承久の乱で幕府軍を率いた総大将は北条泰時でした。
一方で後鳥羽上皇軍を率いたのが藤原秀康で、上皇の命令を受けて幕府軍19万人に戦いを挑む事になります。しかし、あまりの兵力差にワンサイドゲームとなり秀康も上皇に裏切られ謀反人として斬首される悲惨な運命を辿るのです。
この記事の目次
北面及び西面の武士として武勇の誉れ高い秀康
藤原秀康は藤原北家秀郷流藤原秀宗の長男で祖父は藤原秀忠とされています。しかし、父と祖父についての業績は全く分かっていません。尊卑分脈によると、秀康の父、藤原秀宗は和田義盛の弟の和田三郎宗実であり彼が藤原秀忠の外孫にあたるので嫡男に迎えて藤原姓を相続したとあります。もっとも年齢的に整合性が取れない部分があり、あくまで説としてとらえた方が無難です。
秀康は北面武士、西面武士として上皇に仕える畿内近国の武士の一族で後鳥羽上皇の信任が厚く、下野守、河内守、備前守、能登守、上総介など国司を歴任。富裕並びなき者と称えられたそうです。大河ドラマでも的を射抜くだけじゃなく、真っ二つに破壊する強力な弓の腕を披露していましたね。
こうしてみると無名人物の異例の出世という感じですが、元々上皇は律令が規定していない最高権力者であり、その信任する人物も家柄ではなく実力やお気に入りから選んでいたので、無名の秀康が昇進するのは特に珍しいという事ではありません。
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義時の一族、伊賀光季を討ち鎌倉幕府に名指しで非難される
後鳥羽上皇が北条義時討伐の計画を立てると、秀康も中心人物として参加し鎌倉の有力御家人三浦義村の弟で検非違使だった三浦胤義を説得し味方に引き込みました。承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は仏事守護を名目に諸国の兵1700余りを集めます。もちろんそれは表向きで事実は北条義時討伐の軍勢でした。
上皇は親幕府派の公家西園寺公経を幽閉、さらに上皇派につく事を拒んだ義時の妻、伊賀の方の縁者、伊賀光季に対し藤原秀康と大内惟信率いる800騎を向かわせ襲撃。伊賀光季を討ち死にさせました。
これにより藤原秀康の名前は幕府方にも轟き、有名な尼将軍政子の演説でも倒すべき敵として藤原秀康の名前が登場しています。ただし、秀康がカッコイイのは残念ながらこの時まででした。
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幕府軍19万人の前に慌てる上皇
こうして、京都から親幕府勢力を駆逐した後鳥羽上皇は、義時追討の院宣を全国の有力な御家人に出しました。上皇は自分の力を信じ切っていて院宣を出せば鎌倉は崩壊して、義時の首が自動的に届けられるだろうと確信していました。
ところが、事態はそうはなりません。
確かに鎌倉には動揺が走りましたが、尼将軍政子の演説で関東の御家人には、幕府に従い朝廷に弓を引く者が出てきていて、さらには大江広元や三善康信のような重臣が上皇軍を迎え撃つのではなく、こちらから打って出る事を提案したので、恩賞目当てで幕府に味方する御家人が増加、19万という大軍が僅かに22日の間に京都に迫る事態になりました。
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総大将藤原秀康は致命的失敗をする
19万の大軍が上洛を目指している事を知った後鳥羽上皇はビックリ仰天。朝廷もうろたえ、とりあえず藤原秀康を総大将にして1万7500騎を美濃国へ進ませ美濃と尾張の国境にある尾張川に布陣します。
しかし、個人としては強くても大軍を率いた経験がない秀康は少ない兵力を分散させる致命的な失敗をしていました。秀康に対し山田重忠という武将が「兵力を集中して尾張国衙を襲い、そこで幕府軍を迎え撃って破り、鎌倉に攻め上りましょう」と積極策を出しますが、秀康は弟、秀澄の意見を採用し受け入れませんでした。
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尾張川で支え切れず、最終防衛ラインまで退却
6月5日、ここに武田信光と小笠原長清が率いる東山道軍5万騎が襲い掛かり、大井戸渡に布陣する大内惟信と高桑大将軍という部将が率いる2千騎を撃破します。今になって兵力分散の愚を悟る藤原秀康ですが、ここでは支え切れないと早々に退却を決意、宇治・瀬田方面に退却しました。
ただ1人、山田重忠だけは「何もせずに突破させては武士の名折れ」と300騎で墨俣に踏み止まり、泰時、時房の率いる10万騎が尾張川を渡河して攻めかかった時に孤軍奮闘しますが、多勢に無勢でほとんど影響はなく重忠も退却します。
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宇治・瀬田で最期の奮戦をするが
藤原秀康が大敗した事で京都は大混乱します。後鳥羽上皇は比叡山に登って僧兵の協力を求めますが、それまで比叡山を抑制していた事が災いして比叡山は協力を拒否しました。
やむなく上皇は残る全兵力で宇治及び瀬田に布陣して最後の防衛ライン宇治川で幕府軍を防ぐことにします。こうして6月13日上皇軍と幕府軍は激突します。上皇軍は宇治川の橋を落として渡れなくし雨のように矢を降らして防戦。
幕府軍は、折からの豪雨による増水で宇治川を渡れず攻めあぐねますが、翌日には佐々木信綱を先頭として多勢にモノを言わせ多数の溺死者を出しながら宇治川を越えます。藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は敗走し6月14日夜、幕府軍は京へ雪崩れ込み、町に比を放ち略奪と暴行を働きました。
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日和った後鳥羽上皇に見捨てられる
「承久記」によると敗走した総大将藤原秀康と三浦胤義、山田重忠は京で最後の一戦をしようと御所に願い出るも、心変わりした上皇は門を固く閉じ彼らを追い返しました。上皇の風見鶏に憤った山田重忠は「臆病者のお上に騙されたわ!」と門を叩き悔しがったそうです。
後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送って、反乱は藤原秀康のような謀臣が勝手にやった事でわしは知らんと言い抜け、義時追討の院宣を取り消し、逆に秀康と胤義、重忠追討の院宣を出しました。
上皇に見捨てられた哀れな藤原秀康、三浦胤義、山田重忠等、上皇派武士はそれでも東寺に籠城して最期まで抵抗しますが、三浦義村の軍勢に攻められて東寺は落ち、藤原秀康、山田重忠は敗走、義村の弟の三浦胤義は心変わりした兄を詰って奮戦し自害します。
藤原秀康は河内国まで逃げた所で幕府軍に捕まり斬首されました。
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日本史ライターkawausoの独り言
藤原秀康は無能ではなかったとは思いますが、それまで大軍を率いて戦ったノウハウがないのに、19万人という日本史上でも稀な大軍と対峙したのが不運でした。それもこれも後鳥羽上皇が院宣さえ出せば、義時は自滅すると信じ込んだせいではありますが、秀康もそれを諫めるなり、なんなりした様子がないという事は義時を過小評価していたのかも知れません。
秀康は敵も己も知らないまま、総大将となり身を滅ぼしてしまったのです。
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