昭和時代

戦艦「大和」が建造された理由は?どうして役に立たないまま撃沈された?

軍艦(明治時代)

 

兵器に詳しくない人でも、戦艦大和(せんかんやまと)については知っている人は多いと思います。

 

戦艦大和は現役運用されている間は厳重な情報統制が敷かれ一般国民に知られたのは戦後しばらくして後でしたが、逆に存在が知られると小説、ドラマ、映画、アニメに頻繁に取り上げられ日本で最も有名な戦艦になりました。

 

今回は、戦艦大和の建造理由と役に立たないまま撃沈された理由を解説します。

 

来るべき建艦競争に備える

ほの日新聞

 

戦艦大和が建造された理由には、日本がロンドン軍縮会議から離脱した事がありました。昭和11年(1936年)1月15日に日本は条約を離脱、それは、条約加盟国による無制限な建艦競争を予想させました。

 

海軍はこれを機にアメリカやイギリスのような海軍国に先んじるような大戦艦を建造し軍事的な優位に立ちたいとする思惑があり、昭和12年第一号艦、第二号艦の仮称で口径46センチの主砲を搭載した超大型戦艦の建造を提出し受理されます。

 

しかも、建造している途中で情報が外国に漏れ、大和を上回る戦艦が建造されてはマズいという事で情報は徹底的に秘匿され大和が建造されるドッグには板塀が設置され、大和を見下ろせる裏山には憲兵隊が巡回するような厳重ぶりでした。

 

東京五輪でテロ対策をしている警察や警察犬 いだてん

 

すでに航空機が長足の進歩を遂げていた時代で、山本五十六(やまもといそろく)のように大和の建造に否定的な軍人もいましたが、大勢に押し切られ戦艦大和は昭和16年8月8日に進水します。ただし極秘裏に建造されたので、大々的に披露する事も出来ず、海軍高官百名と進水作業員千名が見守る中での寂しい進水式となりました。

 

飛行機(プロペラ)に乗るkawausoさん

 

そして進水から4ヶ月後12月8日には大東亜戦争が開始。この前日、大和は初の主砲射撃演習を実施し戦艦としての咆哮(ほうこう)を挙げます。

 

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最新鋭の装備

 

戦艦として米英(べいえい)に差をつけたい海軍は、持てる技術の全てを大和に注ぎ込みました。

 

例えば日本の戦艦では初めて、造波抵抗を打ち消す球状艦首(きゅうじょう・かんしゅ)(バルバス・バウ)を採用して速力の向上を図り、煙突などにはハニカム構造、巨大な観測用の測距儀(そっきょぎ)を設置し、当初はついていなかったレーダーも早期に装備し、当時の戦艦としては世界最新鋭の装備を揃えていました。

 

プロ野球で言えば鳴り物入りで入団し最新鋭の運動理論でトレーニングを積み、いつでも最高のパフォーマンスが出せる期待の大型ルーキーという所でしょう。

 

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実戦に出られない戦艦大和

 

大和の主砲、46センチ砲は重さ1.5トンの砲弾を42キロメートル飛ばす事が出来る射程を持ち、まともに命中すれば沈まない軍艦は無かったのですが、意外にも大和は戦争の真っただ中に産声を挙げながら実戦経験を積む事がなかなかありませんでした。

 

その理由はいくつかありますが、第一に当時の戦艦は空母のような機動部隊と共に行動する事が無かった点があげられます。戦艦は主力部隊として前衛の機動部隊である空母の背後につけられるのが常識であり、その認識が改まるのはミッドウェー海戦で日本が空母四隻を失った後でした。

 

しかし、その後ガダルカナル島の戦いでも、アメリカの潜水艦に魚雷を4発打ち込まれ回避した以外に戦闘はなく第二次、第三次ソロモン海戦でも、投入のチャンスがあったのに大和に万が一のことがあってはと投入を見送られます。

 

国力を傾けて建造され連合艦隊の旗艦になってしまった為に、もし大和に万が一の事態あれば大きな責任問題になるという重圧が海軍に大和投入を躊躇させた側面もあるようです。

