徳川家康の正室であり、家康の嫡男信康の生母が築山殿です。本来なら天下人の正室として、栄誉ある地位に就くはずだった築山殿ですが、今川家一門の姫という立場が、今川家から離脱して織田信長と同盟を結んだ家康にとって不都合となり、その人生は桶狭間の戦いを境に微妙になりました。その後も息子の信康と結婚した信長の娘、徳姫との確執もあり生涯は悲劇に向かって一直線になっていくのです。
この記事の目次
今川家の一門に生まれる
築山殿は通称を瀬名姫と言い徳川家康の最初の正室になった人です。出自に関しては諸説ありますが、父は関口親永、母は今川義元の叔母とも妹ともされています。築山殿の年齢については、家康と同い年とも2歳年上とも、12歳年上だったとする説もありますが弘治3年(1557年)に当時松平元康という名前だった家康15歳と結婚しました。
家康は今川家の人質の身分であり、築山殿の父の関口氏は今川家一門衆なので、この結婚は家康の逆玉の輿です。ここには家康を今川家と縁続きにする事で三河を味方とし、尾張の織田家と対抗したいと考える義元の思惑が見えます。
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織田と結んだ家康のせいで父母が自殺
築山殿は家康と結婚して2年目に嫡男の信康、翌年には亀姫を産みました。しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると築山殿の立場が微妙になっていきます。義元の後を継いだ氏真に戦国大名の力量はなく、織田信長の進出に悩まされた家康は信長と結んでしまいました。
父の仇である信長と家康が同盟した事を知った氏真は激怒し、築山殿の父母は自害に追い込まれたのです。築山殿と信康、亀姫は駿河に残されたままでしたが、家康の重臣石川数正が氏真を説得。築山殿は家康の捕虜になっていた鵜殿氏長、鵜殿氏次と人質交換で岡崎城に戻る事になりました。
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岡崎城に帰還するが城には入れず
家康の元に戻った築山殿ですが、岡崎城に入れず城外の西岸寺に移され、呼称も正室を示す「御前様」ではなく、「信康御母さま」である事から今川との手切れにあたり離縁した可能性もあるそうです。ただ、正室ではなくなっても、築山殿が家康の嫡男である信康の母である事は違いなく、一定の権威を持ち続けます。
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嫡男信康が信長の娘と結婚
1567年、信康と織田信長の長女、徳姫が9歳同士で結婚。こうして信康の嫡男としての地位は不動となり1570年に信康と築山殿は岡崎城に入城しました。
その後、家康は本拠地を岡崎から浜松に移しますが、築山殿は信康と共に岡崎城に留まりました。信康と結婚した徳姫は、登久姫と熊姫を産みますが、なかなか男子が誕生しません。築山殿は世継ぎを心配し元武田の家臣であった浅原昌時の娘などを信康の側室として迎えさせました。
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徳姫が信長に築山殿を訴え家康に殺害
側室を迎え入れた事で徳姫は信長の娘としてのプライドを傷つけられ、次第に築山殿や信康との関係が険悪になります。1579年徳姫は父の信長に対して、築山殿が武田勝頼と内通している事や、唐人医師の減敬と密通しているなど12ヶ条の訴状を送り、それを読んだ信長が問題視し家康に対し信康の処刑を命じます。
築山殿の元には、岡本時仲と野中重政が派遣され、徳川の家を守る為に自害を迫りました。しかし築山殿は自殺を拒否したので、2人に押さえつけられ強引に首を斬られたそうです。それから半月後に、息子の信康も二俣城で自害しました。
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築山殿は悪女ではない
現在にも通じるような嫁姑問題を切っ掛けに嫁の密告で殺害された悲劇の築山殿ですが、現在の研究では信長が家康になんとかするように命じたのは信康のみで、築山殿については何の言及もなく、武田勝頼と通じていたという話や唐人医師との密通は事実無根であるそうです。
実際に問題になっていたのは、信康と徳姫の不仲であり、信長も鷹狩りにかこつけて岡崎までやってきて家康に信康と徳姫の不仲をなんとかするよう命じたそうで、信康の殺害は家康の決断であるとするのが最近の説です。
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築山殿は巻き添えで殺された
当時、信康は徳姫だけではなく家康との関係も険悪で、そればかりではなく信長さえ何ほどのこともないと吹聴するほど増長していたと言われています。また、信康は勇猛果敢ですが、野蛮で残忍な性格でもあり、家康は徳川の将来を考えて信康粛清を決断したと言われているのです。
でも、それなら信康のみを処分すれば済むのに、どうして家康は築山殿を先に殺害したのでしょうか?
それは、父母を失い息子信康の成長だけを楽しみに生きていた築山殿が信康の死を知れば、半狂乱になり何をするか分からないと家康が危惧したからだと言われています。築山殿殺害は、全く信康の巻き添えだったのです。
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家康を正当化するために悪女にされた築山殿
家康としては、後の憂いを断つための築山殿の殺害ですが、それでも罪もない築山殿を殺した家康の汚名は消えません。そこで後世築山殿は、名門を鼻にかけて家康を見下す高飛車な悪女とされ、今川を裏切った家康を恨み、武田勝頼と通じてしまった殺されても仕方ない姦婦として不当に卑しめられたと考えられるのです。
おそらく真実の築山殿は、徳姫との仲は悪かったかも知れませんが、息子信康の幸せを願い続けた平凡な戦国の母の1人だったのでしょう。
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日本史ライターkawausoの独り言
後の天下人家康に嫁ぎ、嫡男信康を産んだ築山殿の運命は、桶狭間における今川義元の討ち死にで激変し、さらに息子の信康が信長の娘徳姫と結婚し、夫婦仲が不仲になる事でさらに激変しました。築山殿自身に落ち度はないのですが、家康の嫡男を産んだ事が自らの死を招いてしまうとは何とも皮肉ですね。
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