上総広常は石橋山の戦いで敗れ房総で再起を図った源頼朝の前に2万騎という大軍で出現し、頼朝が南関東を平定し鎌倉に拠点を定めるのに多大な功績がありました。
しかし、そんな広常もやはりワガママな関東武士であり、頼朝の方針に平気で異を唱えて振り回し、ついには誅殺という憂き目を見る事になります。今回は平安末期のちょい悪武士、上総広常を解説しましょう。
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両総の事実上の支配者として登場
上総広常の上総氏は上総介、上総権介として、代々が上総と下総の二カ国に大きな勢力を持っていました。ちなみに上総と下野は親王任国で親王は国守となっても遙任で京都から出向かないので両総では介が事実上の最高ポストで上総氏が国府の長官でした。
さて、上総広常は鎌倉を本拠地とする源義朝の郎党として保元元年(1156年)の保元の乱では義朝に従い、平治の乱では義朝の長男である源義平に従い活躍します。しかし平治の乱で源義朝は大敗、平家の探索をかいくぐり戦線を離脱し領地に戻りました。
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平家の圧迫に苦しむ
義朝が死んで河内源氏が衰退し平清盛の伊勢平氏が勢力を伸ばすと平家に従いますが、父の常澄が死去すると嫡男の広常と庶兄の常景や常茂の間で上総氏の家督を巡る内紛が起こります。
治承3年(1179年)11月に平家の有力家人伊藤忠清が上総介に任ぜられると広常は国務を巡り忠清と対立、激怒した平清盛に勘当されます。
「あれ?広常と清盛って親子関係なの?」と思い調べてみると、広常は大納言平時忠の子で上総国に流罪になった平時家を娘婿として迎えていました。
平時忠は清盛の後妻、平時子の弟ですから、時忠の子、時家は、清盛の甥にあたり、その甥の父、上総広常は清盛の義叔父にあたっています。だから清盛は広常を勘当する事が出来たんですね。地味に平家一門になっている広常、食えない人物のようです。
広常の困難は伊藤忠清ばかりではなく、平家姻戚、藤原親政が上総国に勢力を伸ばそうとするなど、平家とはトラブルを抱えていました。
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頼朝の再挙兵に呼応し配下になる
治承4年(1180年)伊豆の流人だった源頼朝は8月に打倒平家の兵を挙げ、伊豆の国衙を陥落させました。
しかし、直後の9月、味方の三浦一族と合流しようとして酒匂川に向かう途中、石橋山で平家家人、大庭景親や伊東祐親の軍に大敗します。
窮地の頼朝ですが、敵方の梶原景時や飯田家義のお陰で包囲をかいくぐり、船を仕立てて房総半島に渡りました。
これに呼応して広常は上総国内の平家を掃討、又従兄弟の千葉常胤と共に2万騎の大軍を率いて頼朝の下に参陣します。
吾妻鏡では広常が二心を持ち頼朝の器量が悪いなら首を獲り、娘婿の時家を擁立して平家につこうと考えていたものの、頼朝の力量が想像以上で感服して配下になったと書いています。
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富士川の戦いの後、上洛しようとする頼朝を制止
頼朝は南関東の豪族を従え、富士川の戦いで甲斐源氏の武田信義と連携、平家追討軍の総大将、平維盛を敗走させた後、京都へ上洛しようとします。
しかし、上総広常は猛反対し、常陸源氏の佐竹氏討伐が先だと息巻きました。佐竹氏は平家に接近しており、排除しないと安心して上洛出来ないと考える関東武士団も多く、頼朝は方針転換して上洛を延期し金砂城に佐竹秀義を攻めて敗走させます。
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横暴だった広常
吾妻鏡によると上総広常は頼朝の部下でも飛びぬけて大きな兵力を持ち、無礼な態度が多く、頼朝にも臣下の礼を示さずに対等に口をきいたり、他の武士にも横柄な態度で接し、頼朝が下賜した水干を巡り岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうになるなど和を乱す事が多かったようです。
ただ、吾妻鏡は鎌倉時代後期の編纂で、広常が頼朝に誅殺された後の編纂なので頼朝を正当化しようと事実を盛っている可能性はあります。
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梶原景時に殺害される
寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時と天野遠景に命じ、景時と双六に興じていた最中、景時が双六盤を乗り越え、広常の首を斬り裂いて誅殺しました。広常の嫡男能常は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏に分配されます。
この後、広常の鎧から願文が見つかりますが、そこには謀反を疑わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文章だったので、頼朝は広常殺害を後悔、即座に広常の又従兄弟、千葉常胤預かりの一族を赦免しますが、広常死後は千葉氏が房総平氏の当主を継承しました。
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上総広常、誅殺の理由は?
上総広常誅殺の理由は、態度がどうのこうのと言うよりも、広常が関東独立を主張して、頼朝の上洛に不信感を持っていたからであるようです。
同時代の天台宗の僧侶、慈円の書いた愚管抄によると、頼朝が後白河法皇と初めて対面した際に、上総広常を殺した理由として、「広常は、関東が独立して活動するのをどうして朝廷に止める権利があるのかと嘯き、朝廷に未練たらしく気を遣わず関東で独立すればよいと度々、吹聴していたので誅殺した」と語ったそうです。
また、別の説では、広常は以仁王の遺児である北陸宮が東国に逃れた時に、北陸宮を擁立して上洛しようとする意図があり、決して反朝廷ではないものの、後に北陸宮を擁立して上洛した源義仲に広常が接近する事を恐れた頼朝が誅殺に及んだとの見方もあります。
いずれにせよ、広常は鎌倉政権で強大な勢力があり、御家人にも影響力が強く、頼朝は自分とは政治方針の違う広常を放置できなかったというのは真実なのでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
鎌倉殿の13人では佐藤浩市が演じる上総広常について解説しました。
広常は、人間としては度胸と包容力と時勢を見抜く目があり、いざという時に頼れる存在ながら、同時に野心からくる山っ気があり、何食わぬ顔で主を両天秤にかけるなど、頼朝が心休まらない部下として、上総広常は佐藤浩市が演じるのにピッタリだと思います。
あの時折見せる悪い顔で視聴者を楽しませてくれる事でしょう。
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