北条泰時は鎌倉幕府3代執権であり、名君としても知られ貞永式目の制定など鎌倉幕府が全国統治する上で必要な措置を次々打ち出しました。
当然、父である北条義時の後継者として育てられたと思われがちな泰時ですが、実際にはそうではなかったってご存知ですか?
記事を引用する方へ:「ほのぼの日本史」はエンタメ要素を重視した娯楽読物であり、学術論文ではありません。記事内容の正確さについてほのぼの日本史はその一切を保障しません。ほのぼの日本史の記事を引用した結果、生じた損害等については、全て引用者の自己責任となります。
この記事の目次
北条義時の嫡男ではなかった泰時
そもそも泰時は義時の嫡男ではありませんでした。
義時の嫡男は正室である姫の前との間に生まれた北条朝時です。では、泰時は何なのか?というと泰時は庶長子という立場でした。
庶長子とは正室ではない女性との間に生まれた長男の事であり、家を嫡ぐとは限らないので、単に長子(長男)と表記されます。
泰時の生母は、一般に阿波局とされていますが、局とは御所に仕えていた女房の事で、氏素性はほとんど分かりません。おそらく大した家柄の女性ではなかったのでしょう。
泰時の母はどんな人?
-
八重姫と北条義時の結婚は脚色だらけ!でもその理由に思わず納得
続きを見る
母方の後ろ盾がない泰時には味方がいない
もうひとつ、泰時には執権に就任する上で致命的な弱点がありました。生母の家柄が低く、頼りに出来る味方勢力が存在しないのです。それは本来の嫡男である北条朝時も同じで、姫の前は有力御家人、比企朝宗の娘でしたが、比企氏が北条氏に謀略で滅ぼされたので後ろ盾を失っていたのです。
泰時にしても朝時にしても、いざという時に武力や資金面で援助してくれる母方の力がない事は、執権の地位を獲得するのに致命的なハンディとなりました。
朝時の母の実家比企氏とは?
-
比企能員とはどんな人?頼朝が北条氏の対抗馬に立てた忠臣【鎌倉殿の13人】
続きを見る
義時の後継者は北条政村だった
泰時も朝時も後継者ではないとすると義時の後継者は誰だったのでしょうか?
それは、義時が姫の前と離婚して後妻に迎えた伊賀の方が産んだ嫡男、北条政村でした。吾妻鏡には義時が政村を溺愛していたと書かれています。
伊賀の方の祖父は、13人の合議制にも選ばれた二階堂行政であり、父の伊賀朝光は頼朝の上洛にも付き従った有力な御家人でした。伊賀朝光が死去した時、義時は葬儀に参列し、朝光の息子達も外戚として引き立てを受けています。
この調子なので順調に行けば、政村が3代執権として義時の跡を継ぐ可能性は高かったのです。
北条政村とは?
-
北条義時は伊賀の方に毒殺?有力視される小四郎の死の真相に迫る【鎌倉殿の13人】
続きを見る
鎌倉にいなかった泰時
もうひとつ、泰時が義時の後継者候補から外れていた事を示唆する出来事があります。泰時は、承久の乱を鎮圧した後、六波羅探題として京都に常駐し鎌倉から離れていました。
義時が自分の後継者として泰時を考えているなら、不測の事態に備えて泰時を鎌倉に留めて置くでしょう。そうしなかったのは泰時に執権を継がせる気がないためで、そのまま六波羅に留めておいて、新しい執権、政村をバックアップさせようと考えたからではないでしょうか?
承久の乱の首謀者似顔絵オジサン後鳥羽上皇とは?
-
後鳥羽天皇とはどんな人?権力を取り戻す為、鎌倉幕府に挑んだ覇道の君
続きを見る
すべてを引っ繰り返した義時の急死
では、義時の後継者から遠かった泰時がどうして執権になったのでしょうか?
