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三浦義村とはどんな人?北条を奇抜な行動で振り回した坂東の策士【鎌倉殿の13人】

12/02/2022


京都御所

 

本日の一言「ちょっと何考えてんのか、よくわかんない」

 

三浦義村 鎌倉

 

三浦義村(みうらのよしむら)はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公北条義時(ほうじょうのよしとき)の親友です。

 

何を考えているのかわからない 智謀の士・三浦義村

 

ドラマでは山本耕史(やまもとこうじ)さんが演じますが、その能力は義時と対等で父親の三浦義澄(みうらのよしずみ)も頼りにしているという智謀の士です。しかし、この義村、義時の味方なんだか敵なんだかよく分からない動きをし、同時代の人々にも「ちょっと何考えてんのか、よくわからない」理解不能な人物として有名でした。

 

多くのライバルを陰謀で葬った三浦義村

 

今回は三浦氏を執権北条氏に次ぐナンバー2に押し上げた、よくわかんない人。三浦義村を解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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相模国の豪族、三浦義澄の子として誕生

 

三浦義村は相模国の武将で桓武平氏、平良文(たいらのよしふみ)の流れを汲む三浦氏の当主、三浦義澄の次男です。

 

鎌倉を拠点にした源頼朝

 

義村が初めて史料に登場するのは、頼朝が困難を乗り越えて鎌倉に拠点を築いた後の寿永(じゅえい)元年(1182年)8月11日、北条政子の安産祈願のために伊豆と箱根の権現(ごんげん)や周辺の寺院に派遣された使者の中に三浦平六(みうらのへいろく)と見えるのが最初だそうです。

 

どうして登場が遅いのかというと、義村はかなり若く石橋山の戦いでは従軍を許されず、初陣は元暦(げんれき)元年(1184年)8月源範頼を総大将とする平家追討軍に父の義澄と従軍したのが最初です。

 

源平盛衰記 書類

 

源平盛衰記(げんぺいせいすいき)によれば、平家追討軍の参加資格は17歳からで、義村は、この年にようやく17歳に到達したと考えられます。

 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

平家追討では特に目立った功績はありませんが、父の義澄は13人の合議制に選ばれる有力御家人であり、それを引き継ぐ形で建久元年(1190年)頼朝上洛に父と共に参列し、右兵衛尉(うひょうえののじょう)に任官しました。

 

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源頼家の懐刀 梶原景時を追放

軍議(日本史)モブb

 

三浦義村の活躍は義時と同じで頼朝が死んだ後に始まる御家人同士の権力争いから始まります。

 

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

頼朝の死後、二代将軍として頼朝の子の頼家(よりいえ)が就任し、石橋山の戦いで頼朝の命を救って以来、鎌倉の一の家来として重用された梶原景時(かじわらのかげとき)が頼家を補佐し、御家人の勢力を削ごうと頼朝以来の有力御家人に難癖をつけていきます。

 

頼朝が死んで間もない頃、重臣の結城朝光(ゆうきのともみつ)が「今の将軍は力不足で世が安定しないなぁ…こんな事なら頼朝公が死んだ時に隠居すればよかった」と愚痴をこぼしました。

 

これを聞きつけた景時は「頼家公の悪口を言っている!処罰すべき」と朝光排斥を準備します。これを北条義時の妹、阿波局(あわのつぼね)から聞いた朝光は驚き、義村に「どうしたらよろしかろう」と相談します。

 

多くのライバルを陰謀で葬った三浦義村

 

義村「私に任せて下さい、これを機にうっとうしい景時を追放しましょう」

 

和田義盛 鎌倉殿の13人 武士

 

義村はすぐ和田義盛(わだのよしもり)安達盛長(あだちのもりなが)に相談し、有力御家人66人の署名を集めて景時の横暴を非難し追放を望む糾弾状(きゅだんじょう)を作成。頼家側近の大江広元(おおえのひろもと)に提出し頼家に見せるように要請しました。

 

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

広元は景時の有能さを惜しみ糾弾状を握りつぶそうとしますが、軍事力を握る和田義盛が「おい!さっさと将軍様に見せないとドカンだぜ」と御家人が爆発寸前だと脅しを掛けます。

 

