藤原伊周は、平安時代中期の高級貴族で、父で内大臣関白の地位にあった藤原道隆の時代には日本一の繁栄を謳歌していた一族でした。しかし、道隆は強引な政治が多く、宮廷に多くの敵を造り、それが原因で道隆没後、藤原伊周は急速に没落していく事になります。
この記事の目次
藤原伊周の生涯とその影響力
藤原伊周は、平安時代中期の高級貴族で、関白内大臣、藤原道隆の嫡男として誕生しました。父道隆の政治的な思惑により、伊周の出世は急速で21歳の若さで朝廷のナンバー3である内大臣に昇進しますが、この時に多くの年長貴族を追い越した事で激しい恨みを買う事になります。長徳元年(995年)危篤になった道隆は弱冠22歳の伊周に関白の地位を譲りたいと一条天皇に願い出ますが、天皇は若年を理由にこれを拒否し内覧(天皇への上奏文を確認するポスト)の地位のみに留めます。
道隆が没すると叔父の藤原道兼が関白に就任しますが僅か七日で病死します。こうして関白の地位は伊周と叔父の藤原道長の間で争われますが、一条天皇の生母、東三条院の庇護を受け、貴族の指示を取りまとめた道長は伊周を差し置いて内覧に就任。伊周は権力の座から滑り落ちました。その頃、伊周は愛人を花山法皇に奪われたと勘違いして、弟の隆家が法皇に矢を射かけ、従者を殺害させる長徳の変を引き起こし、九州へ左遷されました。
その後許されて京都に戻った伊周は、妹の定子が産んだ一条天皇の皇子、敦康親王のお陰で政治的な影響力を拡大させますが、道長の娘の彰子が一条天皇の皇子を産んだ事で最後の希望も潰え、1010年失意の中で37歳で病死しています。伊周は才能豊かな人物でしたが、心が幼く、人の気持がわからない人でもあり、その恵まれた地位を活かす事が出来なかったのです。
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藤原伊周の幼少期と家系
藤原伊周の幼少期については、生母の高階貴子との関係を抜きに語れません。高階貴子は、低い身分の貴族でしたが、その才能を藤原道隆に愛され藤原摂関家に正室として迎えられました。貴子は持てる素養を嫡男の伊周に注ぎ込んだので伊周は学者並みの漢学の才能があり、一条天皇の教師として講義を務めるレベルでした。加えて伊周は、当時の権力の頂点にいた藤原摂関家嫡流に産まれていたので文化人としても貴族としてもトップの地位にいました。
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藤原伊周の家系図
藤原伊周は内大臣関白を務めた藤原道隆の嫡男として誕生します。道隆の死後、伊周は自身の失敗や人望の無さから没落して失意の中で死去しますが、長女は、道長の次男である頼宗の正室として重んぜられ、右大臣藤原俊家・内大臣藤原能長を始めとして多くの人材を産みました。藤原頼宗の孫にあたる藤原全子は、藤原頼通の孫である藤原師通に嫁ぎ、嫡男藤原忠実を生みました。藤原忠実は藤原摂関家を中興した人物であり、伊周の血筋は女系を通じて藤原摂関家に継承された事になります。
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早期の出世と背景
藤原伊周の早期の出世の背景には、父、道隆の健康不安があったと考えられます。道隆は非常な大酒飲みであり、40を過ぎた頃には糖尿病を疑われる症状が出始めていました。そのため、自分が死去する前に伊周に政治的な経験を積ませようと異例の速さで出世させ、自分の地位に少しでも近づけようとしたのです。
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父・藤原道隆との関係
藤原伊周の父、道隆は伊周に過大な期待を掛けていたようです。そのため、前例がないような急速な出世をさせたのですが、道隆は人心を得る事が出来ず結果として伊周は、父の権力を鼻にかけた横暴な御曹司のイメージがついてしまいました。
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内大臣の官職と役割
藤原伊周が21歳で就任した内大臣は、地位こそ左大臣、右大臣に次ぐナンバー3ですが、元々、律令には存在しない令外官で待遇も左右大臣よりも劣るものでした。内大臣自体が後々に摂政関白に就任する若手、高級貴族が経験しておくべきポストの意味合いが強く、権力の基盤としての内大臣の地位は弱いものだったと言えるでしょう。伊周も内大臣で終わるつもりはなく、右大臣、左大臣を歴任して関白を目指したのですが、それは叶いませんでした。
