木曾義仲(別名:源義仲)は平安末期の信濃源氏の武将です。河内源氏、源義賢の次男で源頼朝、源義経は従兄弟にあたります。
以仁王の平家打倒の令旨に従い、以仁王の遺児北陸宮を保護した事で上洛の大義名分を得て、倶利伽羅峠で平家の10万の大軍を撃破し入京しました。朝日将軍と呼ばれ権勢を誇った義仲ですが「ワイルドだろう?」な育ちが災いし朝廷と対立、源義経に敗れて非業の最期を遂げてしまうのです。
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2歳で父を失い木曾の野生児に
木曾義仲は河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として産まれます。父、義賢は近衛天皇の身辺警備を任され、摂関家の藤原頼長の男色の相手を務めるなど京都の雰囲気に馴染んだシティーボーイでした。
平家物語や源平盛衰記によると義賢は、父である源為義の命令で兄義朝と対立。大蔵合戦で義朝の長男源義平の奇襲を受け討たれました。義平は当時2歳の義仲にも殺害命令を出されますが、畠山重能や斎藤実盛の計らいで信濃国に逃れます。
吾妻鏡によると義仲は乳人、中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れました。この事があり義仲は木曾義仲と呼ばれるようになります。
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以仁王の遺児 北陸宮を保護
治承4年(1180年)以仁王が全国に平家打倒を命じる令旨を発し、叔父の源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかけます。
義仲は戦に強い野生児として成長し、平家打倒の令旨に応じ挙兵、何度かの合戦で勝利して知名度を挙げ、治承5年(1181年)6月には小県郡の白鳥河原に木曾衆、佐久衆、上州衆など3000騎を結集、越後から北陸道を進みました。さらに寿永元年(1182年)北陸に逃れてきた以仁王の遺児、北陸宮を保護し、非業の死を遂げた以仁王挙兵を継承する立場を明示します。
義仲は父の時代の因縁もあり、源頼朝と対立する事を避けていましたが、頼朝と敵対して敗れた志田義広や頼朝から追放された源行家を匿った事で頼朝との関係が険悪化します。
しかし、この時は息子の義高を人質として鎌倉に送る事で対立を回避しました。
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倶利伽羅峠で平家を破り入京
平維盛は10万の大軍を率いて北陸へ侵攻し、圧倒的な兵力で越前、加賀、越中の義仲の砦を攻略し、残るは越中一国になります。
この時、義仲四天王の1人、今井兼平6000の先遣隊で般若野の平家の先遣隊を奇襲。兼平の奇襲が功を奏して平家軍が倶利伽羅峠の西に戻ると、寿永2年(1183年)5月11日、倶利伽羅峠の戦いで10万の平維盛の平家追討軍を破りました。
義仲は戦勝の勢いに乗り、周辺の武士を集めて京都に向けて進軍し、近江で延暦寺に脅迫めいた文書を送って屈服させます。同時期に源行家が伊賀方面から、摂津国の多田行綱も不穏な動きを見せ平家は京都の防衛を断念、安徳天皇と異母弟の守貞親王を擁して西国に逃れました。
こうして義仲は源行家と共に後白河法皇に平家追討の命令を受け朝日将軍と呼ばれ、周辺の武士団を取りまとめ京都の警護を兼任します。
義仲は色白の美しい美男子で、その事から上洛の初期は京都の人々の人気を集めていたようですが、中身はまったく田舎者の礼儀知らずで訛りもひどかったと源平盛衰記には記述されています。
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義仲がワイルド過ぎて大不評
後白河法皇は西国に逃げた平家に安徳天皇と三種の神器の返還を求めますが交渉は失敗します。そこでやむをえず、都に残る高倉天皇の二人の皇子から次の天皇を擁立しようとしました。
ところがここで義仲は「平家が西国に落ちたのは、俺っちが推してきた北陸宮の力だと思うぜェ、それに平家の悪政がなければ以仁王が即位していたはずだから以仁王の遺児の北陸宮が天皇になるのが筋だ。ちょっとワイルドだろう?」
こんな感じでワイルドに皇位継承問題に口を挟んできます。
しかし、天皇の子が2人もいるのに、それを無視して王の子に過ぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した義仲のワイルドすぎる提案に朝廷は困惑しかつ憤慨します。この前まで使用人同然の武士ごときが大きな顔をして天皇の後継者問題に口を挟むのが許せなかったのです。
2歳で木曾の山奥に避難した野生児義仲は、父の義賢や従兄弟の頼朝のように都の雰囲気に馴染む時間がなく、この事件から義仲は「木曾のワイルドなアレ」として法皇や公卿に疎まれるようになります。
後白河法皇に追い出されるように平家追討へ
木曾義仲には、さらなる不運もありました。その年は養和の大飢饉で京都の食糧事情が極端に悪化していたのです。当時、京都の人口は10万人前後のようですが、そこに義仲に従い数万の大軍が長期間居座ったので、ただでさえヒドイ食糧事情がより悪化しました。
義仲軍は、倶利伽羅峠の戦いで勝利した後に、様々な勢力が寄せ集まった混成軍なの、命令が十分に届かず、飢えた兵士は作物を奪い、家に押し入り金目の物を探すなど、乱暴狼藉を尽くしたので、庶民は生きていけなくなり郊外に逃げていきます。
それでも義仲は開き直り
「武士は馬を持っているから、餌をやるために畑を掘り返すだろう?
