江戸時代や室町時代にない鎌倉時代の政治の特徴に執権政治があります。鎌倉幕府を樹立した源氏の血筋は3代で途絶え、以後は北条氏が代々執権として政治を運営する形式が確立しますが、そもそも執権とは何なのでしょうか?
今回は鎌倉時代の政治の特徴である執権について分かりやすく解説します。
2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」北条氏が幕府を掌握するまでスッキリ解説!
この記事の目次
執権とはそもそも何?
では、そもそも執権とはなんなのでしょうか?
執権とは平たく言うと勢力の大きな豪族や王族が個人的に雇っていた使用人の事でした。大和朝廷が律令制に移行する際に王族や豪族が私的に所有していた使用人に朝廷から官位を与えて朝廷の仕組みに組み込んだのが最初だったのです。
鎌倉幕府執権も、源頼朝が三位に叙爵され公卿になった時に設置を許された政所という機関の家司という職員のリーダーが執権と呼ばれたのに由来します。
元々、政所は源頼朝家の家政を担当する役所でしたが、頼朝はこれを拡大し東日本の御家人を支配したので執権は鎌倉幕府の権力の象徴になっていったのです。また、執権北条時政は頼朝の妻、政子の父であり頼朝の舅なので家司の仕事に最適なポジションという事もありました。
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鎌倉将軍を補佐する執権
執権とは鎌倉幕府将軍を補佐する立場として登場し、後には将軍を抑え幕府最高権力者が就任するようになった役職です。しかし、鎌倉幕府が樹立した当初から執権が存在したのではありません。初代将軍である源頼朝は抜群の政治力とカリスマ性を保持し執権の補佐など必要なかったからです。
では、いつから執権が必要になってきたのでしょうか?
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源頼家の統治力不足から執権が登場
1198年、鎌倉幕府初代将軍源頼朝は落馬が原因で死去します。
2代将軍は息子の源頼家が就任しますが、父である頼朝にはカリスマ性でも指導力でも遥かに及びませんでした。
御家人たちの中でも頼家に従うべきだとする勢力と頼家では頼りにならないから頼家だけではなく、有力な御家人を政治に参画させるべきとする意見が対立。
この中で頼朝時代からの重臣である北条時政が有力御家人十三人の合議制による政治を唱え、将軍独裁を標榜する頼家と有力御家人比企氏と激しく対立しました。
こちらがNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のタイトルの由来です。
建仁3年(1203年)源頼家が病に倒れると北条時政は比企能員を自邸に呼び出して謀殺。すぐに兵を挙げて頼家の嫡子一幡が養育されている比企氏の屋敷を襲撃して滅ぼし、頼家の将軍位を廃して伊豆の修善寺に追放しました。
時政は自身の孫である12歳の源実朝を3代将軍に擁立、政所別当と共に執権職に就きます。諸説ありますが、これが鎌倉幕府における執権の始まりとされます
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和田義盛を滅ぼし執権の独裁が完成
こうして幕府政所を牛耳った執権北条氏ですが幕府にはもうひとつ幕府軍の軍事力を握っていた侍所という重要なポストがありました。当時の侍所別当(長官)は和田義盛という御家人でしたが、執権北条氏としては侍所も支配して軍事クーデターの芽を摘んでおかないといけません。
父である北条時政を追放した後、執権の地位に就いた北条義時は1219年和田義盛を挑発して合戦に誘い込む事に成功、和田合戦において和田氏を滅ぼし、侍所別当の地位も手に入れました。
同じく1219年には3代将軍実朝も、源頼家の遺児公暁に暗殺されます。実朝には子供がなく、これで河内源氏の嫡流は断絶、以後幕府では京都から公卿将軍を迎え、鎌倉将軍の地位は形骸化、執権による独裁が完成しました。
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北条泰時が執権をマイルドに
しかし、執権を北条氏が独占する事で今度は、政治から締め出された御家人の不満が北条氏に集まる可能性が出てきました。そこで北条義時を継いで執権になった北条泰時は幕府内に評定衆を設けて合議制を取り入れたり、御成敗式目を制定してサムライ社会の掟を成文化して政治の指標にしようとしました。
泰時がこのように政治の公平性に気を配った影響で内紛ばかりだった鎌倉幕府は安定し、しばらく平穏な政権運営が続きます。
北条時頼以来執権が有名無実に
こうして鎌倉幕府の最重要ポストになった執権ですが、代々北条時政家系の得宗家が世襲した影響で執権ではなく得宗家が権力を持つようになります。鎌倉幕府5代執権の北条時頼は隠居して執権職を譲りますが、その後も権力を握り続けたので、やがて執権職が有名無実化していきました。
北条得宗家に権力が集中すると、全国の守護や地頭は全て北条家やその縁故の人々が任命されるようになり、蒙古襲来後は生活が苦しくなった御家人や武士たちの恨みが富を独占する北条得宗家に向けられるようになり、鎌倉幕府が倒れる原因となります。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で必ず登場する執権というポストについて、その成り立ちから解説してみました。
元々は、公卿になった頼朝の家の私的な家政機関だった政所の家司のリーダーが執権と呼ばれ、幕府勢力が拡大するに従い政所の権限も拡大し源家の使用人だった執権が公的な絶対権力者になっていったと考えれば間違いないと思います。