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藤原道長との関係と対立
叔父である藤原道長との関係では、当初、伊周が遥かに優勢でした。当時、藤原摂関家の権力は、藤原兼家から嫡男の道隆に継承されていて、道隆の嫡男である伊周がこれを引き継ぐのが自然だったのです。一方で道長は兼家の五男であり、上の兄2人が死去しない限り、大臣ポストは望めない立場でした。しかし、道隆、そして次兄の道兼が相次いで急死した事で、道長の存在感は急速に上昇。若年の上に横暴な振る舞いが多い伊周に比較して、貴族の人望を集める事が出来たのです。こうして伊周と道長は対立しますが、伊周自体が長徳の変を引き起こした事や、一条天皇の生母、東三条院が道長の肩を持った事で伊周は権力の座から落ちていきました。
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長徳の変とその影響
長徳の変は、長徳二年(996年)に発生した事件で、当時出家して法皇となっていた花山院が、藤原為光の4女藤原儼子の屋敷に通っていた所、伊周が自分の愛人である三の君の元に通っていると勘違いした事から始まりました。伊周が弟の隆家に相談すると、激怒した隆家が花山法皇の服の袖に矢を射かけた上、従者を斬り殺してしまいました。当初、この事件は花山法皇が出家した身で愛人を持つ事を世間に知られる事を嫌がり、もみ消されそうになりますが、伊周の政敵であった道長が情報をキャッチし問題を大きくしました。すでにこれ以前に、内覧任命を巡って道長に敗れていた伊周は、長徳の変で完全に人望を失ったのです。
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本当は矢も愛人も出て来ない?
現在では、藤原伊周が自分の愛人を花山法皇に寝取られたと勘違いして起きたとされている長徳の変ですが、実際は藤原伊周と隆家の従者と花山法皇の従者の間での揉め事だけで、愛人を寝取られたうんぬんは、ただの噂話に過ぎないとする説もあります。
長徳の変が起きた前後については、それを詳細に記した資料は少なく、記した資料でも確認できるのは、伊周と隆家の従者と花山法皇の従者の間に揉め事があり、花山法皇の従者2名の首が斬られて持ち去られたというだけで愛人の話も出て来ず、また隆家が矢で花山法皇の服の袖を射たと具体的に書いた資料もないそうです。もし、これらの事実が本当には起きていないなら、花山法皇に矢を射かけた事が問題とされた長徳の変は、伊周と隆家を失脚させる悪質なでっち上げ事件なのかも知れません。
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相当性格が悪い花山院
また、花山院と藤原隆家との間には若い頃から確執があったようです。大鏡によると、花山院は血気盛んな隆家を挑発して、我が屋敷の門を牛車でくぐれるか?と言ったそうです。当時、貴人の家の門を牛車でくぐるのは大変無礼な事とされ、石を投げられたり袋叩きにされる事もありました。花山院もそのつもりで門前に多くの法師崩れを待機させ、もし隆家の牛車が突っ込んできたら半殺しにするように指示してあったのです。隆家は一度は花山院の屋敷の屋敷の門をくぐろうとしますが途中で断念しました。
それを見た花山院は勝ち誇り大笑いしていたようです。このような確執があった中関白家と花山院ですから、従者同士が遭遇すれば、乱闘騒ぎは起きても不思議はありませんでした。大河ドラマでは被害者扱いの花山院でしたが、実際には原因の半分以上は花山院にあるのかも知れません。
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藤原伊周の人柄と性格
藤原伊周は、文学的な素養に恵まれていましたが、苦労を知らずに昇進した影響で、気に入らない事があるとすぐに機嫌を悪くし周囲にあたりちらす幼児のような性格だったようです。一方で潔癖で厳しい性格でもあり内覧になると、宮廷の贅沢を厳しく取り締まったので急速に人望を失いました。
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イケメンとしての評価
幼児のように我儘な性格だった伊周ですが、容姿は優れていてイケメンだったと枕草子や栄花物語には書かれています。しかし、当時のイケメンというのは色が白く体が太っていて堂々として見える事だったので、現在のイケメンとはタイプが違う可能性があります。
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藤原伊周の家族
