NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 「諦めの悪い男」では、危篤状態の頼家の後継者として頼家の子で5歳の一幡を押す比企能員と、娘の政子が産んだ11歳の千幡を押す北条時政が衝突。比企能員の乱が発生しました。
この時政が押した千幡こそが3代将軍源実朝ですが、彼はどのような生涯を辿るのでしょうか?
この記事の目次
父は頼朝、母は政子のサラブレッドとして誕生
源実朝は建久3年(1192年)8月9日、鎌倉の北条時政の屋敷で誕生しました。幼名は千幡です。
父は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝、母は正室の北条政子で同母兄に二代将軍頼家がいます。実朝が誕生したのは頼朝が征夷大将軍に任命された年で、頼朝は千幡の誕生を殊の外喜んだとされます。
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比企氏に対抗すべく北条氏に擁立される
しかし、父である頼朝の死後、千幡と無関係に御家人同士の対立が激しくなります。兄であり二代目の鎌倉殿である源頼家は、外戚の比企氏を後ろ盾にしていました。
一方、千幡の乳人夫は政子の妹である阿波局と頼朝の異母弟である阿野全成で北条家で固められています。それでも兄の頼家が健在の間は対立がギリギリで抑えられていました。
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血塗られた政争を経て11歳で征夷大将軍へ
ところが頼家は建仁3年(1203年)急病に倒れ危篤となり早急に後継者を立てる必要が生まれ鎌倉はハチの巣を突いた騒ぎとなります。
頼家の乳人夫、比企能員は頼家の子で自分の娘が産んだ5歳の一幡を後継者にすると主張。これに対し北条時政は、僅か5歳では鎌倉殿の重責には耐えられぬとして頼家の弟である千幡を立てると聞きません。
結局、追い詰められた時政が先手を打ち、比企能員を屋敷に呼び出して殺害しました。時政は義時や政子と協力して比企一族を滅ぼし、5歳の一幡まで殺害すると千幡を3代将軍とするよう朝廷に許しを得ます。そして、奇跡的に回復した頼家を捕らえて伊豆に送り込むと刺客を放って殺してしまうのです。
かくして千幡は11歳で3代将軍となり、翌年、後鳥羽上皇より実朝の名を賜り、源実朝となりました。
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祖父、時政が政争にやぶれ伊豆に隠居する
元久5年(1205年)6月畠山重忠の乱が起こります。反乱は冤罪で武蔵国の支配を巡り重忠が舅の北条時政と対立したのが原因でした。重忠は、北条義時や和田義盛、三浦義村等に討たれますが時政と正室牧の方の強引な手法で、北条氏内部でも義時・政子vs時政・牧の方の対立が生じます。
牧の方は義時と政子が擁している実朝を疎んじ娘婿である平賀朝雅を4代将軍に就けようと画策。時政の屋敷で執務していた実朝の暗殺を謀ります。しかし計画は義時と政子に漏れ、政子は実朝を時政の屋敷から義時の屋敷に避難させました。
時政は兵を挙げますが、強引な時政に人気はなく鎌倉の御家人はほとんど義時と政子に味方、敗北を悟った時政は出家して伊豆に隠居し、二度と鎌倉に戻ることはありませんでした。
混乱続きの実朝ですが、幼少という事で政治に関与できず実権は母である政子が代行しています。実朝はその中で和歌に興味を持ち和歌を詠むようになっていきました。
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従三位に昇進し自ら政務を執る
建永元年(1206年)実朝は従四位下に昇進。母の命令で兄頼家の次男である善哉を猶子(相続権を持たない子)とします。この善哉が出家して公暁と名乗り、やがて実朝を暗殺するのですから運命とは皮肉なものです。
承元2年(1208年)2月、実朝は疱瘡を患いますが回復。
翌年には従三位に昇進して公卿に列席し政所を開く権限を得ます。実朝は16歳となり政子の補佐を離れて自ら政務を執るようになりました。
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御内人の台頭を見抜く
この頃、幕府の行政トップである政所別当(長官)になった北条義時が「私の家来を武士に昇格させて下さい」と頼んできます。当時、御家人は武士でしたが、御家人に仕える郎党は無位無官の存在でした。義時はその中で北条家の郎党だけを武士に昇格して下さいとズルを言い出したのです。
しかし実朝は許さず「こういう身分の卑しい連中を引きたてると、子孫の代になれば受けた恩義も忘れ、御家人を押しのけて高位高官に上ろうとし幕府の中で害を及ぼすだろう。だから絶対ダメ」と拒否しました。
義時は引き下がりますが、その後、北条得宗家の支配が強まると北条家に仕える下働きの郎党の力も強くなり、御内人と呼ばれる独自の権力を持つようになります。
やがて御内人は北条得宗家の権力を上回り、安達安盛のような外戚と対立。霜月騒動を引き起こして権力の頂点に立ち幕府を腐敗させました。実朝は、将来そのような事になる事を見越して義時の申し出を却下したのです。
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泉親衡の乱では首謀者以外、温情措置で臨む
