皆様は、北条政子の演説を知っておられるでしょうか。歴史の授業で習ったよ、という人は多いでしょうね。この「山よりも高く」という文字が含まれている北条政子の演説、これこそが東国の御家人たちの思いを一つにしたのだ……という話、というか乱ですが。この「山よりも高く……」の演説はどんな効果があったのか、その背景には何があったのか。
拙いながら、お話させて頂きたいと思います。
この記事の目次
安徳天皇の異母弟、後鳥羽天皇
まずは後鳥羽天皇についてちょっとおさらいしましょう。この後鳥羽天皇、あの「波の下の都」に行かれた、安徳天皇の異母弟に当たります。
彼は生まれてすぐ父親を失い、更には安徳天皇、守貞親王が連れ去られてしまいます。このため京の方の都には天皇が不在となってしまったため、新しく即位させられたのがまだ幼い後鳥羽天皇でした。当時、四歳だったと言います。
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三代目暗殺から始まる、承久の乱
さて、この後鳥羽天皇が起こした乱がかの有名な「承久の乱」です。この承久の乱、起こった時には既に源頼朝はおりません。
もっと言うならば、既に源頼朝の後を継いで二代目となった源頼家の時代でもなく、三代目将軍・源実朝……が、暗殺されてからのことです。この源実朝が暗殺されたことにより、朝廷と鎌倉、いえ、北条氏と天皇の戦いが始まるのでした。
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北条の実権握りを阻止したい後鳥羽天皇
当時、源実朝が三代目将軍となっていた頃は、鎌倉幕府と朝廷との関係はそこまで悪くはありませんでした。しかし前述したように、この源実朝が暗殺されたことで全てがひっくり返ってしまいます。
源実朝は源頼朝と北条政子の次男であり、これ以外に二人の間に男子はいませんでした。実質、三代で打ち切り状態です。このままでは鎌倉幕府は北条氏の思うがままにされてしまう……そう思って、後鳥羽天皇は動きます。
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承久の乱の原因は上皇の愛妾の願いを拒絶したから?
因みに、どこでどうこの幕府と朝廷の関係が決裂したかは色々な説があり、はっきりとはしておりません。
一説には北条政子たちは将軍として後鳥羽天皇の子供を迎え入れたいと申し入れるも、後鳥羽天皇が「それなら愛妾の所領の地頭が言うことを聞かないから免職にしてくれ」と要求。
それはできないと断ったことで関係が悪化した……という説もあります。まあどこかで決裂したということは、どこでも決裂する可能性がある状態だった、ということなのかもしれません。
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「鎌倉殿の御恩、山よりも高く」の演説が始まる!
そして起こるは承久の乱。後鳥羽天皇は執権、北条義時追討の院宣を出しました。これにより北条義時は朝敵となったのです。
北条に付くか、それとも朝廷か。揺れる鎌倉武士たちに北条政子の演説が始まります。それこそが「鎌倉殿から受けた御恩は、山よりも高く、海よりも深い」という演説です。これに感動し、涙し、一致団結した武士たちは見事、この乱に勝利することとなったのです。
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演説自体にはあまり効果がなかった
さあここで盛り上がりを無くしてしまうようですが、この北条政子の演説、特に武士たちに意味はなかった!?なんて言われてもいます。それも考えてみれば当然のこととも言えるでしょう。
第一にこの時代、その人物そのものが家を、そして一族を背負っている存在です。つまりどっちに付くかで判断を誤れば、その全てを巻き込んでしまう……だから一時の感情で判断はできない。なのでそもそもとして、演説があってもなくても武士たちは北条方に付く方が利があると、既に判断していた、というのは最もと言えるでしょう。
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上皇に叛く大義名分を鎌倉殿への忠義に見出す御家人
更に言ってしまうと、後鳥羽天皇に従うことでのメリットはほぼない状態です。むしろ今までの朝廷からの武士の扱いを見ていると、そこまで付き従っても……という意識もあったでしょう。でも天皇を簡単に敵に回せるかと言えばそうでもない、何か理由がいる。
そこで北条政子の演説「山よりも高く」の意味です。嘗ての主君、そこには「大義」があります。尼将軍の演説というアプローチ方法が、ここで効果を発揮したのです。そういう意味では北条政子の演説はなくてもそこまで変わることはないかもしれないが、なくてはならないものでもあったのだと思います。
人は動く時には、何かの理由が必要。そういう意味で、北条政子の演説は最高の舞台演出であった、と思うのです。
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鎌倉ひよこライター センのひとりごと
初めて目にして、更に勉強した時には「すごーい」と思ったものですが。そして色んな説を聞いて調べて、何だかちょっとがっかりしたことも覚えています。
でも今では、これこそが政治であり、人を動かすということでもあるのだろう、と再確認しています。そう考えると北条政子の演説はあの時代、あの瞬間に最も求められていたものであり、それを見逃さなかった……そう思うと、執政者の凄さを感じる筆者でした、ちゃぽーん。
参考:吾妻鏡
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