鎌倉で内乱が起きる事に恐怖した広元は、頼家に糾弾状を見せ、頼家も御家人の暴発を恐れて景時を追放します。その後、景時は京に上洛して上皇に仕えようと一族を引き連れて相模国を出た後、駿河国清見関(するがのくに・きよみぜき)で地元武士と小競り合いを起こし一族が全て討ち死にしました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

畠山重忠の乱を利用し一族の恨みを雪ぐ

 

義村は元久2年(1205年)の畠山重忠の乱でも重要な役割を果たします。

 

北条時政の後妻(ごさい)(まき)の方の娘婿(むすめむこ)平賀朝雅(ひらがのともまさ)より畠山重忠(はたけやまのしげただ)重保父子(しげやす・ふし)が鎌倉幕府に謀反を企ていると讒言(ざんげん)があり時政は2人の処分を決断。この時、義村の命令で京都から重忠の従兄(いとこ)稲毛重成(いなげしげなり)に招かれ鎌倉にいた重保を由比ヶ浜で斬り殺したのが佐久間太郎(さくまのたろう)です。

 

大活躍する三浦義村

 

さらに義村は偽の命令で武蔵から鎌倉に向かう重忠の百数十騎を討つ討伐軍に参加し、二俣川で重忠を討死(うちじに)させました。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

しかし、ここから事態は急転直下、重忠討伐の翌日夕刻、義村は「畠山重忠と重保の謀反はぬれ衣だ」として稲毛重成父子と討伐軍に加わった榛谷重朝父子を讒言の首謀者として誅殺したのです。

 

三浦義村はかつて、一族の居城衣笠城(きぬがさじょう)を畠山一族に攻め滅ぼされ長老三浦義明(みうらよしあき)を重忠に討たれた遺恨があり、その意趣返しとも言われます。

 

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親戚の和田義盛の謀反を義時に密告

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

建暦(けんりゃく)3年(1213年)2月北条義時を排除しようと企む泉親衡(いずみのちかひら)の謀反が発覚。

 

謀反の関係者として義村の従兄弟で侍所別当(さむらいどころべっとう)和田義盛(わだのよしもり)の子、義直(よしなお)義重(よししげ)。甥の胤長(たねなが)が捕縛されました。義盛は和田一族、三浦一族と共同で赦免を嘆願し義直と義重は釈放されますが、胤長だけは首謀者格として許されず流罪となり胤長の屋敷は没収されます。

 

このため北条義時と和田義盛の関係は悪化、義盛は親族の三浦一族にも声をかけて多数の味方を得て打倒北条の軍を挙げました。

 

三浦義村から策が欲しくて仕方ない北条義時

 

しかし義村は土壇場で義盛を裏切り、義時に謀反を密告、鎌倉御所の護衛につきます。結果は将軍実朝を握っていた義時の勝利となり和田氏は滅亡しました。ここで義村は直前まで義盛に同調するふりをして土壇場で裏切り、北条氏についた事になります。

 

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WEB版 はじめての三国志

 

 

公暁を唆し実朝暗殺と義時暗殺を狙う?

鎌倉殿13人 北条義時

 

建保7年(1219年)1月27日3代将軍実朝が二代将軍頼家の子の公暁(こうぎょう)に暗殺されます。公卿は義村に対し「我こそは東国の大将軍である、その準備をせよ」と書状を出し、義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽り追手を差し向けます。

 

日本の戦国時代の弓兵(兵士)

 

待ちきれなくなった公暁が義村屋敷に行こうと裏山を登ると、そこで追手に遭遇、公暁は必死に戦って振り払い義村屋敷の塀を乗り越えようとした所で殺害されます。

 

公暁の乳母は義村の妻で子の駒若丸(こまわかまる)は公暁の門弟であるなど義村と公暁の縁が深い点から、義時が将軍実朝を殺すと共に太刀持ちとして参加する予定だった義時も葬ろうとしていたのではという説もあります。真相は闇の中ですが義村は公暁討伐の手柄で駿河守に任官しました。これまでの経緯を考えると義村が公暁と何らかの関係があるような気がします。

 

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ながら日本史

 

 

承久の乱で活躍するが…

朝廷(天皇)

 

承久3年(1221年)承久の乱では検非違使として在京していた弟の胤義(たねよし)から上皇方について決起せよと書状を受け取ります。義村は使者を追い返し義時に「弟が上皇様を担いで鎌倉を滅ぼそうとしています」と通告。