食べる米がないなら兵士がよそから調達するのも仕方ないだろう?
別に大臣の屋敷に押し入るんじゃないから、そこまでワイルドじゃないだろう?」
このようにワイルド発言をしていたようです。
後白河法皇は怒り、義仲を呼び出すと「世の中が不安定で平家も蔓延って朕は困っておるぞ。どうしてくれる?」と責め立てました。
さすがにマズいと思った義仲「俺っちが平家を滅ぼして天下を安定させてみせるぜェ。いますぐ播磨国まで下りてやるぜ、ワイルドだろう?」みたいな事を言い、配下をまとめて京都を出ました。
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後白河法皇の裏切り
平家討伐に出た義仲ですが、義仲軍はモラルハザードに陥ったのか水島の戦いで平家に惨敗、有力武将を失います。出鼻を挫かれた義仲は、平家の軍勢とにらみ合いを続けますが、そこで源義経が大将軍として数万の兵を率いて上洛するニュースが飛び込みます。
実は義仲が平家追討に向かって間もなく鎌倉の頼朝から手紙が届き、後白河法皇は頼朝の入京を認めて義仲を追い出そうと考えていたのです。
このまま義経に京都を握られたら、後白河法皇にも見捨てられ、平家と挟み撃ちになると恐れた義仲は軍勢を残して少数で京都に帰還。
「俺っちが平家追討で頑張っている隙に義経を引き込もうなんてちょっとワイルド過ぎるだろう?」と法皇に抗議、逆に頼朝追討の命令を出すように要求しました。しかし、この頃には、義仲連合軍の足並みが乱れ反対が続出、特に源行家と義仲の不和が深刻で反頼朝で一致団結した行動がとれませんでした。
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後白河法皇と決裂
寿永2年(1183年)11月、源義経の軍が不破の関に到着、義仲は義経と戦う事を決意します。
一方で頼朝軍が近い事に勇気づけられた後白河法皇は義仲追放を画策し、延暦寺や園城寺から僧兵や浮浪民をかき集めて掘や柵を巡らせ根拠地である法住寺の武装化を進め、さらに義仲陣営の摂津源氏、美濃源氏を味方に引き入れて数の上では義仲軍を上回りました。
後白河方の最大勢力だった源行家は平家追討で京を離れていましたが、後白河法皇はすでに勝利したつもりで、義仲に最後通牒を突きつけます。
「すぐにでも平家追討のため西国に向かうべし、朕の命令に背いて頼朝と戦うなら自分の資格で戦え、京都に留まりつづけるなら謀反と見做す」
義仲は「そりゃないだろう?俺っちは法皇様に逆らう気はないぜェ頼朝が入京しないなら、西国に行って、また平家と戦うぜェ」と抗議しますが後白河法皇は黙殺しました。
切羽詰まった義仲は法住寺を襲撃。
逃げようとした後白河法皇を捕らえ、五条東洞院の摂政邸に幽閉。前関白松殿基房と連携して政治を任せ、基房の子、師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立します。
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源義仲(木曾義仲)の最期
しかし、表面だけ体裁を取り繕っても、もはや義仲に従う者は僅かでした。ほとんどの武士も公家も、義仲を見限り頼朝に付き従おうとサボタージュを決め込みます。義仲は平家との和睦工作や、後白河法皇を強引に北陸に連れ去り態勢を立て直すなど色々と策を弄しますが、もう誰も義仲の命令を聞こうとはしません。
こうして、義仲は宇治川で義経と範頼の率いる頼朝軍と戦い惨敗。
今井兼平のような数名の部下と共に落ち延びますが、近江国粟津で馬が田圃に足を取られた所を矢で射られ、その矢が顔を貫いてあえなく討死しました。最後まで残った今井兼平も死んだ義仲の隣で自害し果てています。
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日本史ライターkawausoの独り言
平家物語などの影響から乱暴者のイメージが強い木曾義仲ですが、実際に彼がゴリ押ししたのは北陸宮を即位させようとした位であり、結局はそれも失敗しています。
部下が京都で乱暴狼藉を働いた件も養和の大飢饉という天変地異のせいであり、義仲の傍若無人な振る舞いのせいではありませんでした。しかし公家文化に慣れていないワイルドさと雑多な部下を統率できない能力不足は否めず、それがゆえに後白河法皇に見捨てられる運命に至ったのでしょう。せめて大飢饉にぶつからず、もう少し京文化に親しんでいれば、僅か半年の天下で人生を終える事もなかったのではないでしょうか?
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