NHK大河ドラマ「どうする家康」で家康に容赦ない鉄拳制裁を加えているのが、後の徳川四天王、本多平八郎忠勝です。実際は家康より6歳下ですが、情ない家康を容赦なく躾けるスパルタぶりには、立派な主君に仕えたいという忠勝の願いが込められています。ところで、本多忠勝は豪傑だけあって身長は高かったのでしょうか?
この記事の目次
本多忠勝の出身地はどこ?
本多忠勝は、天文17年(1548年)、安祥松平家の最古参の譜代、本多忠高の長男として三河国額田郡蔵前、現在の愛知県岡崎市西蔵前町で誕生しました。しかし、忠高は忠勝が1歳の時、小豆坂の戦いで父が討ち死、叔父の本多忠真の手で養育されます。
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本多忠勝のプロフィールとは?
本多忠勝は1548年に松平家の最古参の譜代家臣、本多忠高の長男として誕生しました。
一歳で父、忠高を亡くして後は、叔父の忠真に養育され、13歳で桶狭間の戦いで初陣します。その後は三河一向一揆や、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いと家康の主要な合戦には参加し、本能寺の変後、家康の伊賀越えでは家康を逃がすために槍の腕を振るいます。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、家康に留守を命じられながら、羽柴秀吉16万の大軍に苦戦する徳川のピンチを見かねて飛び出し、僅か500騎で秀吉本陣8万の前に立ちはだかり、進軍を止める神技を見せました。
家康が東海から関東へ国替えとなると上総国大喜多に10万石を与えられて大名となり、関ケ原の合戦では小数ながら首を90以上も獲る戦果を挙げ、交通の要衝である伊勢国桑名10万石の大名に移封となりました。晩年の忠勝は眼病を患い、家康の警護が出来なくなり、1610年本拠地桑名で死去しますが、死ぬ直前まで家康と共に死にたいと願っていたそうです。
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本多忠勝の身長は高かったの?
本多忠勝には本人のものとして伝わる鎧があり、その銅の長さから推測すると身長は157センチ程度と、当時の男性の平均身長だそうです。しかし、小さくても忠勝は剛力で高さ6mの長槍、蜻蛉切を振り回して戦場では天下無双でした。一方で稽古では弱く、周囲の人は意外に思ったそうです。
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本多忠勝の身長は四天王で何位?
本多忠勝の身長は徳川四天王では何位なのでしょうか?戦国時代には身長測定などないので、正確な事は分かりませんが、鎧の大きさなどから比較すると榊原康政が160㎝、井伊直政が165㎝、酒井忠次が不明となっています。この順番でいくと忠勝は四天王で一番小さい事になり、身長については最強ではなかった事になります。
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本多忠勝の身長、体重は?
体重についても後世までは伝わっていませんが、肥満していれば鎧の胴回りも太くなります。しかし、忠勝の鎧は至って平均サイズなので太ってはいません。身長から考えると大体60キロ前後の体重です。
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本多忠勝は一体どのくらい強いの?
本多忠勝は、13歳の時に桶狭間で初陣を迎えてより、57回の合戦に参加しています。しかし、驚く事にその体には一つの傷もありません。どんな強者も忠勝の体に僅かな傷さえ、つける事が出来なかったのです。同僚の井伊直政が重装備で傷だらけなのに比較しても、忠勝の強さは桁外れでした。
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本多忠勝の本名は何と言う?
本多忠勝の名前は忠勝です。しかし、これは諱と言い、親しい人以外は口にできませんでした。一方忠勝の通称は平八郎、子供の頃は鍋之助という変わった名前でした。また、忠勝の異名としては、その鹿角の脇立てから三河の鹿と呼ばれています。
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本多忠勝の仰天エピソードは?
本多忠勝には、切れ味鋭い槍の腕前についてのエピソードがあります。忠勝が晩年に息子、忠政と舟遊びをしていた時、戯れに群生している葦を櫂で薙いでみよと忠政に命じました。忠政が櫂を水平に振るうと、葦はペタンと倒れただけでしたが、忠勝が櫂を振るうと、葦は鎌で切ったように薙ぎ払われたそうです。櫂でここまで出来るという事は、忠勝が鋭利な槍を振るえば、どんな敵も真っ二つになったという事です。
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日本史ライターkawausoの独り言
本多忠勝の身長は157㎝と当時の男性の平均身長で徳川四天王では一番小さいです。しかし、中肉中背ながら筋力は桁違いに強く、長さ6mの蜻蛉切を軽々振り回し、向かう所敵なしの最強武将だったのです。
参考:本多忠勝の身長はどれくらい?愛用の蜻蛉切や黒糸威胴丸具足から身長推測
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