 

義時が京都へ向けて出撃を決めると、義村は東海道方面の総大将、北条泰時とともに大将軍の1人として東海道を上り6月15日には東寺で弟の胤義と相対します。

 

 

しかし承久記、慈光寺(じこうじぼん)本では、この時胤義が「思い返すも本当に悔しい事だ。もう果てようとも思うたが、兄上が来たと聞いてこれからでも上皇様に会わせたいがどうか?」と義村を説得。

 

義村は「アタオカと話をしても意味がない」としてその場を立ち去ったそうです。

 

胤義は上皇に「兄上はイケイケドンドンだから鎌倉討伐の総大将に任じてくれればすぐにこちら側につきます」と楽観論を述べていたとされ、義村も直前までは上皇方について参戦する気だったのではないかと考えられています。

 

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前代未聞の皇室への処分を断行

藤原京(地図)

 

戦後処理でも、義村は活躍し後鳥羽(ごとば)土御門(つちみかど)順徳(じゅんとく)の三人の上皇を流罪とし、さらに後鳥羽上皇に連なる子孫をすべて流罪、出家、臣籍降下(しんせきこうか)させて、後鳥羽法皇の血筋に連なる人間の皇位継承を認めない方針を取りました。

 

その結果、皇位継承者が茂仁王(ゆたひとおう)しかいなくなったので、幕府は茂仁王の父で高倉天皇の第二皇子の行助入道親王(ぎょうじょにゅうどうしんのう)を天皇即位を経ずに治天(ちてん)(きみ)として院政を敷かせ茂仁王を後堀河天皇(ご・ほりかわてんのう)として擁立しました。

 

天皇の臣下である武士が、ここまで滅茶苦茶に皇室の人事をいじった事は、それ以前もその後もありません。義村は非常な政治力でこれを成し遂げます。

 

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義時死後、伊賀氏の乱に加担

三国志のモブ 反乱

 

元仁(げんにん)元年(1224年)北条義時が病死します。この時、後妻の伊賀(いが)の方が自分の子である北条政村(ほうじょうのまさむら)を執権に娘婿の一条実雅(いちじょうのさねまさ)を将軍に立てようとした伊賀氏の変が起こります。

 

おんな城主 直虎

 

政村の烏帽子親(えぼしおや)だった義村はこの陰謀に関与しますが、北条政子が単身で義村屋敷に問い質しに訪れた事で翻意、釈明して二心がない事を確認。結局事件は伊賀の方の一族を追放するだけで収拾しました。

 

しかし、実際には伊賀氏の変は存在せず、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力低下を恐れた政子の伊賀氏に対するでっちあげ事件とも言われています。

 

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最後まで生き残り71歳で死去

鎌倉仏像(仏教)

 

嘉禄(かろく)元年(1225年)夏、幕府の重鎮、大江広元と北条政子が相次いで死去。

 

同年12月には執権、北条泰時により13人の合議制に代わり合議制の政治をおこなう評定衆が組織され、義村は宿老として就任します。政敵や一族を葬り、ライバルである義時や政子が死んだ事で義村の率いる三浦氏の地位は北条氏のナンバー2となりました。

 

しかし、その後、義村は摂家将軍(せっけしょうぐん)である藤原頼経(ふじわらのよりつね)に接近、その関係は子の泰村に引き継がれ、後に三浦氏没落の遠因になります。

 

脳卒中で急死した71歳の三浦義村

 

延応元年(1239年)12月5日、義村は71歳の長寿で大往生します。死因は頓死(とんし)大中風(だいちゅうぶ)とされています。これは脳卒中などの血管の障害で急死した事を意味しています。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

多くのライバルを陰謀で葬り天寿を全うした義村の家督は息子の泰村に継がれます。

 

泰村の烏帽子親は北条泰時であり、また泰時の娘を正室に迎えて北条得宗家と関係を強めていきますが、摂家将軍である藤原頼経に接近していく過程で権勢が北条氏を上回り、執権北条時頼と側近の安達景盛に危険視されました。

 

こうして、宝治(ほうじ)元年(1247年)鎌倉で挙兵した三浦泰村は北条時頼と安達景盛に破れ、一族は滅亡しました。義村死後8年で北条氏をしのぐとされた三浦氏は滅亡し、北条得宗家は揺るぎない地位を築くのです。

 

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