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キリシタン大名の特徴は?どうして戦国時代に大名はキリシタンになった?


天草四郎

 

キリシタン大名は戦国時代にキリスト教の洗礼を受けてキリシタンになった大名です。しかし、戦国大名はどうしてキリシタンになって宣教師の便宜を図ったのでしょうか?

 

今回はキリシタン大名の特徴について解説します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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どうしてキリシタン大名が誕生した?

フランシスコ・ザビエル

 

日本にキリスト教を伝えたのはフランシスコ・ザビエルでした。彼は日本についてリサーチし、天皇や将軍の存在を知っており当初は天皇や将軍の許可を得て布教しようと考えていました。

 

朝廷(天皇)

 

しかし、戦国の世で天皇はおろか将軍でさえ影響力が京都から外に及ぶ事はほとんどなく無力であり、失望したザビエルは京都を去り日本各地を実効支配している戦国大名に目をつけ、貿易の利益と共に大名への布教を開始します。

 

これがキリシタン大名誕生の切っ掛けになりました。

 

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キリシタン大名洗礼の切っ掛け

ガレオン船(世界史)

 

キリシタン大名と言っても、高山右近(たかやまうこん)のように禁教令が出ても転向せずフィリピンに流罪にされた大名もいれば、大村純忠(おおむらすみただ)のように完全にカトリックの側につき領国内の寺院や仏像を焼き払った大名もいます。

 

完全にキリシタンになった大名を除けば、南蛮貿易の富を得るために宣教師の歓心を買おうとして洗礼を受けたなんちゃってキリシタンが多かったようです。

火縄銃(鉄砲)

 

特に火薬の原料として欠かせない硝石(しょうせき)は当時の日本では生産できないものであり、火薬欲しさにカトリックに接近した戦国大名も多くいました。

 

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織田信長スペシャル

 

 

キリシタン大名が増加した理由は?

高山右近(キリシタン大名)

 

足利義昭を奉じて上洛した織田信長がキリスト教の布教を認めると、南蛮貿易の富を求めて国内でキリスト教に入信する大名が増えていきましたが、その入信の切っ掛けになったのは、摂津のキリシタン大名、高山右近でした。

 

優秀すぎる黒田官兵衛に猜疑心が芽生える豊臣秀吉

 

高山右近は人徳の人として知られ、彼の影響を受け、牧村利貞(まきむらとしさだ)蒲生氏郷(がもううじさと)黒田孝高(くろだよしたか)が洗礼を受けてキリシタン大名となり、細川忠興(ほそかわただおき)前田利家(まえだとしいえ)は洗礼を受けなかったものの、キリスト教に好意的であったようです。

 

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没落してからキリシタンになった大名

落ち武者

 

畠山高政(はたけやまたかまさ)六角義賢(ろっかくよしかた)のような戦国大名は、大名だった頃にキリシタンに入信する事はありませんでしたが、どちらも信長に対抗して破れ、領地を追われて流浪している時に、カトリックの教えに触れて洗礼を受けたようです。

 

心境の変化は当人たちにしかわかりませんが、合戦につぐ合戦に翻弄(ほんろう)されて没落し、晩年には魂の救済を求める気持になったのかも知れません。

 

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反キリシタン大名

龍造寺隆信

 

逆にカトリックを嫌った反キリシタン大名には誰がいたのでしょうか?

 

肥前の熊と呼ばれた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)は、カトリックを嫌っていた事がフロイスの書簡から窺えます。彼によれば隆信は「キリシタン教会の最も激しい敵であり、はなはだ暴虐な君主」なのだそうです。

 

実はヒャッハーな武田信玄

 

また、出家した武田信玄も仏教を庇護(ひご)する立場からカトリックを嫌っていたようです。

 

フロイスは信玄を評して、戦争においてはユグルタ(紀元前2世紀のヌミディア王で戦争が得意だった)に似た人物としながら、彼は毎日仏像を拝むが、信仰の願いは他国を支配する事であり、部下の僅かな失敗も許さず処刑する残虐な独裁者としています。

 

明智光秀(麒麟がくる)

 

明智光秀もキリシタンには評判が悪く、そのせいで光秀はフロイスにより「裏切りや密会を好み、残虐な刑罰を科し、独裁的だった」と謀反人に相応しい描写がされていました。

 

爆死する松永久秀

 

戦国の梟雄(きょうゆう)として知られる松永久秀(まつながひさひで)も、熱心な法華宗信徒で法華宗以外の信仰を嫌っていたので、当然カトリックもよく思っておらず、朝廷に働きかけてキリスト教宣教師の洛外追放を命じる女房奉書(にょうぼうほうしょ)を出させています。

 

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キリシタン大名の終焉

バテレン追放令を発令した豊臣秀吉

 

南蛮貿易に対する優遇は、豊臣秀吉が天下を統一すると薄らいでいきました。国内から戦争が消えた今、南蛮商人が各地の大名に売却する鉄砲は、豊臣政権の支配を揺るがす無用の長物になっていたのです。

 

同時にカトリックの排他性やスペインやポルトガルの侵略性が知られると秀吉は禁教令を出しキリシタン大名に対しても棄教する事を求めるようになりました。

 

天下を収めた徳川家康

 

これにより、多くのキリシタン大名は棄教(ききょう)しますが高山右近のような一部のキリシタン大名は、信仰を守る為に大名の地位を捨て、前田家の客将になるなどして信仰を守り通します。

 

しかし、1614年に徳川家康がキリシタン国外追放令を出すと家族と共にフィリピンへと移動していき国内からキリシタン大名は消滅します。

 

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ながら日本史

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

キリシタン大名は天皇や将軍の力が衰えた戦国日本で、宣教師が布教の為に頼りにできる最大の権力者でした。もっとも、キリシタン大名の信仰にも温度差があり本気でキリシタンになった大名もいれば、南蛮貿易のために洗礼を受けた打算的な大名もいました。

 

しかし、豊臣秀吉の天下統一を切っ掛けに南蛮貿易の重要性が薄れると、武器商人でもある南蛮商人は、豊臣の天下を脅かす者として嫌われ、同時にスペインやポルトガルの侵略性が表面化する事によりキリシタンへの弾圧も激しくなり、江戸初期にはキリシタン大名は日本から消滅しました。

 

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はじめての戦国時代

 

 

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カワウソ編集長

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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