蝦夷討伐まで抗争が続いていく事になります。
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出羽郡の位置は?
出羽郡の範囲は最上より以南の庄内地方を指しているらしいですが、正確な位置については諸説あるようです。和銅5年(712年)に出羽国建国が上奏され、元明天皇に裁可、陸奥国から最上と置賜の2郡を分けて出羽郡が設置、庄内に国府が置かれました。
仁和2年(886年)最上郡が2郡に分割され、北が村山郡、南が最上郡となり出羽街道も整備されます。
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11世紀、炎立ちまくり
平安時代の山形県域には数多くの荘園が出現、その多くは藤原摂関家の支配下にありました。11世紀後半、豪族安倍氏と大和朝廷との間に抗争が起こり、前九年の役になりますが、この時、討伐軍の源頼義に在地豪族の清原氏が加担して安倍氏を滅ぼし出羽国の支配者になります。
次に清原氏の後継者争いでは、藤原清衡が河内源氏で陸奥守の源義家を味方にして後三年の役を戦い勝利。義家が朝廷に許しを得ずに後三年の役に介入した咎で奥州から勢力を後退させると、平泉を拠点に奥州藤原氏が成立。摂関家の荘園を奥州藤原氏が管理します。
しかし、奥州藤原氏も百年の栄華の末に源頼朝による奥州征伐であえなく滅亡しました。
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山形県域に関東御家人が続々入植
出羽には、奥州討伐の功績があった関東の御家人、武藤氏、大江氏、里見氏、大宝寺氏が地頭請けとして入り込んで勢力を拡大していきます。南北朝期には、陸奥国奥州探題、斯波氏が分家して山形に勢力を扶植し、最上郡の地名にちなんで最上氏を名乗ります。
伊達稙宗が東北ハプスブルグ王国を築く
室町時代初期には、陸奥国伊達郡にいた伊達氏が置賜地方に侵攻し長井氏を支配下に置きます。戦国時代に入ると、山形県域は最上郡に最上氏、置賜郡に伊達氏、庄内には大宝寺氏が割拠して抗争を繰り広げました。
その後、戦国のビッグダディこと伊達稙宗が勢力を伸ばし羽州探題の最上義定を長谷堂城の戦いで破り、妹を義定の正室に送り込むなどハプスブルグ外交を展開して東北に勢力を拡大します。
しかし、縁組につぐ縁組で、東北の有力大名を大半息子にした結果、実子である伊達晴宗との間で相続地を巡り激しい抗争が生じ天文の乱が勃発。陸奥と出羽の大名を巻き込んで泥仕合を演じた挙句に蘆名氏などが独立、最上氏も伊達氏の影響下から離脱しました。
伊達氏内部でも家臣団が二分し、中野氏が勢力を伸ばすなどして伊達氏の勢力は急速に衰退します。
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最上vs伊達の戦いは政宗の反則負け
戦国後期には、最上義光、伊達氏には伊達政宗の名将が登場し一大版図を築きますが、畿内の戦いを制して九州と四国を制圧した豊臣秀吉が小田原攻めにやってくると、秀吉の許可を得ない勢力抗争を全て禁止する惣無事令を敷きます。
しかし、まだ若い政宗は言う事を聞かずに反発し戦争を続け窮地に陥りました。なんとか秀吉に謝罪して許された伊達政宗ですが、内心では不満で奥州仕置に反感を持つ東北の大名を扇動し、葛西大一揆をけしかけるなどコソコソ反発。
今度も秀吉の不信を買い、大崎と葛西の旧領地に移転を命じられ、米沢や伊達郡、信夫郡を取り上げられ山形県域から宮城県域に去る事になりました。ちょい悪政宗は自分のせいで山形県域支配を断念する事になり政宗の反則負けで最上と伊達の勢力争いに終止符が打たれます。
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最上義光が慶長出羽合戦で上杉景勝を破る
かわりに広大な政宗の領地を支配したのは、蒲生氏郷の家老、蒲生郷安でした。しかし、まもなく病死し息子の蒲生秀行が継ぎますが90万石もの領地を運営するのは難しく、18万石に減封され代わりに五大老上杉景勝が支配者として入ります。上杉景勝は、最上義光の新たな競争相手になりました。
秀吉死後、関ケ原の戦いでは最上義光は伊達政宗共々、東軍の徳川家康に味方し、石田三成についた景勝と戦い慶長出羽合戦に勝利します。義光は上杉氏から奪った庄内地方などの領有を認められ、上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土と由利郡計57万石を領有し出羽の支配者となりました。
江戸時代には譜代大名と天領が置かれる
山形県のご当地英雄になった最上氏ですが江戸初期に後継者が絶え最上氏が改易されます。
その後、山形藩に譜代大名の鳥居忠政が入り、山形県は庄内藩に酒井忠勝、新庄藩に戸沢政盛、上山藩に松平重忠など譜代大名が多く入る事になりました。これら以外にも、上杉鷹山で有名な米沢藩、米沢新田藩、松山藩、天童藩、長瀞藩の各藩と、20万石に及ぶ幕府直轄地が置かれて幕府の資金源として機能します。
山形圏域は、河道整備や舟運の発達で最上川が主要な輸送ルートとなり、流域では商業が発展し上方の文化が流入しました。
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7県あった県が山形県に統合
戊辰戦争では、多くの譜代大名の藩がある関係で佐幕藩が多く出て薩長軍と交戦します。しかし、戦争は薩長軍の勝利に終わり米沢、上山、天童、鶴岡(庄内)・松山の各藩が減封されました。
その後、米沢新田藩が廃止され米沢藩へ編入、その他の鶴岡と松山藩は存続しますが鶴岡は大泉藩、松山藩は松嶺藩と改称されます。
紆余曲折を経て廃藩置県後、米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺県が設置され既存の山形県とともに7県が誕生しますが、多すぎるという事で最初に天童県が廃止され山形県に編入されました。
同年11月に、第1次府県統合で山形県(村山郡・最上郡)置賜県、酒田県(田川郡・飽海郡)の3県に統合。明治9年第2次府県統合で、山形、置賜、鶴岡の3県を統合し現在の山形県が誕生します。
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山形県民の特徴
山形県民は「日本一の貧乏藩」といわれた米沢藩の影響が強く上杉鷹山の藩政改革により「清貧の思想」が根付いたそうです。贅沢をせず、自分を抑えて皆の為に働きお金を貯めていく、その姿はまさに「おしん」であり、男女とも堅実に生きていく傾向が強く冗談や悪ふざけを嫌います。
当然、いい加減な怠け者や口先だけの嘘つきが大嫌いという事です。全国平均でも、労働時間、共働き率、納税率数値は軒並み高く、現状に不満を抱いたり、犯罪に走る人も極めて稀な働き者が山形県人と言えるでしょう。
あなたがいい加減な大ぼら吹きで、「あーあ、ビル・ゲイツの養子になれねえかな」と鼻をほじりながら日々考えている桁外れの怠け者なら、山形県民には近づかないほうが、お互いに賢明かも知れません。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は山形県の戦国時代を解説してみました。
奥州藤原氏や、伊達政宗、最上義光、蒲生氏郷や上杉景勝など、多くの著名な豪族や戦国大名が鎬を削った山形県。しかし、山形県民は真面目で倹約家で働き者が多く、ダイナミックな歴史に比較してギャップがあるのも魅力ですね。
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