 

その後大和は、昭和18年のクリスマス、アメリカの潜水艦スケートの魚雷が命中、はじめての被弾を経験しました。ところが大和は魚雷1発程度ではビクともせず、乗組員のほとんども大和が被弾した事実に気が付かず、僅かに4度の傾きが生じて、はじめて被弾に気づいたという嘘みたいな話が残っています。

 

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独りぼっちの大和

 

ようやく昭和19年6月20日、のマリアナ海戦に参加、大和はアメリカの攻撃隊に三式弾27発を発射、これが実戦で初めての主砲発射でした。

 

昭和19年10月のレイテ海戦では、姉妹艦の武蔵(むさし)撃沈(げきちん)、大和自体には特に戦果もなく数機の戦闘機を撃墜した程度で終わり、その後は制空権を失った日本の上空で連合軍戦闘機の爆撃を受けるなどしますが、非常に頑強な装甲のお陰で運航に支障はありません。

 

しかし、大和は無事でも、その頃には日本に空母も戦艦もほとんど残っておらず、大和に期待された艦隊戦も不可能になっていたのです。海軍は、大和の存在をもてあますようになりました。

 

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矛盾だらけの作戦で戦艦大和轟沈

沈没するルシタニア号

 

昭和20年に入ると、太平洋の制海権を握ったアメリカ機動部隊が頻繁に空襲にくるになり、大和の母港である呉にもひっきりなしに爆撃機が飛んできます。

 

一方で、帝国海軍は石油も弾薬も不足、大和は海に浮かんでいるだけでろくに訓練も出来ない有様に陥っていました。

 

もはや大和に出来るのは、その巨体をアメリカ軍の艦船にさらして客寄せパンダとなり、それを陸上の航空機が叩くという(おとり)作戦だけでしたが、名だたる戦艦が沈んでいるのに、大和だけが健在というのは具合が悪いという事になります。

 

こうして、アメリカ軍が上陸作戦を敢行している沖縄に特攻、海岸に乗り上げて46センチ砲と対空砲を撃ちまくり、陸の要塞としてアメリカ軍に抵抗するという菊水作戦(きくすいさくせん)が決定されます。

 

ところが大和を陸の要塞とするには、①艦砲射撃が可能なように水平に座礁し②艦砲射撃に必要な機関及び水圧系と電路系が生きて射撃管制機能が維持されている事が必要で、それは事実上不可能とされていました。

 

菊水作戦は事実上作戦ではなく成功の見込みもなく、戦争の徒花(あだばな)として咲いた大和を冥途(めいど)に送るための壮大な艦隊葬送行列だったのです。

 

昭和20年4月8日、坊ノ岬(ぼうのみさき)海戦において戦艦大和はアメリカ軍機309機の飛来を受け、117機からの直接攻撃をされ、魚雷9発、爆弾5発の直撃弾を喰らい、同日14時20分、まるでお(わん)が傾くように横転、直後に大爆発を起こし艦体が3つに折れて轟沈します。大和最期の戦果は、アメリカ軍機6機撃墜、5機は帰還後破棄、47機被弾という大戦艦にしては寂しいものでした。

 

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戦艦大和の弱点とは?

 

戦艦大和の弱点は固有で致命的なものではありません。実際には大和の弱点は、当時の世界中の戦艦が保有していた弱点でした。例えば大和は第一艦橋や第二艦橋の防御が弱いとされ、司令塔が危険にさらされていますが、それは、世界中どの国の戦艦も同じです。

 

艦橋を強くするのは装甲を厚くすればいいのですが、それをやるとトップへビーの状態になり、戦艦の復元力が損なわれ急カーブを切ると転覆しやすくなります。艦橋部の脆弱さは復元力と指令部の安全性のディレンマの関係にあります。

 

