平盛綱は鎌倉時代初期に活躍した武士で、執権北条氏の御内として家令(執事)を勤めました。大河ドラマ鎌倉殿の13人では戦争孤児の鶴丸として登場し、将軍ではなく義時や泰時に忠実に仕える盛綱ですが、彼の子孫は鎌倉幕府を牛耳るほどに急成長していくのです。
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この記事の目次
父は平資盛の子とされるがハッキリしない
平盛綱の父は、平清盛の子、重盛の次男資盛であるとされています。
平重盛は清盛の後継者と目され、その嫡男の維盛、次男の資盛も伊勢平氏の後継者として扱われていましたが、清盛の継室、平時子の妹や娘が後白河天皇や高倉天皇に嫁ぐと、時子との間に生まれた平宗盛や平知盛が後継者として目されるようになります。
さらに、重盛が清盛より先に死去すると重盛の家系は没落し、宗盛が棟梁となった平家一門からも冷遇されるようになりました。資盛は都落ちし源頼朝と徹底抗戦しようとする平家一門とは違う動きを模索しようと画策しますが、運命には逆らえず壇ノ浦の戦いで敗れた後、海に身を投げて自殺したとされています。(異説あり)
平盛綱は、この資盛の子や曾孫とされていますが確かな証拠はないようで、北条氏に古くから仕える郎従ではないかという説もあります。
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最初の登場は承久の乱から
平盛綱が最初に登場するのは幕府の公式歴史書「吾妻鏡」で、承久の乱で北条泰時に従って上洛した18騎の中に含まれていました。反乱が鎌倉幕府の勝利で集結すると盛綱は戦後処理のために安芸国巡検使として安芸国に赴き、乱における死傷者や手柄を調査して交名(合戦に参加した武士の名簿)を提出しています。
この働きから盛綱は取り立てられ、同じく御内人の尾藤景綱と共に泰時の使者を勤めるようになり、伊賀氏の乱の処分時には記録係となり、さらに北条得宗家の家令となった景綱と共に北条氏家法である「家務条々」を制定するなど行政官として活躍しています。
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御家人と被官(御内)はどう違う?
鎌倉時代には将軍を差し置いての北条得宗家の独裁があり、御家人と北条氏に仕える被官の立場がごちゃごちゃになっているので、ここで整理しましょう。
御家人とは、鎌倉幕府の将軍と主従契約を結んでいる身分の人々です。この中には得宗家である北条氏も含まれていて将軍に忠義を尽くす事が求められます。
一方で被官は御内とも呼ばれ御家人に仕える家来です。被官は将軍と主従関係になく従う義務もありませんが、主人である御家人が将軍に仕えているので間接的な主従関係は結ばれています。
平盛綱のような存在は御内で、将軍とは主従関係に無いので主人である北条氏を優先する事になります。そのため御家人から見ると自分達より格下の御内が北条氏に媚びて権力を自在に操るように見えていました。ただ、御内には元々御家人で将軍と北条得宗家に二重に仕えている人も多くいますし、純粋に御内だった人間でも幕府内で出世する中で役職を得て御家人を兼職するケースもあります。
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家令となり得宗家執事の頂点に立つ
盛綱は、文暦元年(1234年)頃、京都大番役を勤める御家人の連絡担当となり、侍所の所司を勤めたのではないかと言われています。侍所所司は鎌倉幕府の軍事を司る別当の次官であり、防衛次官のポストでした。
同年には、先任の景綱の跡を継いで北条得宗家の家令の地位に就き、北条家の家政を取り仕切、執権の命令書である奉書を発給できる北条氏配下の頂点に立ちます。
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泰時が死ぬと出家し歴代執権を支える
仁治3年(1242年)3代執権、泰時が病死すると盛綱も出家して隠退し盛阿と名乗ります。しかし、完全に隠居したわけではなく、その後も経時、時頼と歴代執権に仕え、宝治合戦の直前には、北条時頼の命令で三浦泰村の屋敷に和平の使者として向かった事が記録されています。
ただ、この時は三浦一族滅亡を企む、安達泰盛が先手を打って三浦屋敷に攻め込み、盛綱の仕事は失敗に終わりました。盛綱の没年については、建長元年(1249年)頃と推定されますが、弘長3年(1263年)まで生存していたとする説もあります。
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二度にわたり幕政を牛耳る子孫
平盛綱は終生、北条氏の被官としての立場を忘れず野心を見せる事はありませんでした。しかし、孫の平頼綱の時代になると執権北条時宗の子、貞時の乳夫となったのを足掛かりに幼い貞時の後見人、内管領として幕府のポストを兼任、恐怖政治を敷いて鎌倉に君臨します。
頼綱は成長した貞時に恐れられ、平禅門の乱で誅殺されますが、頼綱の一族は生き残って長崎氏と名乗り、鎌倉末期の嘉元の乱(1305年)以後は盛綱の玄孫長崎円喜が台頭。再び、幕政を牛耳るなど二度に渡って北条氏を差し置いて下克上を成し遂げています。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、将軍ではなく北条氏に忠誠を尽くして出世した平盛綱を解説しました。
元々、北条氏の家来にすぎず、将軍から見れば家来の家来として卑しまれていた被官の盛綱ですが、得宗家の権力が強大化すると、その得宗家の行政を司る被官の権力も強大化していき、孫や曽孫の時代には北条氏の権力を上回る程に成長したのです。
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