建暦3年(1213年)御家人泉親衡が頼家の遺児を将軍として義時を討とうと企む謀反が発覚。そのメンバーに、侍所別当和田義盛の子、義直と義重や甥の胤長もいたために騒動となります。
命を狙われた形の実朝ですが、首謀者達の不満の根が恩賞の不足にあると知ると死罪を軽減する措置に出ました。これにより義直と義重の罪は許されますが、義盛の甥の胤長については首謀者であるとして許しません。
和田義盛は実朝に圧力をかけようと90名以上の一族を引き連れて御所に乗り込みますが実朝は意見を変えませんでした。これは実朝の意見というより、和田義盛排除を画策していた北条義時の思惑かも知れません。義時は、敢えて縄を打たれた胤長を和田一族の面前に引き立てて恥辱を与えるなど卑劣な事をしていて、挑発に乗った義盛は一族の三浦義村などに声をかけ義時討伐を考えるようになります。
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和田義盛の乱では北条義時に錦の御旗を授ける
同年5月、和田義盛は兵を挙げました。
義時はそれを聞くと幕府に参じて政子と実朝の妻を八幡宮に避難させます。義盛の軍勢は幕府を囲んで御所に火を放ち、実朝は火災を逃れて頼朝の墓である法華堂に避難します。
戦いは和田勢が優勢であり、3日間経っても決着がつきません。このまま和田勢が義時を破れば、北条氏の立てた将軍である実朝は廃嫡。最悪殺される恐れもありました。
そこで実朝が大江広元を呼ぶと広元は「和田義盛を逆賊認定し鎌倉中の御家人に鎌倉を守るよう命令を出すように」と助言を授けます。
この時まで、北条と和田の戦いはただの私戦でしたが、実朝が和田義盛を逆賊と認定した事で義時に味方する御家人が続出。孤立し援軍も見込めなくなった和田義盛は討死しました。
実朝は義盛から侍所別当の地位を取り上げ北条義時に与えます。この時、義時は軍事と行政の両方のトップとなり執権政治が確立しました。義時の権力は頂点に達しますが、この戦い、実朝の命令がなければ合戦はどう転んだか分からず、北条家も改めて将軍の威光を再認識しました。
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南宋に渡って前世で住んだ土地を見たいとワガママ
実朝は和歌をこよなく愛し、鞠はたしなむ程度、狩猟となると和歌に詠むくらいしか記録がない。大人しいインドア派将軍でしたが、建保4年(1216年)11月、突如として「前世で私が住んでいた宋の阿育王寺に行きたいから大船を建造して」とワガママを言い出します。
これは東大寺大仏の再建をおこなった宋人の陳和卿が「実朝公は菩薩の化身だから是非会いたい」と鎌倉にやってきて実朝と会見すると涙をこぼしながら「あなたは宋の時代、阿育王寺の長老で私はその門弟だったのです」とスピリチャルな事を言ったからです。
実朝は昔、別の僧侶に同じ事を言われ、それを誰にも言わずに黙っていましたが陳和卿に同じ事を言われて真実と確信「私が前世で住んでいた阿育王寺に行ってみたいの!」と義時や大江広元に打ち明けます。
阿育王寺は禅寺で、現在の中華人民共和国浙江省寧波市に位置し沿岸部です。当時は南宋の都があり、宋船で往来している人にとっては身近で繁栄している寺でした。
しかし、現役の征夷大将軍が中国に渡るとなれば話は別です。
義時も広元も「万が一の事があっては…」と再三止めますが実朝は聞きません。大船は翌年4月に完成し、由比ヶ浜から海に向かって曳航されますが船は浮かばず、そのまま浜に遺棄されました。
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昇進を重ねるも子供がいない実朝
建保5年(1217年)6月、園城寺で学んでいた猶子の公暁が鎌倉に帰還、政子の命令で鶴岡八幡宮別当の地位に就きます。翌年、建保6年(1218年)1月実朝は権大納言に任じられました。
急速に昇進する実朝ですが、一方で子供が生まれず病弱である事が母、政子の悩みでした。天台宗の僧侶、慈円が書いた「愚管抄」によると政子は後鳥羽上皇の乳母である卿局と対面し、実朝の後継者として後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に下向させる事を約束したとされています。
このプランが実朝暗殺後、承久の乱を経て摂家将軍の誕生へと繋がっていきました。
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鶴岡八幡宮で公暁に殺害される
建保6年12月、九条良輔の薨去で空位になった右大臣のポストに実朝が就任、これは武士としては初めての任官でした。この記念すべきメモリアルを鶴岡八幡宮に報告すべく、実朝は建保7年(1219年)1月27日、雪が60センチも降り積もる中で八幡宮拝賀を迎えます。
そして夜、拝賀を滞りなく終えて退出して石段を下りている途中「親の仇はかく討つぞ」と叫んで物陰から出てきた公暁に襲撃されました。承久記によると実朝は公暁の一太刀を笏で防いだものの、二太刀目は阻止できずに致命傷を負い「広元はどこか?」と呟いて死去したそうです。満年齢で26歳でした。
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源実朝暗殺の黒幕は?