また、戦闘機に対する対策が不十分という事もありますが、世界中の戦艦はどれだけ対空砲火を強化しても戦闘機は苦手です。それは、人間が蜂の大群と戦うようなものでこちらが蜂を一匹退治している頃には、無数に刺されているでしょう。対空砲火は自艦を守るものであり敵機を撃ち落とすものではありません。

 

坊ノ岬海戦の状態では、大和でなくても当時の世界中どの戦艦でも轟沈は時間の問題だった事でしょう。ただ、大和は訓練に関しては重油不足、弾薬不足で満足に出来ず、誤射や命中精度の甘さが随分あったようで、ここは海軍の人材不足を含め、大和の大きな弱点であったのでしょう。

 

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みなが羨む大和ホテルの真実

 

戦艦としては大した成績を残せなかった大和ですが、その居住性と設備の豪華さは見事で、陸軍や他の軍艦から大和ホテルと揶揄されるほどでした。

 

例えば大和には東京芝浦電気製の巨大冷蔵庫が組み込まれ、士官室に冷房を提供し食材を十分に冷やす事が可能でした。当時は病院やデパートにしか冷房はなく、夏は灼熱の艦隊勤務を余儀なくされる他の軍艦の乗組員からは羨ましがられます。

 

しかし、大和の冷蔵設備は何も乗組士官に贅沢させる目的ではありません。冷蔵庫が冷やしていたものは弾薬であり、士官室や冷蔵庫は電気の余力で冷やされていたのです。

 

これまで帝国海軍では戦艦陸奥(せんかんむつ)の爆沈など弾薬の暴発が何度も起きていて、それを抑えるのに冷蔵設備は必須でした。また火薬は湿度と温度で飛距離が変化するので、正確な射撃を守るためにも火薬庫の温度は一定に保つ必要があったのです。弾薬の最高のパフォーマンスを得るには、温度は摂氏7度~21度、湿度は80%以下に保必要がありましたが、大和ではこの厳格な基準をずっと守っていました。

 

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大和にはエレベータも

 

また大和艦内には、3~5人乗りの士官用のエレベータもありました。

 

こちらは三菱電機製で中甲板(ちゅうかんぱん)からでも13階建てに匹敵する大和の中を階段で上り下りするのは肉体的にキツイだろうという配慮で楽してもらおうという事ではありません。

 

ちなみにエレベーターは自動ではなく中々操作が難しいものであったようです。もうひとつ、海軍といえばラムネですが、これもラムネ製造がメインではなく火災時の二酸化炭素消火器のおまけとしてついたものでした。

 

また海軍では夏場に体力回復用に砂糖水を配布する事があり砂糖に水と二酸化炭素を加えるとラムネになります。大和のラムネ製造能力は巨大で1日に5000本を生産できたようです。ちなみに閉鎖空間の艦内で二酸化炭素を消火器に使うのは現在でも続いているようで、ラムネは現在でも海上自衛隊の伝統的な飲料です。

 

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戦艦は海の迎賓館

軍艦(明治時代)

 

もっとも艦内で必要な機能を割り引いても戦艦大和の内装は豪華でした。

 

調度品は全て一流で、厨房(ちゅうぼう)には和食と洋食のコックが乗り込んで懐石料理から洋食、お汁粉のような甘味やオハギ、アイスクリームも製造でき、司令長官の昼食時には食器に手をつけた瞬間から40分間、軍楽隊の生演奏が流れる事もあります。

 

しかし、このような贅沢な仕様もやはり乗組員の為というよりは外交目的がありました。軍艦は世界中を訪問するので、その国の王族、大使、銀行家のや実業家の表敬訪問を受けたりパーティーに招待したりします。大和の豪華な調度品はその時、迎賓館(げいひんかん)の役割を果たせるよう完璧に仕上げられていたのです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は戦艦大和について解説しました。誕生した瞬間から時代遅れだった戦艦としてネガティブなイメージの大和ですが、それは大和のみならず世界中の戦艦に共通した現象でした。ただ大和の場合には、あまりに巨大で日本の命運を象徴した分だけ、その時代遅れ感が強調して伝わっているだけではないかと思います。

 

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