藤原伊周は、源重光の娘を正室とし長男の藤原道雅、長女の藤原頼宗室、二女の藤原周子、藤原顕長等に恵まれています。しかし、嫡男の道雅は中関白家が没落する中で性格も荒み、乱暴な事件を繰り返し荒三位と呼ばれるまでに恐れられました。もう1人の男子、顕長は嫡流ではないので地位も従五位上に過ぎませんが顕長の母が強盗に襲撃されて人質にされた時には、母の身代わりで人質となるなど親孝行な逸話があります。
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藤原伊周の晩年と死因
藤原伊周は長徳二年(996年)の長徳の変で没落しますが、妹である中宮定子が一条天皇との間に男子を産んだ事で将来の天皇の伯父となり、急速に地位が回復し、ついには宮廷において一定の発言権を得るまでになります。一方で勝者である道長は、一条天皇に嫁がせた彰子に男子が誕生せず、追い詰められていました。
この事から次第に伊周になびく貴族が増えていきますが、寛弘5年(1008年)9月に彰子が男子を産んだ事で全ては水の泡になりました。伊周の死は、それから2年後であり、大量の食事を摂り、水をがぶ飲みしながら、体はやせ細ったそうなので、父、道隆と同じく糖尿病で死んだ可能性が高いでしょう。
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枕草子との関わり
藤原伊周は、一条天皇の妃だった中宮定子の兄であり、その関係でよく後宮にも遊びにきていました。定子に仕えていた清少納言は、そんな伊周を見る機会が何度かありましたが、印象は色白で福々とした美男子という評価で統一されています。実際には没落が始まった中関白家には内紛も、醜い言い争いもあったかも知れませんが、清少納言はそのような場面は書かず、中宮定子との思い出を美しいまま物語に閉じ込めたのです。
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栄花物語での伊周の描写
栄花物語は平安中期に赤染衛門により書かれたと見られています。赤染衛門は女流歌人で、藤原道長の正室である源倫子の父、源雅信に仕え、その後は倫子の娘である中宮彰子に仕えていて、派閥でいえば伊周とは反対の道長派ですが、道隆や伊周のような中関白家の人々に同情的であり、長徳の変で没落していく伊周を光源氏になぞらえるような描写も見られます。同時代の小右記のような公卿の日記が伊周に批判的な事に比較するとかなり対照的です。
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和歌と漢詩の作品
藤原伊周は文学的な才能に恵まれ「本朝麗藻」「本朝文粋」「和漢朗詠集」に多くの秀逸な漢詩文を残し、「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集六首が採録されている勅撰歌人でした。歴史物語である大鏡は伊周の政治的な才能の無さが没落を招いたと指摘しつつも、その漢詩や和歌の才能が早くに失われた事は日本にとって惜しいとしています。
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ドラマや映画での描写
藤原伊周に焦点を当てた書籍としては、2017年に出されたミネルヴァ日本評伝選。藤原伊周・隆家―禍福は糾へる纏のごとしがあります。こちらは、藤原道隆から始まる中関白家の栄光と没落を描いていますが、伊周だけではなく刀伊の入寇を跳ね返して日本を女真族の侵略から救った弟、隆家についても描いています。ドラマとしては、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」において、藤原伊周は栄光と没落の様子が詳細に描かれています。
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まとめ
容姿端麗で文学的な素養に恵まれた藤原伊周ですが、名門生まれの為に昇進の苦労を知らず、人の心が分からず、自分を抑える事が出来ない我儘な性格に育ちました。そのために叔父の道長との権力闘争に敗れ、唯一の希望だった敦康親王の存在も、道長の娘の彰子に皇子が出来ると木っ端みじんに砕けてしまいました。父の道隆や母の高階貴子が、伊周を甘やかさず、もう少し厳しく育てていれば恵まれた地位を活かして宮廷を立ちまわり、無残な没落を経験する事はなかったかも知れません。
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