蜂屋頼隆という人物をご存知でしょうか?
織田信長の時代から豊臣秀吉の時代までを駆け抜けた武将の一人です。とはいっても、よほどの戦国時代「通」でもなければ、この人の名前をきいて「ああ、あの人ね」とはならないはずかと。率直なところ、そうとうな歴史好きの間でも、「マイナー武将」という扱いにされているものと思います。
しかしそれは百も承知の上で、今回はこの「いっけん地味な」人物、蜂屋頼隆にスポットライトを当ててみたいと思います。というのも、この人物の地味さはすべて、「若い頃の仲間たちとの縁で堅実に生きていく」という、むしろ脱経済成長時代の現代人につながるようなリアリズムに乗っかった生き方によるものと考えると、とても合点が行くのです!
この記事の目次
蜂屋頼隆の生涯を支えた縁「母衣衆」とは何か?
蜂屋頼隆の生涯を読み解くキーワードは、「母衣衆」に尽きると思われます。そもそも母衣衆とは、いわば織田信長直属の「親衛隊」といったところ。
戦場で、総大将(織田軍であれば、すなわち信長)の近くに仕え、信長の直接命令で実働する部隊のことを「馬廻衆」と言いますが、「母衣衆」というのは、その馬廻衆の中でも、特に目をかけられたエリート達が選抜されて編成されたチーム。
この「母衣衆」に所属しているというだけで、総大将である織田信長から特に信頼され、目をかけられていることになるわけです。織田家臣団の中でも誉れの地位といえます。
そして蜂屋頼隆は、まさに、この母衣衆のうちのひとつ、「黒母衣衆」の一人であったとされている人物なのです。その同僚には、佐々成政や中山重政などがおり、もうひとつの「母衣衆」チームである「赤母衣衆」には、有名な前田利家らがおりました。若き日の蜂屋頼隆は、こうした後の有名武将たちと、まさに若者同士で「つるむ」ように日々を過ごし、戦場を駆けまわっていた。そんな青春時代を送っていたのです。
関連記事:仙石秀久とはどんな人?人生をV字回復させた不屈の戦国大名【年表付】
関連記事:河尻秀隆とはどんな人?信長の寵愛を受けた必殺謀略人
主君の行くところならばどこまでも一緒に!蜂屋頼隆の前半生!
蜂屋頼隆はこうした「母衣衆」の仲間たちとともに、尾張や美濃における、初期の信長の戦いに参加して活躍しておりました。さらに蜂屋頼隆は、信長の上洛に随行し、近江攻め、伊勢攻め、雑賀衆攻め、越前攻めと、この頃の主要な戦いのほぼすべてに参加しています。まさに、織田家臣団の成長と共に出世した人物といえます。
関連記事:前田利家の逸話やエピソードは本当?かぶきものとして名高い喧嘩好き御仁
関連記事:雑賀孫一(鈴木孫一)とはどんな人?実は複数存在する鉄砲傭兵隊長
主君亡き後はかつての織田軍同僚たちのひたすら「サブ」に回り続ける!
その信長が本能寺の変で死んだ後は、母衣衆の生き残りたちにとっては試練の時代となりました。しかし、少なくとも蜂屋頼隆本人にとっては、かつての母衣衆たちとのキズナはむしろ、このあとから生きてきます。
・信長の弔い合戦である山崎の戦いに、微妙な手勢で参加
・清須会議においては、何か明確な言質主張を行った形跡はないものの、このあとで微妙な加増を受けている
・小牧長久手の戦いにも、微妙な戦力を提供して参加
・佐々成政の乱の際には、前田利家と組んで微妙に参加
・九州の役にも、微妙な戦力を提供して参加
・これら、主要な戦いにことごとく参加していることもあり、秀吉から豊臣姓を授けられるほどに重宝される
いかがでしょう。蜂屋頼隆という一人の武将が、ここまで、ありとあらゆる織豊政権下の重要な場面に登場しているというのは意外の感があるのではないでしょうか?
ですが、それ以上に気になるのは、ありとあらゆる重要な場面で、ことごとく、「行動が地味」なことです。
秀吉に臣従しつつもあまり目立つことはしない上、前田利家のようなかつての母衣衆同僚たちと組んだ時も、極力、相手を前に立たせ、自分はサブに回っているように見えます。
関連記事:【日本史激変】織田信長 45日間の上洛大作戦を解説
関連記事:【書評】清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?
かつての仲間を引き立て自分は前に出ないという「出世戦略」を貫いていた?
それにしても、前田利家にせよ佐々成政にせよ、良くも悪くも個性豊かな「旧母衣衆」OBたちの中にあって、蜂屋頼隆の安定の「サブリーダー」人生には一貫しているナニカを感じさせます。そして、実際に蜂屋頼隆は、これらの戦いで「地味な」動きを重ねているうちに、着実に、少しずつ、豊臣政権下でも出世しているわけです。
これはどういうことでしょうか?
ひとつの仮説を立ててみましょう。
最近、「ジモト族」という生き方に注目が集まっています。つまり、都会へ出てバリバリと野心を達成するよりも、ジモトでの若い頃の中学高校時代の仲間たちとあくまで生涯つるんで、できるだけ彼らと一緒に活動し、彼らと一緒に成長していく生き方のことです。
言われてみれば、蜂屋頼隆は、織田信長の「母衣衆であった」ジモト仲間どうしでの、若い頃からの縁いっぱつで、後半生を順調に生きた人、と解釈できるのではないでしょうか?
関連記事:信長の親衛隊「赤母衣衆(あかほろしゅう)」とは何?どんな人物が選抜されていたの?
地味な戦国人生で何が悪い!安全安泰に生き延びるだけでも大した偉業である!
そういえば、経済学のゲーム理論にも、「とにかく誠実従順に生きて、決して自分から人を裏切ったり、攻撃したりはしない」という戦略が、長期的に見るとたくさん得るものが大きい、という説があるそうです。
ガツガツした人が多い後期戦国時代にあって、蜂屋頼隆こそ、若い頃につるんでいた仲間たちととにかく一緒に行動し、自分から政変やら戦争やらを起こすことはせず、ひたすらみんなについていく生き方で、大きな出世を得た人物、と言えるのではないでしょうか。
関連記事:織田信長が神を名乗った理由は寄付目的?
戦国史時代ライターYASHIROの独り言
こういう生き方は、戦国武将らしくないので、いまいち、ウケはよくないかもしれません。
ですが、世の中が変わり、「なんでもかんでも人を押しのけて都会で第一線に立つことが成功ではない」という考え方が広まってきますと、意外や意外、蜂屋頼隆のような「安全安泰な生き方」をした武将が、人生モデルのひとつとして再評価されるようなことも、あるのではないでしょうか?
関連記事:大うつけと言われた織田信長は現代風にいえばヤンキー漫画の主人公?
関連記事:なんで武士は征夷大将軍になりたがる?沢山ある将軍号から選ばれた理由は?