NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、第14話「都の義仲」では、ひたすらに合戦に出る事を望んでいた源義経に頼朝から平家追討の総大将とする命令が下りました。
喜び勇んでいる義経ですが、この時義経に与えられた軍勢は僅かに600騎に過ぎず、どう考えても平家追討軍としては見劣りします。本当に頼朝は義経を平家討伐の総大将に任命したのでしょうか?
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本当は頼朝が上洛する予定だった
現代の私たちは源義経が壇ノ浦で平家を滅ぼした事実を知っているので最初から平家追討の総大将だと思ってしまいます。しかし、実際には最初、上洛する予定だったのは源頼朝でした。
寿永2年(1183年)7月、頼朝のライバルである源義仲が平家の大軍を倶利伽羅峠で撃ち破り、京都から平家を追い払い上洛を果たします。ところが後白河法皇は都の習慣に疎く、部下の略奪を取り締まれず平家を追討できず、皇位継承問題に口を出す義仲を早々と見切りました。
そして鎌倉にいる頼朝に上洛を促して宣旨を与えます。こちらの宣旨は東国の行政権を頼朝に認めるというもので朝廷により鎌倉幕府が承認された形になりました。
宣旨を受けた頼朝は同年10月5日に鎌倉を出立しますが、平家の都落ちに同調せずに京都に残り頼朝に降伏した平頼盛から京都が深刻な食糧不足であると聞くと義仲の二の舞いになる事を恐れて上洛を断念したのです。
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自分の代理人として、義経と中原親能を派遣
そこで頼朝は自分の代理として義経と朝廷との交渉役として中原親能を都に派遣する事にします。
九条兼実の日記である「玉葉」には頼朝の弟九郎(実名知らず)大将軍となり数万の軍兵を統率し上洛を企てるとあり、これが貴族の日記に源義経が出現した最初であるようです。しかし、玉葉では数万と書いているものの、実際に義経に与えられた兵力は500~600騎に過ぎませんでした。
もちろん、これだけの兵力で上洛は不可能で、義経の征討軍も伊勢に出現した平家の残党を討伐するとした名目です。つまり義経の平家討伐軍は、そんなに華々しいものではなく、鎌倉からひっそりと出陣して、後は京都の状況次第で行動を変化させるアリバイ作りのようなものでした。
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伊勢まで進軍した所で義仲が法皇を幽閉
しかし、義経は何かを持っている武将でした。上洛出来ずのろのろ移動している間に源義仲と後白河法皇が、頼朝に対する対応を巡り決裂し法住寺合戦が起き義仲は法皇を幽閉したのです。
この政変は法皇の配下である大江公朝などにより伊勢国に移動していた義経と親能にも伝えられました。
義経は急いで飛脚を立てて鎌倉の頼朝に連絡すると、同時に義仲追討の軍勢を伊勢で募集。和泉守平信兼と連携して兵力を増強します。後に義経郎党になる伊勢義盛も、この時に義経の配下に入ったようです。
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頼朝が総大将、源範頼を派遣
義経から連絡を受けた頼朝は大喜びで朝敵となった義仲を討つべく、もう1人の弟、源範頼に大軍を与えて総大将とし派遣しました。ここから見ても分かる通り、どっちかというと頼朝は範頼の方に信頼を置いていたようです。
翌年、寿永3年(1184年)1月20日、範頼は近江瀬田、義経は山城田原から総攻撃を開始します。義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って上洛、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られました。
本来ならば上洛は義経ではなく、総大将である源範頼がやりそうですが、率いている軍勢が大軍なので上洛して京都の食糧事情を圧迫しないようにと予め頼朝から釘を刺されていたので京都に入れなかったのです。
しかし、上洛した義経のイメージは鮮烈で裏方として平家に睨みを効かせていた範頼の立場は相対的に地味になり、義経が平家追討の総大将のようなイメージがついてしまいました。
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一ノ谷の戦勝で義経、主役の座をゲット
実は上洛した義経は大失態を犯しています。朝廷に仕える「史大夫」が平家への密書の仲介をしたという情報を掴んだ義経は「大夫史」の小槻隆職の屋敷に踏み込み門外不出で複写も許されない宮中の重要文書を勝手に証拠品として持ち去ったのです。
これは義経が「史大夫」と「大夫史」の役職の区別がつかず別人の屋敷に踏み込んだというお粗末な事件でしたが、公卿たちの不評をかいました。下手をすると配下の乱暴狼藉を取り締まれなかった義仲と同じ運命を辿りかねない義経でしたが、ここで福原にまで勢力を回復した平家を討伐せよとする命令を受けます。
この一ノ谷の戦いでは、引き続き源範頼が総大将として大手軍3万騎を率い、義経は搦手軍1万騎を率いました。
大手の範頼は東側から正面攻撃をかけて生田森で激戦を展開、陣地を構築していた平家の弓の前におびただしい死傷者を出しますが、その間に搦手の義経軍が迂回して背後に回り込んで背後から平家軍を衝いて撃破する事に成功します。
こうして都における義経の人気は回復して不動のモノになり奇襲の鮮やかさから名将として記録される事になるのです。しかし、実際には一ノ谷の戦いでは、範頼の大手軍が犠牲を引き受けて平家本隊の注意を引きつけた事で義経が奇襲を掛けられる隙が生まれた事も忘れてはいけないでしょう。
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日本史ライターkawausoのまとめ
時系列を整理すると、最初に上洛軍を率いるのは法皇の宣旨を受けた頼朝本人でした。
しかし、降伏した平頼盛が都の食糧不足を説明した事で、義仲と同じ轍を踏む事を恐れた頼朝は出陣を見送り、京都の法皇とコンタクトを取り、伊勢の平家残党を掃討する名目で、源義経と中原親能を京都に派遣します。
ただ、この軍勢は僅かに5~600騎と上洛などおぼつかない数でした。ところが、義経が伊勢についた段階で義仲が法皇を幽閉する法住寺の戦いが発生。義経から連絡を受けた頼朝は、義仲を滅ぼし上洛する好機として、もう1人の弟範頼に大軍を与えて伊勢の義経と合流させたのです。
義経も伊勢で義仲追討の軍を起こして兵力を集めますが、立ち位置としては範頼が主力、義経は遊撃という感じでした。その後の平家追討でも本隊を率いたのは範頼で義経は搦手を任されていて、これらを総合すると頼朝が平家追討の総大将としたのは範頼であったと考えるのが自然です。義経は何かを持っている人物で幸運に恵まれて大勝利を重ねますが、あくまでも二番手であり範頼の副将だったとkawausoは考えます。
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