金閣寺を建てた人は誰?目的は?どうして金箔を塗ったの?金色の世界遺産を徹底解説

28/07/2022


オンライン授業の講師を務めるkawauso編集長

 

世界遺産にも指定されている京都鹿苑寺金閣(きょうと・ろくおんじ・きんかく)、通称金閣寺(きんかくじ)金箔(きんぱく)を塗られ金色に輝く姿で有名です。しかしその豪華絢爛(ごうかけんらん)さに圧倒され、そもそも金閣寺が建てられた目的や建てた人についてはよく知らない人も多いのではないでしょうか?

 

そこで今回は、金閣寺を建てた人と目的について解説します。

 

 

金閣寺なの?鹿苑寺なの?金閣寺の正式名称

 

金閣寺というのは通称であり鹿苑寺金閣が正式名称です。そもそも金閣とはお寺ではなくお釈迦様の骨や遺物を収める舎利殿(しゃりでん)であり鹿苑寺境内には金閣以外にも、参拝門や御堂(みどう)鐘堂(しょうどう)、茶室が立ち並んでいます。

 

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鹿苑寺の由来は?

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では、舎利殿金閣を持つ鹿苑寺の由来はなんでしょうか?

 

これは鹿苑寺を創建した室町幕府3代将軍、足利義満の法号(ほうごう)(出家した時の名前)鹿苑院殿(ろくおんいんどの)にちなんでいます。鹿苑寺は元々、隠居して大御所になった義満が北山第(きたやまだい)と呼ばれる山荘を置いた土地でしたが、義満が死ぬとき、北山第を禅宗寺院にして欲しいと遺言した事で寺として改装されました。

 

 

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金閣寺が建つ前は何があった?

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金閣寺が建つ前、この地には西園寺(さいおんじ)がありました。西園寺は公家の藤原公経(ふじわらのきんつね)が鎌倉時代の元仁(げんにん)元年(1224年)に建立し、あわせて山荘、北山第を営んでいます。

 

以後、西園寺は公経の子孫である西園寺家が代々領有していましたが、鎌倉幕府滅亡後に当時の当主、西園寺公宗(さいおんじきんむね)後醍醐天皇(ごだいごてんのう)を西園寺に招待し暗殺しようと計画したのが発覚。公宗は逮捕・処刑され、西園寺家の所領と資産が没収されました。

 

以後、西園寺も資金不足で改修する人がなく荒れ果てていたのを、応永4年(1397年)足利義満が河内国の領地と交換に譲り受けて建築されたのが北山第、後の鹿苑寺金閣だったのです。

 

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金閣寺 なんのために?

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足利義満は金閣をなんのために建てたのでしょうか?

 

その大きな理由は、金箔を貼り付けた豪華な建築物を建てる事で大御所としての自分の財力と権力を周囲に見せつける目的があったそうです。

 

金閣はさほど大きくない三層構造の建物ですが、二層と三層には金箔を貼っていて、昭和61年の大修理では使用された金箔は20㎏です。室町時代にどの程度の金箔が使用されたか不明ですが、それでもかなりの重量にはなったと考えられます。

 

誰も真似できないほどに贅沢に金箔を使った金閣を見せつける事で義満は自分こそが日本の支配者だと誇示したのでしょう。

 

また、金閣の屋根の中心には鳳凰(ほうおう)が飾られています。この鳳凰は天皇の象徴と考えられていて、義満がそれを意図的に使用したのは、自らが天皇に取って代わる野心があったからではないかと推測する学者もいます。

 

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金閣寺の建て方は?

 

金閣寺は当時としては異例な建て方をしています。

 

金閣の一階は天皇や公家の住居の様式である寝殿(しんでん)造り、二階は武家の様式である書院(しょいん)造り、そして三階は中国渡来の禅宗を意識した禅宗様(ぜんしゅうよう)になっています。

 

このチグハグな建て方には、武家出身の義満が朝廷を支配し、当時中国を支配していた明王朝のような絶対権力者を目指すという政治的なメッセージが込められているとも言われています。

 

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足利義満は金閣寺をいつ建てた?

鉄甲船

 

足利義満が金閣を建てたのは、応永(おうえい)6年(1399年)です。しかし、この頃の義満はすでに将軍職を息子の足利義持(あしかがよしもち)に譲り太政大臣も辞めています。

 

隠居した人の建てた建築物にしては派手なイメージですが、そもそも、義満が将軍職を退いて太政大臣を辞めた理由は、健康が衰えたとか意欲がなくなったという事ではありません。

 

朝廷(天皇)

 

そもそも将軍も太政大臣も天皇の臣下なので、行動に縛りがあり制約が多いです。明王朝との交易も思うに任せないトラブルが度々起こりました。

 

そこで義満は誰にも邪魔されない自由な立場を得る為に隠居したのであって、後継将軍になった義持には権力がないお飾りでした。金閣はこれからは全て自分の思い通りにすると決意した義満の野望の象徴だったのです。

 

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銀閣寺を建てたのは誰?

足利義政

 

銀閣寺を建てたのは室町幕府8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)です。応仁の乱が終わって13年後の延徳2年(1490年)に完成しました。

 

義政は義満の孫にあたり、生前金閣に通った記述が残されているので、尊敬していた祖父の事績にならったと考えて間違いないでしょう。銀閣寺というのは通称で正確には慈照寺観音殿(じしょうじかんのんでん)で、室内に観音像が安置されているからそう呼ばれています。

 

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金閣と銀閣違い

 

義政も義満と同じく将軍職を子の義尚に譲って隠居してから銀閣を建てましたが、義政は早い段階で政治に飽きていて、ただの贅沢三昧の一環だったようです。

 

本当は祖父の金閣にならい銀箔を貼る予定だったとも言われますが、財力がなく断念したとも、義政が完成直後に死去したので果たせなかったとも言われています。

 

銀閣は二層構造で全体を黒漆で塗り、銀箔こそ塗られていませんが、当時の建築技術の粋を集めた贅沢なつくりで、応仁の乱で疲弊した民衆の苦労を顧みず税金と労役を課して建築したので、庶民に憎まれました。

 

元々東山殿(ひがしやまどの)と呼ばれた足利義政の別荘兼御所でしたが、義政が1490年に死んだので禅寺に改修し慈照寺観音殿(じしょうじかんのんどの)となりました。慈照寺とは義政の法号、慈照院にちなんでいます。

 

現在でこそ金閣と銀閣で対ですが、慈照寺観音殿が銀閣寺と呼ばれるようになるのは江戸時代に入ってからです。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は世界遺産金閣寺を解説しました。

 

正確には、金閣寺は寺ではなく釈迦の骨や遺物を収めた舎利殿であり、構造も一階が公家の寝殿造り、二階が武家の書院造り、最上階が中国風の禅宗様と異なる建築様式を持つ義満の強いメッセージ性が込められた建築物である事がお分かり頂けたでしょうか?

 

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