すべては義時が貞応3年(1224年)に急死した事が原因でした。毒殺も疑われる急死により、義時が考えていたであろう政村を後見しながら安定して執権職を引き継ぐ事は不可能になります。
また、後ろ盾があるとはいえ、政村は当時20歳の青年で、泰時や朝時のような武勲も政治的な実績もありませんでした。つまり、政村が執権に指名された時、御家人たちが大人しく従うかどうかは未知数だったのです。
こちらもCHECK
-
北条泰時とはどんな人?自分の事でケンカはやめて!でも公の事には厳しい鎌倉幕府3代執権
続きを見る
最後まで泰時を呼び戻さない義時
義時は危篤になっても、京都の泰時を呼び戻すような事はしないまま死去します。
とてもそれどころではない病状だったとも考えられますが、吾妻鏡を読む限りは、臨終間際の義時は固く印を結んでお経を唱えながら亡くなったとあり、意識がなかったどころかかなりハッキリしていたようです。
これは、カワウソの推測ですが、泰時を呼び戻すと、承久の乱鎮圧の英雄である泰時に御家人の支持が集まり、政村の執権就任が危うくなると考えたからかも知れません。義時の本命はあくまでも政村で泰時ではなかったとカワウソには思えます。
真っ黒執権オジサン北条義時とは?
-
北条義時とはどんな人?鎌倉幕府を全国区にした二代執権【鎌倉殿の13人】
続きを見る
北条政子&大江広元がキングメーカーに
しかし泰時は、父ではなく尼将軍北条政子により極秘に鎌倉へ呼び戻されました。泰時の出立も穏やかではなく、真夜中の午前二時に京都を出て鎌倉に入ると由比ヶ浜に一泊し、それから屋敷に帰っています。
政子が泰時を呼び戻したのは、ひとつには執権が政村になると、政治権力が北条氏から伊賀氏に移転してしまう事を恐れた事、もうひとつは若すぎる政村の器量を危ぶんだという事もあるでしょう。政子は幕府重鎮、大江広元と協議して泰時擁立の博打を打ちました。
泰時はこの時、41歳の壮年、すでに息子時氏も元服していて後継者の問題もなく、また泰時当人が承久の乱では鎌倉軍の主力を率いて京都に入洛した功労者で、御家人の人気を集めています。
不安を覚えた伊賀の方は、北条氏に次ぐ大御家人三浦義村を頼って軍事力の後ろ盾を得ようとしますが、政治キャリアでは数段上の政子は義村の屋敷に乗り込んで、北条氏につくのか伊賀氏につくのかを問い質し、恐れた義村は泰時側に寝返ってしまいます。
こうして、義時が生きていれば執権になる事はなかった泰時は、父の急死により鎌倉の権力の頂点に昇り詰めるのです。
権力オバサン北条政子とは?
-
北条政子とはどんな人?鎌倉幕府のゴッドマザーは嫉妬深い女だった?【鎌倉殿の13人】
続きを見る
泰時の執権就任が招いた北条氏の善政
北条義時の庶長子だった泰時が執権になった結果、幕府の政治にはどんな変化が起きたのでしょうか?
泰時は、嫡流でない事の負い目を終生持ち続け、本来、嫡流であった北条朝時や政村に気を使い、出来る限り引き立てるなどして一門に組み込もうとしています。これは義時の時代までの敵味方を峻別して、敵となれば武力で滅ぼすというやり方とは異なりました。
また、血筋の正統性を主張できない事は、泰時の子孫達を否応なく謙虚にします。絶えず世論に気を配り、善い政治をおこなう事、つまり御家人や庶民の支持を得る事だけが政権を維持するカギになったのです。
伝説ではありますが、泰時の孫である5代執権北条時頼や、玄孫の9代執権北条貞時に、身分を隠して諸国を廻った逸話が残るのも、泰時以後の北条氏が世論を気にした象徴でしょう。泰時の執権就任は、当時の人々にとっては善かったのです。
こちらもCHECK
-
「鎌倉殿の13人」は何でこんなに悲惨なの?その背後にある「族滅」という考え
続きを見る
日本史ライターkawausoの独り言
今回は歴史の意外な事実、北条泰時は義時の後継者ではなかった説を展開しました。
多分にカワウソの独自解釈が含まれていますので、もしですが、もしもレポートに引用するとか言う事であれば、是非、吾妻鏡や愚管抄、鎌倉時代研究者の方々の学術論文に当たって下さい。そのまま引用して先生に怒られても、ほのぼの日本史は一切関知しませんし、カワウソもしーらない!しーらない!
参考:東鑑 目録
1224年 (貞応3年、11月20日 改元 元仁元年 甲申)条
義時がストーカーした姫の前とはどんな人?
-
北条義時の正妻「姫の前」はどんな人?恋文を1年間既読無視した正室の妻
続きを見る