天下人徳川家康は、74年の長い生涯で幾度も窮地に立たされています。その中でも最大の窮地が三方ヶ原の戦いにおける惨敗で、途中で信玄が病死しなければ徳川そのものが滅亡するかも知れないレベルでした。しかし、意外にも三方ヶ原以前、家康は信玄に対して優位にたっていました。それがどうして一転して窮地に転じたのでしょうか?
この記事の目次
三国同盟の崩壊
西暦1554年、今川義元、武田信玄、北条氏康との間で甲相駿三国同盟が締結されます。これを受けて、武田信玄は越後の上杉謙信と信濃領有を巡り川中島の戦いを繰り広げました。しかし桶狭間の戦いで義元が敗死すると遠江と三河に激震が走ります。
1563年には、遠江国で国衆の反乱が発生、今川領国は弱体化し、三河では徳川家康が独立して織田信長と清須同盟を結びます。謙信との戦いに疲れていた信玄は、駿河に侵略の矛先を向け織田信長と甲尾同盟を締結すると同時に義元の娘の嶺松院を駿府へ送り返し、着々と駿府侵攻の準備をします。
今川氏真も武田の変化を受けて、信玄の仇敵である上杉謙信との盟約を模索します。信玄は、駿河侵攻直前、武田と徳川間の同盟を成立させ、遠江を徳川、駿河を武田と大雑把な領土分割を提案したとする逸話があります。
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武田信玄駿府に侵攻
武田信玄は駿河の国衆に対して買収工作を進めつつ、永禄11年12月6日侵攻を開始。駿河国富士郡の大宮城を武田軍別働隊が攻撃しますが攻略は失敗します。地味ですが、ここを奪えなかった事が後々まで信玄を苦しめる事になります。
信玄は、進路を西に向け交通の要衝である内房を経て駿府方面へ進撃。今川氏真は薩埵山で迎撃しようとしますが、瀬名信輝、朝比奈信置、葛山氏元ら重臣が内通していたため戦うどころではなく、12月13日に武田軍は駿府に入城し蹂躙します。今川氏真は掛川城の朝比奈泰朝を頼って敗走、ここまで信玄の采配は完璧でした。そうここまでは…
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北条氏康が激オコぷんぷん丸
相模の北条氏康は、今川氏真に娘の早川殿を与えていました。そんな氏康に対し信玄は、「今川氏と上杉氏が武田を挟撃しようと画策したので攻めた」と駿河侵攻が防衛目的だったと釈明します。しかし氏康は、娘の早川殿が輿を用意する時間も与えられず、裸足で逃げ帰らされた屈辱に激怒、武田氏との断交を決定します。
今川氏真の援軍要請を受けて、北条氏当主、北条氏政が駿河に援軍に向かい、12月12日 には伊豆三島に陣を張ります。この翌日に氏真は掛川城へと敗走しますが、同日北条氏は薩埵山に先鋒隊を派遣し、北条氏信が薩埵山近郊の蒲原城に城主として入城。結果、興津川以東を早期に北条方が押さえる事が出来ました。ここから武田信玄の計画は大きく狂っていく事になります。
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家康も掛川城で大苦戦
同時期に、徳川家康も信玄と歩調を合わせて三河から遠江に侵攻を開始。徳川軍は遠江に入ると交渉と調略で二俣城と引間城を手に入れます。この引間城接収の際にお田鶴の方が身を挺して抵抗したという話は大河ドラマでも描かれました。
勢いに乗った家康は掛川に侵入しますが、掛川城は、朝比奈泰朝が堅く守り、今川氏真の軍も合流していました。ここに北条氏の援軍も到着し、かなりの兵力になっていたようです。また遠江は、堀江城、宇津山城、堀川城が健在で家康も短期決戦を諦め、掛川城周辺に多くの付城を普請し持久戦を開始します。
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駿府を奪われ北条氏と膠着状態となる信玄
明けて永禄12年1月26日、薩埵山にて北条氏政本隊と武田軍が対陣します。また武田が北条方に釘付けになっている隙に今川方の土豪が一揆を起こし、奪われた駿府を奪い返す快挙を成し遂げました。
同年2月、信玄は穴山信君に命じ葛山氏元と共に再び大宮城を攻めさせますが、やはり落ちませんでした。同月26日には、薩埵山と興津一帯で武田と北条が交戦します。翌月になっても、武田軍と北条軍は交戦を重ねるも勝敗はつきません。徳川家康も掛川攻めが何度も撃退され、信玄との共同作戦を放り出し、今川氏真に対し和睦を提案する有様でした。
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退路を断たれ、信玄が信長に泣きつく
信玄には、退却しようにもできない事情がありました。富士上方には、甲斐と駿河を結ぶ街道があるのですが、ここを今川方の富士氏や井出氏が守り、大宮城が位置する富士大宮に近い街道も今川方が押さえ、武田軍は退路を断たれていたのです。この状況で氏真が結んでいた上杉謙信が信濃を狙って南下の構えを見せ始めます。これで謙信が降りてきたら武田は滅亡間違いなしでした。
信玄は3月23日に京都の信長に使者を送り、武田と上杉の和睦命令を将軍足利義昭に出してもらうよう願い、また今川と徳川の和睦の仲介をやめてもらうように釘を刺しています。そして、これらの願いが通らないなら信玄は滅亡間違いなしと泣きつきました。一方、徳川家康は、この間も掛川城を粘り強く攻め、宇津山城、堀川城、堀江城が開城し、ほぼ遠江を制圧しました。
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駿河攻略を断念し甲斐に戻る信玄
信玄は関東諸侯に呼び掛けて、北条氏を牽制しますが北条氏を撤兵させる事に失敗。これ以上の侵攻が不可能になった信玄は久能山に城を築城。久能城と横山城を対北条氏の押さえの城郭とすると4月28日、横山城に穴山信君を残し興津を撤兵します。
しかし、街道は抑えられているので信玄は武田工兵隊の力を借りて険しい樽峠を切り開いて帰還しました。このように第一次駿河侵攻は、信玄が駿府を抑えたものの、富士郡と駿東郡は北条氏に抑えられて終結したのです。
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徳川、今川、北条三国同盟締結
永禄12年(1569年)5月6日、周辺の城が落ち孤立した掛川城の開城が決定。徳川と北条の和睦の下で、氏真と早川殿は北条領の蒲原城に脱出します。今川と徳川間の和睦および徳川と北条間の和睦が成立したので、ここで徳川、今川、北条の三国同盟が締結しました。
この段階で武田信玄は、越後の上杉、相模の北条、遠江の徳川に周辺を包囲されるという極めて厳しい状態に追い込まれた事になります。大河ドラマと違い武田信玄は一時、滅亡の危機だったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
元々は、徳川家康と示し合わせ、駿河と遠江を取り放題する約束で始まった信玄の駿河侵攻ですが、北条氏康を怒らせた事で、駿府より東を切り取る事が出来ず、そうこうしている間に、家康が順調に遠江を手中に入れた上に、氏真や氏康と和睦して、信玄のタコ坊主、外道だよね~、やっつけちゃおっか?と裏切りの動きを見せます。さて、ここから信玄はどう巻き返すのでしょうか?後半に続きます。
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