NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人は、鎌倉幕府を創始した源頼朝から始まる源氏三代。そして、頼朝死後の御家人たちの権力闘争と戦いを制した北条義時の物語です。
大河ドラマを描くにあたり脚本の三谷幸喜は鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」を参考にしていますが、この吾妻鏡はどのような史料なのでしょうか?
この記事の目次
吾妻鏡とはどんな史料?
吾妻鏡は別名を「東鑑」とも言い、鎌倉時代に成立した日本の歴史書です。
扱っている範囲は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の伊豆での挙兵から第6代将軍宗尊親王が将軍を辞職するまでで、年代では治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの86年間を記録しています。
日本における武家政権最初の記録と称され、鎌倉時代研究の基礎となる基本資料です。
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実は「なんちゃって日記」だった吾妻鏡
さて、そんな吾妻鏡ですが大正時代に至るまで多くの歴史家をあざむいていました。吾妻鏡は日記風の形式をとっていて、ご丁寧にその日は雨とか寒かったとか天気についても記録しています。
そのため大正時代に至るまで研究者は、吾妻鏡がリアルタイムに鎌倉初期の歴史を記録した一次史料だと信じ込んでいたのです。そのため吾妻鏡は非常に権威ある史料として扱われていました。
しかし、史料批判から実際に吾妻鏡が書かれたのは、同時代どころか北条貞時が活躍した13世紀も末の頃であり、鎌倉幕府の成立から100年以上が経過していた事が明らかになったのです。
つまり吾妻鏡の編纂者には、鎌倉幕府成立期を知る人間は1人もなく、伝聞や同時代の公家の日記、訴訟内容などから当時の記録を収集して時代ごとに分類し、それを鎌倉初期の人間が書いたように日記風の文体にしていたのです。
たとえるなら、あなたの祖父の存在しない小学生時代の絵日記が必要になったので、あなたが当時の新聞やニュース映像、家族の証言を頼りに何十年も前の記録を復元し、絵日記を書き上げるのに似ています。
確かに、それでも当時の記録を集めるという努力はしているので、史料価値が全くないという事はありませんが、当事者ではない後世の人が書いたという事に違いはなく、それを祖父の小学生時代の日記と認める人はいないでしょう。吾妻鏡は後世の人をあざむく事を意図して書かれた鎌倉時代初期風日記だったのです。
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どうして後世の人を欺く必要があるのか?
しかし、どうして吾妻鏡は後世の人を欺くようなリアルタイム日記風に編纂されたのでしょうか?それは、どうやら吾妻鏡が鎌倉幕府を乗っ取った北条得宗家の専制政治を正当化する目的で描かれたからのようです。
その為、吾妻鏡は源頼朝から実朝までの3代の将軍については、冷酷な性格であったり無能だったり、暴君であったような厳しい評価を出す一方で、北条氏については、出来る限り擁護し、北条泰時のように手放しで賞賛しているケースもあります。
このような偏った記録なので、後世の史料だという事がバレると、ひろゆきではありませんが、「それって北条氏の主観ですよね?」と切り捨てられる恐れがあります。
そこで、吾妻鏡は鎌倉初期から86年間も営々と書き綴られたリアルタイムの記録で、決して歪曲などしていないと「装う」ために、当日の天気を記録するなどして一次史料であると偽装したのでした。
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どうして吾妻鏡が編纂された?