さらに公暁は太刀持ちだった源仲章に襲い掛かり斬殺します。無関係な仲章が襲撃された理由は、当初実朝の太刀持ちを義時がやる事に決まっていて、公暁が仲章を義時と誤認したからのようです。
義時は体調不良を訴えて太刀持ちを源仲章と代わってもらったとも、実朝の命令で本宮には入れずに途中の中門に留まっていて難を逃れたとも言われています。
公暁は実朝の首を獲り逃走、乳人父の三浦義村に「征夷大将軍に就任する準備をせよ」と伝令を出します。しかし、義村は義時が死んでいない事を知って日和ったのか、公暁に迎えを寄こすと嘘の伝言した上で追手を集め、将軍殺しの罪で公暁を殺害しました。
しかし、公暁に信じられている義村なら、話に乗ったフリをして公暁を生け捕りにするのも出来なくなさそうですが即座に斬り殺しています。もしかすると生け捕りにされた公暁に取り調べで喋られると都合が悪い事実があったのかも知れません。
実朝暗殺については、北条義時黒幕説や、三浦義村黒幕説、また公暁の単独犯行説もあります。個人的には公暁の単独犯なら事前に情報が漏れる可能性もほぼなく、成功しそうに思えますが実際の所は分かりません。
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温厚で和歌を愛した将軍実朝
実朝は蹴鞠狂いの兄、頼家と異なり蹴鞠にほぼ関心を示しませんでした。一方で和歌にのめり込み、個人的な歌集である金槐和歌集を編纂。また度々歌会を開催して御家人と歌を詠み、小数ではありますが後世の人間から絶賛される名句を残しています。
当時、心の繊細な機微を読むものだった和歌の世界で、実朝は内心を離れて場面の情景描写を試み、例えば冬の荒磯に押し寄せる荒々しい浪の力強さを詠んだ
「大海の 磯もとどろに よする浪 われて砕けて 裂けて散るかも」や、那須の篠原での狩を前に箙の中の矢を整える御家人の様子を詠んだ
「もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に 霰たばしる 那須の篠原」など自分の目で見た情景を歌に織り込む斬新な手法を駆使しました。
実朝は慈悲深く、失態を犯した部下に対しても死罪のような残酷な刑をせず、出仕の停止や謀反でも未遂なら流罪などに留めるなど武断から文治への転換の様子が窺えます。また和歌を詠んで不遇を訴えた御家人に、実朝が同情して領地を与えた話もあり、実朝が和歌を通した御家人とのコミュニケーションを大事にしていた様子が分かります。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、頼朝直系では最後の鎌倉幕府将軍となる源実朝を解説しました。
実朝は京文化に憧れ、和歌に造詣が深く病弱であるなど、草創期の鎌倉幕府将軍としてはやや頼りない人でしたが、物事の道理を曲げる事がない毅然とした性格で、同時に父の頼朝や兄の頼家には欠けていた慈悲深さをもっていました。
北条家に擁立された将軍であり、判断が北条家に有利に働く事はあったのですが、威光がまるでないわけではなく、和田合戦では実朝が和田義盛を賊と認定した事で、義時は官軍となり鎌倉御家人が一気に義時に加勢して義盛を破るなど、侮れない存在感を持っています。公暁に暗殺されなければ、次第に老練な政治家として成長し、養子を迎えて将軍を譲り、源氏将軍はその後も継続したのではないでしょうか?
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