吾妻鏡の編纂理由としては、源頼朝家の延長として巨大化し場当たり的に変化を繰り返してきた鎌倉幕府のあらましを再検証して整理統合し、秩序だった記録を残そうとした意図が考えられます。
鎌倉幕府は成立年代も未だに議論されるような流動的な政権であり、このふわふわした状態ではいけない、もっとカチッとした体系化した記録が必要と考えたのでしょう。
また、もう1つの理由として、吾妻鏡が編纂された13世紀の末は北条得宗家の専制が極限に達していました。ちなみに得宗家というのは、鎌倉幕府二代執権、北条義時の血筋を受け継ぐ一門の事です。
当時は、日本の半分が得宗家ゆかりの人間に統治されるなど、平家一門の栄華になぞらえられる程になっていて、非得宗からの不満が高まっていたので、北条得宗家を歴史の中で正当化し、不満を抑える名目もあったのかも知れません。
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杜撰な史料選定
北条得宗家に有利な歴史を捏造するという意図から生まれたせいか、吾妻鏡編纂者のモチベーションはあまり高くなく、かなり杜撰な史料選定をした部分があるようです。
ひとつだけ紹介すると、例えば吾妻鏡は、養和元年(1181年)8月13日に木曾義仲追討の宣旨が出されたと書いてあります。しかし、当時の公家、九条兼実の日記「玉葉」の養和元年(1181年)8月6日には、「信乃の国逆徒」とあるだけで木曾義仲の名はありません。
この段階で京都が注目していたのは、信濃に進出していた甲斐源氏の武田信義であり木曾義仲については関心が払われていませんでした。義仲の名前が玉葉に出てくるのは、2年後寿永2年(1183年)5月16日が初見です。
つまり、未来人である「吾妻鏡」の編者は、後に木曾義仲が北陸道から京に攻め上ったという後世の人間でないと知り得ない情報を持っているので、北陸での戦いは当然、木曾義仲の進路を塞ぐためと未来人ならではの早合点をしているのです。
そして、義仲討伐の為に院宣が出たに違いないと考え、義仲追討の宣旨が出たと誤解し、吾妻鏡に記述するに到ったと考えられます。しかし、実際は養和元年の段階で義仲は全くメジャーな人物ではなく、公家に名前さえ知られていない有様なので、当然、義仲追討の宣旨も出ず、吾妻鏡が未来人の書いた「なんちゃって日記」だとする動かぬ証拠を残してしまいました。
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吾妻鏡を書いた人々
では、吾妻鏡を編纂したのはどのような人々だったのでしょうか?
吾妻鏡の編纂者には、訴訟を扱った問注所の執事である三善康信の子孫である町野氏や大田氏、政所執事の大江広元、二階堂行政の子孫などが挙げられます。
その理由は、これらの家が鎌倉幕府の行政文書を扱う関係上、鎌倉時代初期の文書を集めやすい点、そして吾妻鏡に三善康信や大江広元の顕彰の記述が出てくる点です。
これらの顕彰には事実を盛った虚偽の部分がありますが、吾妻鏡ではそれらをそのまま使用している事から、先祖を顕彰する文書を保有していた三善康信や大江広元、三階堂行政の子孫が、それらをそのまま吾妻鏡の史料として使用したと考えられるわけです。
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全巻揃っていない吾妻鏡
吾妻鏡は目録から全52巻と一応されていますが、この目録は南北朝期に金沢文庫に収蔵された時につけられたものです。実際に吾妻鏡が何巻あったのかは南北朝期にはすでに吾妻鏡の原本が散逸した事から、複数の説があり本当の事は誰にも分かりません。
散逸により欠本も存在し、例えば源頼朝の死因は執筆されたが欠落したとする説と、そもそも書かれなかったとする説があったりします。
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どうして鎌倉幕府滅亡まで書かれていないのか?
最初に書いた通り、吾妻鏡は1180年から1266年までの86年間の歴史書です。しかし、鎌倉時代は1333年まで継続しているのに、どうして中途半端な86年で記録が途絶えているのでしょうか?
本当の理由は不明ですが、説として鎌倉幕府が末期状態となって暗殺や政争が頻発した。つまり現実の歴史が激動期を迎えたので、過去の事を調べている暇がなくなってぶん投げたのではないかと指摘している研究者もいます。
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日本史ライターkawausoの独り言
なんだか、吾妻鏡をディスるような記述になってしまいましたが、吾妻鏡は編集者の先入観や曲筆、史料選びの杜撰さなどから、そのまま使うのは危険な史料ですが玉石混交とながら、良質な史料もあり、同時代の史料と突き合わせて使う分には、鎌倉幕府成立期の事情を伝える重要な史料と考えられています。
今後も鎌倉時代研究の基礎資料として使用されるでしょうし、失われた吾妻鏡の欠本が出てきたら、日本史を塗り替える大発見が起きるかも知れませんよ。
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